「……ちょっと待ってくれ。本当に待ってください、お願いします」
俺は両手を合わせて、全力で目の前の赤髪の少女に頭を下げた。男子寮の密室。胸ぐらを掴まれそうなゼロ距離で、俺の胃は文字通りねじ切れるような悲鳴を上げている。
だが、アリアは不満そうに口を尖らせ、掴みかけた俺の服から手を離すと、腰に両手を当てて鼻を鳴らした。
「何故止めるんだい? 確かに泥除けは実地テストの時、私の靴が綺麗すぎてちょっと不自然だったかもしれないけどさ。それ以外なら、実際に売り物として市場で検証するのが一番じゃないか」
ど正論だった。本当に腕のいい技術者の放つ正論ほど、保身に走りたい小心者の胸に突き刺さるものはない。
俺としては、これを一般流通させることで、どこかの専門家や国家の監査に引っかかる可能性を、万に一つでも排除したかった。しかし、アリアの追撃は止まらない。
「実際、フィールドワークとこれまでで、私たちの魔道具に不審を感じた人はいるかい? あの浄水付きの水筒だって、君から話を聞くに、同室の彼はちょっと美味しい水に変えられる程度のものだと思っているじゃないか。……私としてはね、あれから毎日飲んでいて、明らかに体の調子も良いし、かなり良いものだと思うようになったよ。でもね、世間の人たちの中で、そこまでを見抜ける人なんかいないよ。精々日頃の行いが良いからとか、いい水場が見つかったんだなで片付けるさ」
彼女の言葉に、俺はぐうの音も出なかった。確かに現地の人間は、現象の裏にあるロジックではなく、ただの結果しか見ていない。
結局、その圧倒的な勢いに圧し折られる形で、俺は妥協案を提示するしかなくなった。ただし、フルスペックは絶対にNGだ。偽装のためのコメントアウトをマシマシにして、性能を限界まで弱体化することを絶対条件とした。
「分かったよ。ただし、売る製品は厳選させてもらう。……浄水は駄目だ」
「ええ? あんなに便利なのに?」
「アリアの中じゃ美味しい水で済むと思っているかもしれないが、水の綺麗さというのは、中長期的には人間の健康と、都市市民の寿命そのものに直結するんだ。劇的な変化がすぐに数字で分かってしまうものは、リスクが高すぎる。 調子良いんだろ? もしかしたらそれあの水筒の水のせいもあるかもな。そういう風に認識出来るのは困るし、それが集団になったら確実にそうだと思われる」
前世の地球における公衆衛生の歴史を知っている身としては、インフラの改善は一発で国家のバランスを崩す地雷だと分かっていた。
激しい議論の末、最終的に俺たちが選んだのは蚊よけだった。これならちょっと虫が寄ってこない気がするという主観的な感想で誤魔化せる。実際に効果が出たとしても、所詮は蚊に過ぎない。熱帯ならまだしも王都や王国の気候では致死性の病もないからただただ鬱陶しいだけで身体影響はそうありもしない。
そう決まって、次に動いたのは販売チャネルの確保。
俺は実家に戻り、両親の前で、仕入れてきた4級魔石を机に並べた。
「……大学で、刻印を彫る優秀な人と縁ができてね。その人に作ってもらった蚊よけの試作品なんだけど、うちの店に置かせてもらえないかな」
交渉の際、俺はあえてアリアという名前も、それが女性であることも一切口にしなかった。男子学生が、女子学生と縁を持ち秘密の共有として魔道具を作っているなどとバレたら、別の意味で親の追及が面倒なことになる。
両親は最初こそ半信半疑だったが、実際にその魔石を工房の片隅に置いて作業をしてみると、驚くほど蚊が寄ってこないことに気づいた。
「カイ、これ、随分凄いね……。あの不格好な彫りの割には、効率も悪くないし、これなら、夏場に湿地へ向かう探索者連中が泣いて喜ぶよ。……よし、利益の配分はこれくらいでどうだい?」
我が親ながら、さすがは商人の妻。提示された契約書の数字は、息子の友人への敬意を払いツボを抑えつつも、自店の利益をきっちりと最大化する、実に見事な銭勘定が弾き出されていた。
見とうなかった、親の金勘定の目。
脳内でそんな前世の台詞が過ったが、平民として生きる以上、この逞しさは生存戦略として正しい。俺は引き攣った笑みで頷き、実家の店頭に蚊よけ石が並ぶことになった。
結果として――めっちゃ売れた。
ジャンクな見た目だが効きは良好と、魔物狩りの探索者や間で口コミが広がり、持って行った試作品は思いのほか早くに完売した。
このまま売れ続ければ、開発資金は少しずつ増え、自由に使える魔石の量も質も、今後はかなり良くなることが期待できる。それに少しくらいは色々食べ歩くのも余裕ができる。
だが、翌日。食堂でその売上報告をアリアに伝えた時のことだ。
「へえ、売れたんだ。良かったじゃないか、カイ」
アリアはスープを飲みながら、至って淡々とそう言った。俺のようにこれで3級以上の魔石も買い放題だと狂喜乱舞する様子は微塵もない。
そこで俺は思い出した。彼女の実家は、王都でも高名な、貴族向けの装飾付きすら行える特級の彫師だ。この世界における彫師とは、前世の地球で言えば、一文字数万円の単価を叩き出す超高級フリーランスエンジニアのようなもの。
要するに、彼女は元から、俺の家とは比べ物にならないほど、ガチの金持ちだったのだ。
「……アリア、もしかして、金に困ってないのか?」
「まさか。研究用の3級魔石くらいなら、実家の工房の端材を貰えばいくらでも手に入るよ? 私はただ、あの刻印が市場でどう動くか見たかっただけさ」
楽しげに微笑む相棒を前に、俺はただ一人、自分の実家の銭勘定に一喜一憂していたことに、冷えていくスープの前で、再び別の意味での胃の痛みを覚えざるを得ないのだった。