往復7日間のフィールドワークから王都に帰還した直後、アリアの技術への渇望、もはや禁断症状にすら似たそれは最高潮に達していた。
一刻も早く俺を引き連れてそのまま実家の工房に籠もり、あの旅でフルスペック検証を終えた魔物除けや浄水の刻印に調整を加えたいアリアだったが、肝心の俺が別の理由でガチガチに拘束されてしまったため、彼女の飢えは一向に満たされずにいた。
季節は夏。この世界では暑さで皆ろくに集中できないという極めて人道的な理由から、夏の間は講義が一切なくなる。実質的に地球で言うところの夏休み状態だ。
実習や講義から完全解放された教授や研究室の上級生たちは、自らの研究や追加のフィールドワークに全力投球するフェーズに入り、一般の学生たちはこぞって実家へ帰省したり領地に戻ったりしていた。
そんな中、俺は一人、フィールドワークの引率だった初老の教授、リスト教授の研究室に呼び出され、あの窓枠のレポートについて根掘り葉掘りリファレンスを求められていた。
「カイ君。これまであの遺跡の歪な四角い枠に注目したレポートはいくつかあった。だが、それを開口部、さらに言えば窓として定義したアプローチは君が初めてだ。大体の研究者は、あれを旧文明が儀式レベルの大魔法を収束・展開させるために利用した、魔力流束の機構ではないかと推察しているのだがね」
リスト教授の問いに、俺は内心で冷や汗を感じながら、言い訳になるような思考の流れを説明する。なぜそんな発想をしたのか、と問われたからには、この世界の学問の枠組みで違和感のない説明を通さなければならない。
「そうですね…魔力を収束させるための機構にしては不自然だと思いまして。サッシ……あのような枠の構造は、一つの空間の途中でパタリと終わっています。なのに、壁を隔てた隣の空間へ行くと、また全く似たような構造が等間隔で現れる。もし儀式用の祭壇のようなものなら、わざわざ等間隔に空間を小分けに閉じる必要はないのでは、と。開けてある場所と、閉じている場所が混在している構造そのものが、儀式用としては不自然ではないか、と……そのように愚考した次第です」
等間隔に区切られた、窓付きの生活空間という前世の絶対的な答えから逆算し、現地の人間にも通じるように空間の閉鎖性と連続性の不自然さというもっともらしい理屈に変換して語る。
この、ボロを出さないための高度な議論が延々と続いたことで、俺は休日を丸ごと潰して拘束される羽目になっていた。
なお、後から知ったこととしてこのリスト教授は魔法道具学科の人間ではなく、史学とフィールドワークを専門とする学科の教授だ。俺のテントの同室で、魔石付水筒にいれた生水を美味いと言ってくれたあの同期の彼もこの学科に属している。
リスト教授は眼鏡の奥の鋭い目を細めると、手元の羊皮紙をトントンと机に叩いた。
「なるほど、面白い。実はね、君のことはボルス教授から聞いていてね。教授会で妙に要領が良くて変な学生がいるとね。……我が国の建国王の言葉にある通り、私は学徒が貴族だろうと平民だろうと興味はない。ただそこにある事実のみに関心がある。その点で、君は実に面白い発想をする」
教授はそう言って、ようやく俺を解放してくれた。
だが、事態はこれで終わりではなかった。リスト教授は俺のこのアパートの仮説をかなり気に入っており、すぐにでも自分の論文として追加調査に飛び出したい勢いなのだ。しかし、それを研究室の上級生たちが必死になって止めているのを俺は見てしまった。
「教授! ダメです、これ以上新しいフィールドワークに行かないでください!」
「あなたの頭の中にアイデアが溜まりすぎて、未執筆の論文)が山積みなんですよ! 早く手元の文書を全部書き上げてください!」
上級生たちの悲痛な叫び。対するリスト教授は
「うるっさい!共著で良いと言っているじゃないか!
私はさっさと現地に行きたいんだ!
君たちが代わりに書いて出せ!」
などと逆ギレみたいなことをしていた。前世の大学でもよく見た、現地調査大好きで執筆タスクを溜め込みすぎる教授と、進捗管理に狂うデスマーチ寸前の院生たちの構図がそこにあった。
「……戻ったぞ、アリア」
ぐったりとした体で男子寮の自室の扉を開けた瞬間、俺は部屋の中心で今すぐ彫刻刀を握らせろと言わんばかりに発狂寸前、完全に限界を迎えていたアリアと視線がぶつかった。
何でそこに居るかはもうあきらめた。
数日間も最優先の興味から引き離された探求者だ。その灰色の瞳の奥の沼は、もはや濁流と化して波打っている。
彼女は俺がカバンを置く暇すら与えず、机の上に、あの旅で完璧に動作した、蚊よけ、泥除け、浄水の難読化ソースコードを叩きつけた。
「遅い! 遅すぎるよカイ! 教授に拘束されてる間、私がどれだけ衝動を我慢してたと思ってるんだい!」
「悪かったよ、不可抗力だ。……で、その古文書の束はなんだ」
アリアは俺の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出すと、最高に狂気的で、しかしこれ以上ないほど楽しそうな、あの不敵な小悪魔の笑みを浮かべて言い放った。
「実験室に籠もれないなら、もういいよ。このまま、実家の工房の売り物にこの難読化パッチを全部組み込んで、販売テストを今すぐしちゃおうじゃないか!」
おもちゃの枠を超え、ついに自分たちのクソコードを社会へと直接リリースするという、提案。
俺は、解放されたばかりの自分の胃が、早くも次なる巨大なトラブルの予兆でキリキリと、いや、ねじれるように蠢き始めるのを、引き攣った笑みで受け止めるしかなかった。