「キタサン、最近はよくコーヒー飲んでるよな」
思いがけない言葉に、あたしは目を丸くした。
コクン、と小さな音が喉の奥で鳴る。
通り過ぎていく熱感を見送ってから、カップをソーサーにコトリと置いた。
急に何を言ってるんだろうか?
視線を上げると、向かいの旦那さんと目が合った。
「そうですか?」
「ああ。だって今までなら、こういうお店ではお茶を頼んでただろ?」
「う~ん……まぁ、確かに?」
彼の言葉に頷きながら、ぐるりと周りを見渡してみた。
揃いではないのに不思議と調和しているヴィンテージの椅子。控えめな光を放ち、優しくテーブルを照らす琥珀色のペンダントライト。焙煎された豆の香ばしい匂いと、木材の柔らかいぬくもりに包まれたこの空間は、なんだかとても落ち着く。
以前のあたしなら、こういう場所では紅茶を頼んでる気がする。……まあ、本音を言えば緑茶の方が好きだけど、流石に場の雰囲気を考えたらね。紅茶の方が合ってそうだし。
「……大人になったのかも、しれませんね」
もう一度カップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを口に含む。
ぶるりと身を震わすほどの苦味に耐えながら、なんとかソーサーへ戻した。
ふふ……これが大人か……。いつの間にかそうなってたんだね……。
「……………………そうだな」
シュガーポットから角砂糖をつまみ入れているあたしを見ながら、旦那さんは何故か笑いを堪えるように頷いていた。
何か面白いことでもあったのかな……?
首を傾げつつ、再びコーヒーをコクリと飲み込む。
僅かに残る苦味に目を瞑ってしまうが、さっきよりも飲みやすくなっていて、自然と頬が緩んだ。
よし。あともう一つくらい入れたら、ちょうど良くなりそう。いや、今で三個目だし、これ以上入れるのはどうなんだろう? う~む……。
「……ふふ」
シュガーポットとにらめっこをしていると、堪えきれないような小さな笑い声が聞こえてきた。
顔を上げると、旦那さんは口元を押さえて俯いていた。
「どうかしましたか?」
「い、いや……なんでもない……なんでも……ふふ」
「??」
かなりツボに入っているらしく、笑いが止まる気配が無い。
あたしは頭にハテナを浮かべたまま、再びコーヒーを口に運んだ。
……うーん、やっぱりまだニガニガする。もう一つ、お砂糖を入れるべきかも?
「そ、それは置いといて! いつから飲むようになったんだろうね?」
妙に焦ったような口調の旦那さんは、あからさまに視線を泳がせていた。
何かを誤魔化したいのは丸わかりだけど……まあ、いっか。それよりも彼からの質問の方が大切だ。
あたしはコト、とカップをソーサーに置き、ちゃんと思い返してみた。
「う~ん……少なくとも学生時代ではないです」
今もそうだけど、あの頃のあたしはとりわけ甘いものに目がなかった。
特に金平糖みたいな砂糖菓子! あれは口に運んだ時の感触も良いんだよね……。ガリッと噛むと甘さが口全体に広がって幸せを実感できるし、何よりも星みたいにキラキラした見た目が最高で……。
……いやいや、今はそれは置いとかないと。いらない雑念が入ってしまった。反省、反省……。
「となると、卒業してからか……」
「そうなりますね……」
考え込むように視線を落とした旦那さん。
頭の中を整理しているのか、彼はゆっくりとカップに手を伸ばし、一口だけコーヒーを含んだ。
「ふふ♪」
無意識のうちに笑みがこぼれていた。
なんだか妙に嬉しくて、彼の何気ない仕草に心を奪われてしまったからだ。
だけど、こんな光景なんていつも見ているはず。なんであたしは、今更になって気になっているんだろう?
「……あっ!」
ある答えに行き着いた瞬間、あたしの耳はピンと立ち上がった。
思わずこぼれた大きな声に、彼はカップを口元で止めたまま、目を丸くしてこちらをジッ……と見つめている。
「あ、あはは……つい大きな声が出ちゃいましたね……」
かぁ〜……と一気に頬が熱くなる。誤魔化すようにパタパタと揺れる尻尾を落ち着かせたくて、あたしは素早くカップを掴み、コクリとコーヒーを流し込んだ。
だいぶ温度が下がってきたコーヒーでも、この顔の熱を冷ますことはできなかった。
「……いや、大丈夫だよ。それよりもキタサン、何か思い当たることでもあったのかい?」
「そ、そうでした!」
パタパタと揺れる尻尾はそのままに、あたしはしっかりと彼の瞳を見つめ返した。
「ごほん! ……あたしはですね、貴方のことが大好きです!」
「あ、ありがとう……。だ、だけどそれとコーヒーに何の関係が……?」
「まぁ、聞いてくださいよ!」
ペンダントライトの灯りを差し引いても分かるくらい、旦那さんの頬は真っ赤に染まっていた。
あたしは左手をスッと前に伸ばし、困り眉で首を傾げている彼に待ったをかける。
――本題はここからです。きっと、納得してもらえますから。
「それでですね、あたしは貴方をずっと見ていて、気づいたことがあります」
「……それは?」
「貴方はコーヒーを好んで飲んでいる」
「そう、だな?」
学生時代を一緒に走り抜けて、卒業して、付き合うようになって、結婚までしちゃって。
長い長い付き合いの中で見つけた大切なもの。その一つが彼の好みだ。
あの頃は集中するために飲んでいるんだと思っていたけど、そうではなくて。
ドリップコーヒーだけじゃなく、インスタントコーヒーでも弾むような笑顔を見せ、様々な種類のコーヒーの香りを楽しみ、飲み終わった後にはホッと穏やかな顔で和んでいる。
そんな貴方の姿を、想いを通わせ、好きを重ね合うことで、あたしは初めて知った。
「だけどあたし、コーヒーってあまり飲んでこなかったじゃないですか」
「そうだったね」
別に嫌いだったわけじゃなく、ただお茶の方が好きだっただけ。
だから、わざわざコーヒーの美味しさを知ろうともしなかったし、別に知らなくてもいいと思ってた。
「でも、貴方への想いが強くなるにつれて、貴方の好きをあたしも好きになりたかった」
大好きなヒトの好きが、あたしの好きになれたなら。
あたしの中の「大好き」が、もっともっと広がっていくと思ったんだ。
……あれ、ということは。
「そっか、そうだったんだ……。さっきは大人になったなんて言っちゃったけど、そんなことじゃなかった。あたしはただ、貴方の好きをあたしの好きにしたかった、ただそれだけだったんだ」
口に出してみると、自分でも驚くほどあっさりと腑に落ちた。
なんだ、こんなに単純な理由だったんだ。
胸の奥にチクリと引っかかっていた小骨は、スッと綺麗に消えていった。
「まあ、旦那さんみたいに味わって飲む! というのは、まだまだ難しそうですけどね、あはは♪」
晴れやかな気分で、彼の方へと視線を戻す。
そこに映っていたのは――
「……そうか」
もうペンダントライトの灯りなんて関係ないくらい、顔中を真っ赤に染め上げた彼の姿。
今度は、あたしの方が目を丸くする番だった。
「ど、どうしたんですか? そんなに顔を赤くして」
「……ふぅ」
首を傾げるしかないあたしの前で、彼は下を向いたまま、呆れ半分といった様子で長くため息をこぼした。
それはきっと、必死に気持ちを落ち着かせようとするための深呼吸だ。
やがてゆっくりと顔を上げた彼の頬には、まだ強い赤みが残り続けている。
「なんでこう……照れずに言えるかなぁ……」
「何のことですか?」
「ほら、俺の好きを……ってやつだよ」
こちらを見ようともせず、絞り出すように呟いた彼。
な~んだ、そんなことですか。
「そんなの当たり前ですよ!」
やれやれと言うように首を振ると、あたしはドンッと自分の胸を叩く。
そして、上機嫌に尻尾を揺らしながら、彼を真っ直ぐに見据えた。
「だって、貴方のことが大好きなんですから! その気持ちに嘘がないなら、伝えるのだって簡単にできますよ!」
言い終わった後、あたしの口角は自然と上がっていた。
「……敵わないな」
諦めたように、彼がこちらへ真っ直ぐな視線を向ける。
貫かれそうなほどのその瞳に、あたしの胸は大きく跳ねた。
途端、あんなに上機嫌に揺れていた耳と尻尾が、ピタリと動きを止めてしまう。
「君のそういう真っ直ぐなところには、いつも負けちゃうよ」
そんな風に言いながら、優しく微笑む旦那さん。
頬はまだ真っ赤なままなのに、その温かくて包み込むような雰囲気に、こっちがすっかり飲まれてしまいそうになる。
ああ……やっぱりあたし、このヒトのこういうところが大好きなんだ。
「……それはあたしだって同じですよ」
「そうかな?」
「そうですよ。スキンシップだと、いつも照れちゃうのはあたしの方ですもん」
「ふふ、確かに。いつも顔が真っ赤だもんな」
「むむぅ〜……」
彼はクスリと笑ってカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
コクリと喉を鳴らしてふぅ……とひと息入れると、そのままソーサーに置いて柔らかく微笑む。
うん、あたしはこの顔が大好きなんだな。
あたしも残りの少ないコーヒーを、静かに流し込んだ。
やはり苦みは変わらない。だけど、少しだけ口当たりが良くなった気がした。
そっとカップを置き、彼を見つめる。
「どうかした?」
「ううん、なんでもありません」
ゆっくりと首を振り、残りのコーヒーを飲む彼の姿を見つめる。
貴方のお陰で、またコーヒーが好きになれましたよ。
そんな気持ちを込めて、あたしは彼へと柔らかく微笑みかけた。