それからというもの、都合3回にわたって、アリアの手で刻印を入れた蚊よけの魔石を追加で実家の店に補充したが、それらは店頭に並ぶそばからすべて完売した。
俺の懐には、一般平民学生からすればそれなり以上の額の臨時収入が転がり込んできている。口座用通帳に刻まれた数字が増えていくのを見るのは、前世のボーナス支給日を思い出させてくれて実になんともホクホクした気分になる。これなら、寮の食事以外にも、週に何度かは王都の店で食べ歩きをするだけの余裕は十二分にある。
だがそんな潤いとは裏腹に、俺の身体は数日前からどうにも気がかりを覚えていた。
「……なんか、どうにも暑い気がするな」
自室で机に向かいながら、今日4杯目となる水差しの中身を喉に流し込んだ。妙に水を飲む機会が多い。
夏はこんなに厳しかっただろうか。大学という新しい環境に移ったことで、色々と違っているものだろうか。ただの気のせいだと思おうとして、その時だった。
バン! と、相変わらず風紀の概念を忘れ去ったように、男子寮のドアが開け放たれた。
「カイ! 聞いておくれよ、もう最悪だ! 暑い! 暑すぎるじゃないか!」
現れたアリアは、いつもなら綺麗に切り揃えられているはずの赤髪を雑に頭の上で団子状にまとめ、信じられないほどの不機嫌さを全身から漂わせていた。
あの特級彫師の令嬢が、まるでデバッグが何日も終わらないデスマーチ中のプログラマーのような顔をして、俺のベッドに文字通り倒れ込む。
「暑い!とにかく暑い! 汗で手が滑って、刻印を彫る手元が狂うんだよ! 一文字でも間違えたら動かないのに!この暑さはもう嫌がらせだよ!」
彼女の激しい怒りの言葉を聞きながら、やはりと思う。
場所こそ違うだろうが同じ王都出身のアリアのこの暑がりよう。そして初夏を過ぎたばかりのこの時で、あれだけの蚊よけの売上。
「……そうか。今年はいつもより暑いんだ。だから蚊も多かったのか」
あれが売れたのは、俺たちが市場のニーズを完璧に捉えたわけでも効果を激増させたと思われたわけではなかった。前提となる環境、王都周辺の気候がいつもと違う挙動を見せていただけだったのだ。それなら誰だって、特に森や湿地に向かう者なら特に、ありったけの蚊除けを買うのは当然だ。効き目が多少良いならなおのこと。
合点がいった俺の横で、アリアはベッドから這い上がると、飢えた肉食獣のような目で俺を睨みつけてきた。
「ねえカイ、どうにかしたい。何かアイデアはないかい?」
その言葉に、少しだけ虚を突かれた。
いつもなら新しい刻印をとか、もっと面白い魔道具をと、技術そのものへの探求を熱望するはずの彼女が、珍しく今ある不快な現実をどうにかしたいという、純粋な要求を口にしている。
だが、それもそうかと思い直す。彼女にとって刻印を入れる行為そのものが探求の目的だ。その美を追求するための集中力と、作業の精度を物理的に引き下げるこの猛暑は、彼女のプライドを著しく刺激してイラつかせているのだろう。
俺は少し考え、かつて彼女が持ってきた骨董品としての贅沢品の存在を思い出した。
「なあアリア、前に作った冷気石を、あれを上手く使ってみるのはどうだ?」
「冷気石?あれは竈の熱に負けるくらいで、特に売れもしないってことになったろ?
新しい刻印でも作るのかい?」
「いや、新たに作りはしないさ。仕様はそのままでいい。刻印は変えなくても、使い方の方で工夫する」
俺は机の上の手ぬぐいを発見し、それを手に取った。
「部屋まで冷やすことができないなら、対象をもっと絞ればいい。石をいくつかタオルや薄い布でくるんで、こうして首元に直接当てて固定するんだ。太い血管が通っている場所をピンポイントで冷却すれば、体感温度はかなり下がるはずだぞ」
前世の地球で、夏のコミケや現場作業員がよく使っていたネッククーラーの知恵だ。
悪くない方法だと思ったのだが、アリアはさらに顔をしかめて、割と本気でキレ気味に言い返してきた。
「そんなこと、もうやってるよ! 服の内側にもいくつか忍ばせてるさ! それでも全然足りないんだよ! そもそも、手の平とか手元全体に汗をかくから、全身をちゃんと冷やしてくれないと意味がないじゃないか!」
服を少し引っ張って、内側に仕込まれた冷気石を見せるアリア。どうやら彼女は彼女で、色々と試していたらしい。
そこまで暑いのかという疑問が浮かぶと同時に、脳裏に前世のコンクリートジャングルのあの不快でネットリとした夏の記憶が、嫌な慣れと共に蘇ってきた。
身体こそ変わっているが記憶と、もしかしたら魂に染み付いてしまった慣れはこんなところにも影響しているようだ。
日本の夏がなぜあれほど地獄だったか。それは気温が高いからだけではない。水分を大量に含んだ、逃げ場のない湿度のせいだ。ここらの住人は温度のことばかりを気にするが、不快感の本質はそこではない。
今年の暑さは原因こそわからないが、気温に伴って湿度も上がっているせいでこれほど暑く思えている。
「……方向性を変えよう。温度を下げるのが無理なら、湿度を下げる」
「シツド……? 空気の中の、水分のことかい? それを下げてどうするんだい」
「室温そのものは下がらなくても、湿度がかなり下がるだけで、汗はかなり乾きやすくなる。そうすれば気化熱で体感温度は下がるし、手元が汗で狂うこともなくなるはずだ。もし、自室だけで良いなら…」
アリアの目を真っ直ぐに見据えた。
「…3級の魔石を融通してもらえるか? 4級じゃちょっと厳しいが、3級の魔石なら、冷気石の刻印を少し強めに、かつ長く効かせられる。ただし、冷気を部屋に、というわけじゃない。冷気石の表面に、室内の水分を意図的に結露させて、湿度を落とす。これなら、汗もかかないだろうし首の冷気石も合わせてかなり良くなるんじゃないか」
おそらくこの世界では初の除湿機の概念。
アリアの視線が苛立ちと怒りのそれから期待に変わっていくのをじっと見ていた。