「……よし、ひとまずはこれで大丈夫」
これで彼を迎えることはできる。
……いい加減、アレに向き合おう。
恐る恐る近づき、覚悟を決めて冷蔵庫の扉を開けた。
冷気の中に鎮座していたのは、やはり無事に完成している生チョコのバット。どうしてもう完成しているのか、言いたいことは山ほどある。だけど、今はそれ以上に……。
あたしはゆっくりと、その隣へと視線を移す。
そこにあったのは。
「……うう」
本当は目を背けたい。嘘だと思いたい。
けれど、認めないわけにはいかなかった。
そこに鎮座していたのは、紛れもないあたし自身……を模したチョコだったのだから。
「作っ……ちゃった……」
このチョコの名前は『忘れられない、あの人チョコ』。
学生時代のちょっとした黒歴史であり、あたし自身の「重さ」を知るキッカケになったかもしれない代物だ。
震える手で扉を閉め、天井を仰ぐ。
そのままガクリと膝から崩れ落ち、あたしは床に両手をついた。
……確かにあの一瞬、あたしの心には醜い感情があった。それは認める。でもだからといって、アレを作っちゃうのはどうかと思う。重いなんてもんじゃないよ。どうして……どうして……。
……いや、一旦落ち着こう。うん、そうしよう。
ガクガクと震える足に無理やり力を込め、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。
「ふぅ〜……はぁ〜……」
何度も深く息を吸って、吐き出す。
……よし、少しだけ心臓のバクバクが治まってきた。
ならば、アレをどうするかを考えよう。
未だに震えている右手で、冷蔵庫の扉をもう一度開ける。
そこにはやはり、異彩を放つあたしの姿があった。
チョコ色に染められたあたしは直立不動で、真っすぐな瞳でこちらを見つめている。
……しかも、無駄に精巧に作られた『現役時代の勝負服』まで着込んで。
とてもチョコで作ったとは思えない、異常な完成度だった。
「……っ、うぅ……」
カアッと顔が熱くなる。
何故、勝負服? ……いや、分かってる。
あたしが彼の隣で、一番輝いていた時の姿だからだ。商店街の皆さんが作ってくれた、あの法被風の衣装。
いつでも隣にいたい。あの子達じゃなくて、あたしだけを見てほしい。
そんな見当違いの嫉妬心を、絆の詰まったあの服にぶつけてしまったのだ。自分の重さが、嫌になる。
……いや、違う。
思い返せば、チョコの材料は最初から不自然なくらい沢山買っていた。
多分、こうなるかもしれないって……あたしの頭の片隅には、最初からあったんだろうな。
「はぁ……」
……作ってしまったものは仕方がない。これをどうにかしよう。
冷蔵庫の奥からあたし型のチョコを取り出し、ジッ……と見つめる。
流石にこれを旦那さんに渡すわけにはいかない。絶対に引かれてしまう。
だからといって、捨てるなんて出来ない。食べ物は粗末にしちゃいけないから。
……よし、今のうちにあたしが食べちゃおう。
自分を模したものを食べるのは気恥ずかしいけど、彼に見られるよりはずっとマシだ。
カアッと熱くなる頬を誤魔化すように、チョコを少しずつ自分の口元へと近づけていく。
10cm、5cm、3cm。
もう少し、もう少しで、あたしの口に──
「ただいま」
「ヒュ……」
思考が、完全に停止した。
いつもなら世界で一番嬉しいはずのその声が、今だけは無慈悲な死刑宣告に聞こえた。
全身からサァァッと血の気が引いていくのがわかる。
「あれ? いつもならおかえりって言ってくれるのにな……」
トク……トク……トク……。
こちらへと近づいてくる足音。
隠さなきゃ。そう頭では警報が鳴り響いているのに、体は床に縫い付けられたようにピクリとも動かない。
「寝てるのかな? いや、それなら部屋の明かりは消えてるはずだし……う~ん……?」
タッタ……タッタ……。
足音が、さっきよりも速くなった。
違う、来ないで。今は絶対に来ないで……!
「キタサン?」
バタン、とリビングの扉が開く音。
同時に降ってきたその声に、あたしの心臓はヒュッと跳ね上がった。
「どうしたんだ、いったい?」
視界に飛び込んできたのは、心底心配そうな旦那さんの顔。
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、あたしは再び息を呑んだ。
「なんで君は——」
ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる彼。
……そう言いたくなるのも当然だよね。
だって、今のあたしは。
「——泣きそうな顔で、何かを食べようとしてるんだ、キタサン……?」
耳をペタンと絞り、ふるふると尻尾を震わせながら、謎の塊にかじりつこうとしてフリーズしているのだから。
……そりゃあ、彼もそんな声を出したくなるはずだ。
「……って、あれ? それってもしかしてキタサンか?」
「……!」
こちらを穴が空くほど見つめてくる、彼の瞳。
……そうだよね、バレるに決まってるよね。だって彼は、勝負服を着たあたしを一番近くで見ていたんだから。
あたしは食べようとしていたチョコをゆっくりと胸元へ下ろし、力なく彼を見つめ返した。
じわりと瞳に涙が溢れ、大好きな旦那さんの顔が、ぐにゃりと滲んでいく。
「あたし、あたし……うう……ごめんなさい!」
「えっ、な、何が!?」
勢いよく頭を下げると、ポロポロと瞳から涙がこぼれ落ちていく。
あたしはそのまま床の模様を見つめたまま、慌てふためく彼の声を、どこか遠くの出来事のように聞いていた。
◆◆◆
あの後、あたしは旦那さんに涙が乾くまで抱きしめてもらった。
そのおかげで落ち着くことは出来たのだけど。
「……その、なんだ」
「……はい」
あたしの手から没収された『ソレ』は、少し離れた台所に置かれたままだ。
コタツを挟んで、向かい合わせに座るあたしと旦那さん。
……気まずい。逃げ出したいほど気まずい。
「あのチョコを作っちゃったのはひょっとして……」
「……」
温かいコタツの中だというのに、足を崩す気にもなれず、あたしはガチガチの正座をしたままだ。
シュン……と床に力なく横たわる自分の尻尾を見つめながら、なんとか言葉を探す。
「……ごめん!」
「えっ?」
突然の大きな声にビクッと顔を上げると、コタツ越しに深く頭を下げる旦那さんの姿があった。
な、なんで貴方が謝ってるの!?
あたしはあたふたと両手を振り、尻尾をバタバタと揺らすことしかできない。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳は、痛いくらいに申し訳なさそうな色に染まっていた。
「あの時、俺があのチョコの話をしたから作っちゃったんだよな。変なこと言ってごめんよ」
「そ、それは……」
違う。旦那さんのせいじゃない。
あたしはギュッと拳を握り、ゆっくりと首を横に振った。
本当のことを、ちゃんと言わなくちゃ。
「ち、違うんです! あのチョコを作ったのはその!」
「……?」
「その……」
あたしは口ごもりながら、スッと彼から視線を逸らした。
その先にあるのは、台所に置かれた『あたし型のチョコ』と……その隣に置かれた、見慣れない立派な紙袋。
朝家を出た時、彼はあんなものを持っていなかった。中身なんて、考えなくてもわかる。きっと、担当の子たちから貰ったたくさんのチョコだ。
途端に、胸の奥でチリチリと嫉妬の火が燃え上がった。
「…………あの袋の中にあるのって」
「? ああ、あれはチョコだよ。チームの子達に貰ったんだ。皆にはいつもありがとうございますって言われたよ」
「……!」
やっぱり。
思った通り、彼はあの子達から貰っていた。お世話になった彼に向けて、感謝という大切な想いが込められているチョコを彼は貰っていた。
「……」
「……キタサン?」
あの子たちの純粋な感謝の気持ちだって、ちゃんと分かっているのに。
……あたしはなんて、嫌なウマ娘なんだろう。
醜いヤキモチと、どうしようもない罪悪感がごちゃ混ぜになって、胸がギュッと締め付けられる。
「……あたし、嫉妬したんです」
「嫉妬って……もしかして、あの子達にかい?」
「……はい。……その通りです……」
コタツの中で、膝に置いた両拳をギュッと強く握りしめる。
もう逃げない。この醜くて重い気持ちも全部、ちゃんと彼に伝えなきゃいけないから。
「……あの子達が良い子なのは分かってます。それでも貴方にチョコを渡すのはモヤモヤしたんです。あの子達にそんな気持ちがないのなんて、分かってるのに」
「キタサン……」
「貴方はあたしのものだ。そんな嫉妬心から作っちゃったんです。……あはは、何をしてるんでしょうねあたし」
言い終えると同時に、全身からプツンと力が抜けた。
あたしは力なく視線をコタツへと落とし、ただジッと、彼の言葉を待つしかなかった。
「……」
スッ……とコタツ布団が擦れる音がして、彼の足音が遠ざかっていく。
……呆れられて、しまったのだろうか。
不安で顔を上げられずにいると、カチャリと小さな音が響き、すぐに足音がこちらへ戻ってきた。
うつむいたままのあたしの視界に、スッと差し出された銀色のトレー。
その上に乗っている、茶色い物体って……。
恐る恐る視線を上げていくと、その全容が明らかになる。
「あたしの……チョコ」
銀のトレーの上には、先ほど没収された『あたし型のチョコ』が乗っていた。
威風堂々とした佇まいでこちらを見つめてくるその眼差しが気まずすぎて、今のあたしは直視することができない。
「……綺麗だなって、改めて思ったんだよ」
「えっ?」
信じられない言葉に、あたしは思わず弾かれたように顔を上げた。
からかっているのかと彼の真意を探ろうとしたけれど……視線が交わった瞬間、その真っ直ぐな瞳に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
「今の君も勿論綺麗だよ。だけどやっぱり、勝負服を着ている君は凄く綺麗だ」
「……!」
彼の瞳は真っすぐで。
一点の曇りもないから。
それだけで分かってしまう。
「チョコとはいえ、またその姿を見ることが出来て良かったよ。ありがとう、キタサン」
本心から、心の底から。
貴方は『あの姿のあたし』を綺麗だと思ってくれている。
……それがはっきり分かるくらいには、貴方とあたしは一緒にいるのだから。
でも、だからこそ。
今、あたしはどうしても言ってほしい言葉が出来ちゃった。
ああ、あたしはやっぱり嫉妬深いんだ。
たとえ相手が『あたし自身』でも……絶対に、負けたくないのだから。
「……とはいえ、これはチョコだからね。食べなきゃいけないんだけど……なんだか、勿体ないって思っちゃうな」
微笑むような表情で彼はあたしを見ていた。
そう言って、彼はチョコからあたしへと視線を移し、優しく微笑みかけてくれた。
包み込むようなその瞳が、あたしに何よりの安心感と……ほんの少しの『わがまま』を口にする勇気をくれる。
だから、あたしは。
「……それなら一緒に食べちゃいましょうか!」
「えっ、一緒に?」
「はい! ひとりだと勿体なくて食べられないなら……ふたりでその『勿体ない』を分け合えば、半分こになって薄れると思うんです!」
「う、う~ん?」
不思議そうに首を傾げる旦那さん。その反応はごもっともだけど、それでいい。
ギュッと握りしめた右手が熱い。尻尾の先までその熱が伝わって、たまらずパタパタと振ってしまう。
パクパクと空気を食べるように口を動かしながら……それでも何とか、一番伝えたい言葉を絞り出した。
「そ、それに……チョコのあたしよりも、本物のあたしの方が綺麗です!」
ようやく絞り出せた声は、か細くて弱々しいものだった。
まだまだ冬だというのに、体が熱くて仕方ない。今のあたしなら、全身から吹き出す熱でお湯が沸かせそうだ。
……それでも、一度口に出してしまったら、もう後には引けない。
沸騰しそうな頭のまま、あたしはさらに言葉をぶつけた。
「こ、今度……あたしが勝負服を着るので、その時に、さっきの言葉を、い、言ってほしい……なあ〜……なんて……」
最後の方は自分でも不安になるくらい、か細く消え入りそうな声になってしまった。
……言い終えた今のあたしは、旦那さんの目にどう映っているんだろう。
噴火しそうなくらい真っ赤な顔を誤魔化したくて、ブンブンと激しく揺れる尻尾で風を誘ってみるけれど、全身の熱は全然冷める気配がなかった。
「……もしかして、自分が作ったものにまで嫉妬しちゃった?」
一瞬、ポカンと小さく口を開けていた旦那さん。
けれどすぐに、愛おしくて堪らないというように、こちらへ優しく笑いかけてきた。
……あんなわがままを言えば、そりゃあバレてしまうに決まっている。
だけど、それでいい。それでいいんだ。
恥ずかしさで噴火しそうだった全身の熱が、今はひだまりのような温かさに変わって、あたしの心をいっぱいに満たしてくれているのだから。
「……えへへ。恥ずかしながらその通りです。あたしが嫉妬に溺れないために……一緒に食べてくれませんか?」
「うん、分かった。それなら早めに食べないとね」
「ふふっ。貴方が欲しいって言ってた生チョコもあるし、あの子達のチョコもありますからね。これだけでお腹いっぱいになっちゃうかもしれませんよ?」
「ま、まあ、他のチョコは今すぐ食べなくてもいい……はずだ」
「そうですね。今は……このチョコだけでお願いしますっ」
「ああ。……そういえば、夕ご飯は……いや、今はまあ置いておこうかな」
彼が小さく呟いた言葉も、あたしの耳ならちゃんと聞こえている。
……うん。せっかく作った夕ご飯には申し訳ないけれど、今は置いておこう。後で食べるからね!
今だけは現実を見ないふりをして、あたしはもう一度、銀のトレーに乗ったチョコへと視線を向けた。
(チョコのあたし、嫉妬深くてごめんね。……でも、ありがとう)
心の中で祈るように言葉を紡ぎ、ゆっくりとチョコのあたしに手を伸ばす。
威風堂々と立っているその表情は、何故だか少し呆れたように……だけど、優しく微笑んでいるように見えた。