一万文字近くある(自分が書いたものの中では)長い話の一つなので前編と後編に分けました
「旦那さん、どんなチョコが欲しいですか?」
閉じた窓ガラスから聞こえる風の音をBGMにして、あたしは彼に問いかけた。
寒さはまだまだ続いているけど、少しずつ日が落ちるのが遅くなり、春の足音が近づいているのを感じる2月上旬。
こんな時期にチョコの話題を出す理由なんて、ひとつしかない。乙女の祭典、バレンタインデーが目前に迫っているからだ。
自慢ではないけれど、こう見えてもあたしはチョコ作りにかなりの自信がある。親友のダイヤちゃんと小さい頃から手作りチョコの交換をしていて、味については彼女の立派なお墨付きを頂いているのだ。
だからこそ、あたしは胸を張って彼に要望を聞くことができる。
「そうだな……せっかくだし、『忘れられない、あの人チョコ』を……」
「うぇ!?」
考え込むように顎に手を置いている旦那さんは、なんの気もなさそうにボソリと呟いた。
思わず変な声が漏れ、耳と尻尾がピンと立ってしまう。
忘れられないあのヒトチョコ。
それは学生時代に彼に渡した、あたし自身を模した手作りチョコ。ある意味、恥ずかしい記憶の結晶だ。
……そういえばあの時、あたしって重いのかも、とか言ってた気もする……。
うう……思い返すと本当に重いとしか言えないもの渡してる……! あたしって、あの時から何かしらを意識してたの……? いやいや、そんな訳……でも意識してなくて渡す方がちょっと怖いのかも……?
そ、それはそれとして、作ってほしいと言うならあたしは……。
パタパタと揺れたり、シナシナになったり、やっぱりバタバタ動いたり。
あたしの尻尾は自由気ままに踊りだす。
「――なんてのは冗談で」
「ち、ちょっと!」
「あはは、ごめんごめん」
頬を膨らませて声を張るあたしを見て、彼は悪びれる様子もなく微笑んでいる。
なんだか少し憎らしく見えてきて、あたしは耳を倒しながらジロッと彼を睨んでみせた。
「ちなみになんだけど、生チョコが欲しいかな」
むむ……本当に冗談だったのか……いや分かってましたけどね? だけど、なんだかなぁ……。
そんなふうに唇を尖らせてみたものの、頼まれたなら全力で応えるのがお祭り娘というものだ。
「………任せてください! キタサンブラックの名にかけて、絶対に美味しいものを作ってみせますから!」
右手でトンと胸を叩き、自信を持って彼に伝えた。
右手でトンと胸を叩いてみせると、彼の微笑みがより深くなった。
あ~あ、あたしはその笑顔に弱いんだよね……。絶対に、分かっててそんな顔してるんだ。
だけど全然悪い気はしない。むしろ、バレンタインに向けてやる気の炎がさらに燃え上がってくるのを感じていた。
なんて。
そんな話をしたのも、もう一週間前のこと。
買い出しやら何やらであれこれと動いているうちに、あっという間に決戦の当日がやってきた。
「よ~し、気合い入れていくぞ〜!」
袖をグッとまくり、ぺろりと舌を出してみせる。
露出した腕に触れる空気が冷たいけれど、お祭り娘のあたしには、むしろ身が引き締まってちょうどいい。
台所に並べた材料たちを見渡した後、壁に掛かっている時計に目を向けた。
午前八時五十分。
うん、余裕はある。これなら絶対に大丈夫だ。
「待ってて下さいね、旦那さん」
あたしは右手を大きく掲げながら、朝早くに出勤していった彼を思う。
バレンタインは別に祝日でもなんでもないから、仕事があるのは仕方ない。……ちょっと寂しいけど、仕方ない。うん。
とにかく、今はチョコ作りに専念だ。
掲げた右手をゆっくりと下げ、材料へと手を伸ばす。
湯煎したボウルから立ち上る甘い香りに包まれながら、慣れた手つきで滑らかになるまで混ぜ合わせていく。
お菓子作りは少しの油断が命取りだ。決して慢心せず、彼がとびきりの笑顔になるように、丁寧に、丁寧にっと。
オーブンシートを敷き詰めたバットに生チョコを流し入れ、ヘラで綺麗に形を整える。粗熱が取れたのを確認してから、そっと冷蔵庫まで運んだ。
「これを冷蔵庫に入れてっと……」
よし、これで一先ずは大丈夫。あとは一時間くらい冷やして、仕上げにココアをまぶせば完成だ。
最後まで油断は禁物だよね、と心の中で呟きながら、ゆっくりと冷蔵庫の扉を閉める。そして使い終わった道具を洗うために、台所へと振り返り、片付けを始めようとした——
「…………」
――はず、だった。
あたしはジッ……と使い終わった道具を眺めたまま、前に進むことが出来ない。……いや、違うな。進む気がないんだ。
だって今のあたしは、ある真っ黒な考えに支配されているから。
「……担当の子たちにもチョコを貰うのかな」
彼は今、チームを率いる立派なトレーナーだ。あたしを育ててくれた頃とは違い、彼の周りには指導を仰ぐ後輩ウマ娘たちがたくさん増えている。
あたしも何度も会っているけれど、チームの子たちはみんな、真っ直ぐな瞳で走りに対して真摯な、本当に良い子たちばかりだ。
『ずっとずっと、貴方のファンでした!』
目を輝かせ、あたしに握手を求めてくるあの子たちの姿が脳裏をよぎる。
本当に、本当に良い子たちだ。
それは分かってる。
分かってるはずなのに――
「……なんでこう、モヤモヤするのかなぁ……」
そう独り言ちて、空いた左手でギュッと胸元を掴む。
お世話になっているヒトにチョコを渡す。当たり前のことだ。学生時代、あたしだって同じことをした。
そのチョコに感謝以外の想いなんてない。分かってる。――あたしだって、そうだったはずだから。
なのに、どうして。
嫌だ。貰って欲しくない。あたしだけを見て。
こんな醜い気持ちが、どうしても消えない。
「……はぁ、このままじゃダメだ」
ギュッと自分の胸元を掴み、小さく深呼吸する。
肺に入る空気が冷たくて少し痛い。吐いた息は温かいはずなのに、喉を刺すように痛い。
……心臓が、うるさい。
絞った耳とバチンと音を立てるように床を叩く尻尾。
「……きっとあれだけじゃダメだ」
耳に当たる空気よりも冷たい声。
あたしはそのまま、ゆっくりと、動かなかったはずの足で歩き出した。
一歩一歩、確実に、確かめるように進む。
片付けるつもりだった材料を一瞥する。
そうだ、失敗しちゃいけないと思ったから、材料は余分に買ってたんだ。
「……よし」
材料の元まで足を進め、あたしは静かに手を伸ばした。
あのヒトは。
あのヒトは、あたしのだ。
あたしだけのものなんだ。
だから、だからこそ。
あたしが作るべきチョコは、もう決まっていた。
◆◆◆
「……あれ?」
気付けば、あたしは台所で食器を洗っていた。
無意識に動かしていた手を止め、壁の時計へと目を向ける。
ふむ、五時か……って、五時!?
「う、嘘!?」
慌てて窓に駆け寄る。
外はすでに太陽が姿を消し、空は少しずつ黒に染まり始めていた。
「そ、そんな……あたし今まで何を……?」
周りを見渡してみると、材料はもうなくなっていて、食器なんかももう洗い終えている。
信じられないことだけど、あたしは何かに駆られるように行動を起こして、それを終えた後らしい。
……あたしはいったい何をしてたんだ?
「って、それどころじゃなくて!」
こんな時間になっているということは、洗濯物を取り込む必要があるし、夕ご飯だって作らないといけない。
得体の知れない不安はとりあえず心の隅に押し込んで、あたしは急いで夕飯の準備に取り掛かった。
冷蔵庫を開けると、中には無事に完成している生チョコが見えた。
いや、それだけじゃなくて、その横に、ある……のって……。
バタンッ!
あたしは現実から目を逸らすように、素早く扉を閉じた。
そしてそのまま下の野菜室を開けて、無心で中にあったにんじんを掴み出す。
よ、よし。とりあえず野菜炒めを作ろう。今から作れば何とか間に合うはずだ。うん、そうしよう。
「……あれって、もしかして……」
いや、あたしは何も見てない。あたしに似た何かなんて、絶対見間違いなんだ。
ふるふると体と尻尾を震わせながら、あたしは包丁を握り、ニンジンを刻んでいく。
トントン……トントン……トントン。
気づけば、ニンジンは原型をとどめないほど細かく切り刻まれていた。
き、気にしない!
あたしはまな板の上の無残なニンジンを、包丁でかき集めてそのままフライパンへと放り込んだ。
「つ、次は他の野菜!」
次は玉ねぎだ!
今はただ、急いで夕飯を完成させることだけを考えなきゃ。
あたしは余計な思考を完全にシャットアウトし、ただ無心で包丁を動かし続けた。