花言葉って色々あるのでつい使ってしまいます
「……懐かしいな」
ペラリとアルバムのページをめくる度、あの頃の景色が蘇る。
例えば食堂での写真。にんじんハンバーグの香りと周りの喧騒が頭に浮かんでくる。
例えばレース後の写真。流れる汗が胸の高鳴りに合わせて次第に熱を帯びていく感覚。そして、観客席から降り注ぐ熱狂的な歓声が耳の奥に響いてくる。
ああ、本当に懐かしい。だけど、こんなものを見つけるべきじゃなかった。せっかくの掃除の時間がどんどん削られてしまう。
それでも、緩んでいく頬とページをめくる指先は止まってくれなかった。
「……!」
何気なく次のページをめくると、ある写真に目を奪われ、一瞬にして鮮烈な記憶が流れ込んでくる。
忘れるわけがない。
思い通りにいかない日々に涙して、それでもなんとか立ち上がり、ただひたすらに走り抜けた先の栄冠を。
忘れるわけがない。
「菊花賞……か」
嬉しそうにレイを首に掛けている、写真の中のあたしを指でなぞる。
ふふ、泣きながら笑ってる。無理もないよね、やっと手に入れた勝利なんだから。
そのままその頬にそっと触れると、涙の熱まで伝わってくるような気がした。
考えてみたら、あれからもう何年も経つ。それでもこんなに鮮明に蘇るんだから、思い出というのはいつまでも色褪せないんだね。
「——っていけない、いけない。そろそろ掃除を再開しなくちゃだよね」
なんて、感慨に耽っている場合じゃない。
大きく首を振り、バタンとアルバムを閉じる。
そのままヒョイッと持ち上げると、本棚の空いていた隙間に押し込んだ。
「さぁて、お掃除お掃除♪」
傍らに置いていた掃除機を手に取ると、何事もなかったかのようにスイスイと動かしていく。
鼻歌交じりに、隅から隅、細かいところまでしっかりと。
掃除機をかけた跡がキラリと輝く——なんてのは無理だけど、振り返れば一目瞭然なくらいには綺麗になっていた。
「……これがお助けキタちゃんの真髄……」
へへ……なんて、独り言も言ってみちゃったりして。
少し痒くなった頬を掻きながら棚の上に目を向けると、何も生けられていない花瓶がポツンと寂しそうに置かれていた。
「そういえば、そろそろかな?」
花瓶から視線を戻して残りの掃除に取り掛かると、あっという間に時間は過ぎていった。
◇◇◇
「あっ、この時も写真撮ってたんだ」
家事も一段落した頃には、外はもう赤く染まっていた。
彼の帰りを待つという建前で、しまったばかりのアルバムをもう一度手に取る。
ペラリとめくったページの先に写っていたのは、学生時代を終えた後のあたしだった。
年甲斐もなくピースサインをする反対の手には、菊の花が大事そうに握られていた。
「そっか、この時は黄色の菊だったっけ」
一年に一度、菊が綺麗に咲くちょうど今頃の季節。あの日から、彼が一輪の花を贈ってくれるようになった。
『菊の時期に咲き誇った君に相応しいかなって』
彼にしては珍しく、視線を彷徨わせながら真っ赤な顔で差し出してきたのを覚えている。今ならきっと、軽口の一つでも返しつつ、鏡合わせみたいに頬を染めて受け取れるはずだ。
だけど、あの頃のあたしはそういう耐性が全然なくて、それこそ初心で無垢な花そのものだった。
『あり……がとう……ございます……』
たどたどしくそう返しながら、火照る頬に気づかないふりをして受け取ることしか出来なかった。
ああ、こんなことまで事細かに思い出せるなんて。本当に写真って厄介だ。
そこに写る菊の花を優しくなぞって、空の花瓶に視線を向けた。
「キタサン?」
すぐ後ろから聞こえた愛しい声に、ピンと耳と尻尾が立ち上がる。
ドクドクとうるさい心音が頭の奥まで響き、自然と上がる口角は下がってなんてくれない。
弾かれたように振り返ると、彼は何故かギュッと目を瞑り、顔をしかめていた。
「あれ、旦那さん? なんでそんな顔をしてるんですか?」
「い、いや……急に声を掛けた俺が悪いから、気にしないでくれ」
「は、はぁ……? なんだかよく分からないですけど……」
困ったように笑う彼を首を傾げて見上げるけれど、答えなんて出てこない。
ただ、妙に温かい尻尾の先を撫でてみると、不思議と胸の奥が満たされていった。
「それより、アルバム見てたのか?」
「あっ、はい。掃除してたら目に入ったのでつい……って、ちゃんと掃除は終わってますからね!」
「はは、そこは心配してないよ」
微笑んだまま、彼はあたしのすぐ隣に腰を下ろす。
あんな風に言っちゃったら、言い訳してるみたいだったかな?
ちょっぴり気恥ずかしくなったけれど、すぐに笑みを返し、彼の肩にそっと頭を預けた。
「おっ、この写真か」
「旦那さん、この時のこと覚えてますか?」
「……まあ、うん。初めて君に菊の花を贈った日のことだからね。忘れないよ、うん……」
ふむぅ……言葉はともかく、言い方にちょっと違和感があるような。……ははぁん、なるほどなぁ。
「本当にそれだけですか? 実は照れちゃったことも思い出してるんじゃないです?」
「うっ……。そ、そうだよ。悪いか?」
顔を見なくても分かる。この声色は拗ねてるやつだ。口もへの字にしてるに違いない。
ニヤニヤが隠せなくて、自分でもちょっと意地の悪い表情になっている気がした。
「でも、君だって見てられないくらいに顔が真っ赤だっただろう? 人のことを言うのは良くないぞ」
「ぐっ……そ、それは……まあ……はい……」
やり返された。この声色は諭してくるやつだ。ま、まぁ今回は痛み分けってところかな?
むすっと唇を尖らせてみるけれど、なんだか可笑しくて、ふっと笑みがこぼれた。
「……ふふ、これくらいにしようか」
「……そうですね」
さらに体重を預けて、彼の肩に頭をすり寄せる。グルリと腰に回した尻尾から伝わる体温が、そのまま目を閉じてしまいそうなくらい心地良かった。
「……その、この流れで渡すのはちょっと気が引けるんだけど、良いかな?」
頭の先から尻尾まで響く優しい声。だけど、心地良さなんて吹き飛ぶくらいの言葉に、つい耳がピクリと動いてしまう。
「……はい、いいですよ」
初心な少女でもあるまいし、今さら何を動揺しているんだろう。
頭では分かっているのに、頬は燃えるように熱い。これじゃあ写真のあたしを笑えないね。
いつの間にかギュッと握りしめていた手の力を、なんとか抜いた。
「……えっと、キタサン。これを受け取ってほしい」
向き合うように、彼は真っ直ぐにこちらを見据える。
肩に頭を預けていたせいで、顔を上げると鼻と鼻がくっつきそうな距離。誰かに背中を押されたら、そのまま唇まで重なってしまいそうだ。
そんなことを考えているあたしをよそに、彼は硬い表情のまま、わずかな隙間にぎこちなく花を差し出した。
「……こ、今年も赤色の菊なんですね」
いつからだろう。彼が渡してくれる菊が、赤色に変わったのは。
少なくとも付き合い始めた頃は、この写真と同じ黄色だったはずだ。
「もしかして、あんまり好きじゃなかった?」
「い、いえいえ! そんなことは! むしろ菊の花、大好きですよ!」
「そ、そうか……」
サッと青くなる彼。ワタワタと手を振って否定すると、彼はホッと大きなため息をこぼした。
「ただその、菊といえば黄色ですし。それにほら、この写真の時もそうだったのに、いつの間にか赤色に変わったなぁって思いまして」
「……」
写真を指差して言うと、彼は何故か顔を背けた。そのまま天井や床へ視線を泳がせている。
……あっ、なんとなく分かったかも。
ニヤニヤと緩んでいく表情をなんとか引き締めてみるけれど、とても我慢できそうにない。
次の瞬間、意を決して彼はこちらへ向き直る。その射抜くような視線は、あたしを固まらせるには十分過ぎた。
「……和服の似合う君には、菊が相応しいと思ってね。それに赤い菊には……『愛情』って意味があるから」
か細く裏返るような声で、なんとか紡がれた言葉。
何年経っても変わらない彼の照れた顔。だけどそれは、きっと鏡合わせなんだと思う。
差し出された菊は鮮やかな赤で、彼の頬の赤と、あたしの頬の赤を際立たせるように咲き誇っていた。