ボルス教授の、車輪の再定義から始まった爆弾。研究室体験は、一瞬の油断も許されないギリギリでひりつく毎日の連続となった。
「あー、カイくん。前回の車輪のサスペンション統合の概念なんだけどねぇ……。もしこれ、車軸を通るエネルギーのベクトル自体を、物理的なバネに頼らずに刻印の記述だけで相殺しているのだとしたら、車体の重量そのものを相殺するような、そうだなあ、概念的に上位とでも言えば良いのかなぁ、そんなのがどこかに組み込まれているはずだと思わないかねぇ?」
「……いえ、ちょっとそこまでは。ただ、車輪に車軸が頑丈であれば、石畳からの摩耗に対する修繕費が減って、下町の運送ギルドに依頼者のどちらも台所事情が少しは楽になるのではないか、と。その程度の銭勘定しか思い浮かびません」
如何にして、ボルス教授に閃きを与えないか。如何にして、彼の鋭い考察の刃に対して新しい角度の視点という有益なパラメータを返さずに、凡庸なアイデアとしてスルーさせるか。思考はその防衛だけにすべてのリソースを割いていた。
ボルス教授が自力で旧文明の設計思想の入り口に手をかけているのは間違いなかった。だからこそ、ほんの少しでもヒントを漏らせば、教授の知性は一気にブレイクスルーを起こしてしまう。
だから、教授が技術的な核心に迫る問い出してくるたびに、必死に話を生活水準やお金の話という下位レイヤーへと引きずり下ろした。
確かに経済的なコストの観点は大切だしねぇ、と教授が納得してくれるたびに、俺は背中で冷や汗が止まらなくなるのを感じていた。
何が恐ろしいかと言えば、ボルス教授の思考のスコープが、日に日に巨大化していることだった。最初は一つの車輪、一つの推進機関という物理機構に納まる話だったはずなのに、最近の教授はもしこれが実現したら、王国内の物流ネットワークはどう変わるか、都市間の距離が縮まった際の経済格差、社会構造全体のパワーバランスにどう影響を及ぼすかという、システム全体、社会インフラ全体にわたる構造的の可能性にまで突っ込みそうになっていたのだ。
「……クソ、これ以上を掘り下げられたら、世界の均衡なんてどうやっても物理的に破綻するぞ」
毎回、研究室のドアを閉めて廊下に出るたびに、俺は制服の襟元がぐっしょりと濡れるほどの冷や汗を拭い、過負荷で軋む胃壁を押さえて深く息を吐き出すのがお約束になっていた。
そんな、精神的なデスマーチですっかり摩耗していたある日の夕方。
男子寮の自室で、明日の算術の範囲確認程度をしようと机に向かった瞬間、またしてもお馴染みの衝撃が、部屋のドアを襲った。
「カイ! 私はキレた! 完全にキレたよ! あそこは最悪だ! 根本から何にも面白くない!」
部屋に突撃してきたアリアは、団子状にまとめた赤髪から何本もの毛先を苛立ちのままに突き立たせ、机の上の白紙の羊皮紙をこれ以上ないほどの勢いでひったくると、そこにタガネではなくペンで激しくバツ印を書き殴り始めた。
彼女がここまで怒り狂っているのを見るのは、あの猛暑のなかで手元が狂った時以来、いや、それ以上かもしれない。
「…落ち着けよ。体験といってもまだそんな進んでるわけじゃないだろ。……一体何があったんだ?」
「相性がめちゃくちゃ悪いんだよ! 悪いなんてレベルじゃない、全部が全部最悪だ!」
ベッドにドカティと腰掛けたアリアは、文字通り不満で口を尖らせ、マシンガントークを開始した。
話を聞くに、彼女が配属された体験先は、彼女の持つ実践と才という最大の強みに、完全にかちあってしまう場所だった。
アリアという人間は、一度見た刻印のロジックの美しさを直感的に見抜き、それをそのまま寸分違わずに魔石へと彫り上げる、超一流の実践的な職人だ。
しかし、彼女が送り込まれたのは、あろうことか魔導計測評価研究、要は測定関連の研究室だった。
そこでおこなわれている研究の命題は、新しい刻印を開発することでも失われたソースコードを解読することでもなかった。
既存の刻印から出力される魔力の放射効率や熱量、および波動の減衰率を、如何にして正確に測定するか。
当然ものを作る側ではない。完成したものから性能を定量的に測るための測定器の開発やその裏側の理論を作ることを専門に行う、極めて地味で、極めて数学的なバックエンドの研究室だったのだ。
「毎日毎日、薄暗い部屋に閉じ込められてさ! 4級魔石から出る微小な魔力波形を天秤と水槽を使って、ひたすら数字をとるだけの作業だよ!? 彫刻刀似たがねなんて握らせてももらえない! 」
「あー……それは、お前にとっては一番の地獄だな……」
納得というか、まあ、そうだろうなという感覚が大きい。
アリアは直感の天才だが、数式を使った体系的な処理や、泥臭い定量化が致命的に苦手、というか何ら興味がない。
そんな彼女に、刻印そのものを弄らせず、ただ出力のログを測定して記録する作業を強いるのは、まさに最悪のミスマッチだった。
アリアの怒りの脳内で整理しながら、手元にあった案内書の内容を思い出す。
後期の初めに配られた通知の名簿には、確かに学科ごとの研究室の名前と、担当する教授の氏名が羅列されているだけだった。肝心のその研究室が、具体的にどういう研究を行っているかという記述は存在していなかったのだ。
「なぁアリア。あの案内書、なんで研究内容の言及が全くなかったんだろうな」
「知らないよ! 事前に分かってたら、あんな算術マニアの巣窟なんて絶対に希望から除外していたさ!」
アリアは毛布のクッションを抱え込み、未だに手元が狂うかのように指先をピキピキと動かしている。
顎をさすりながら、大学の意図を少しだけ考えてみた。
研究内容をあえて秘匿にしていた理由。
おそらく、学生たちに余計な先入観を与えたくなかったのだろう。もし事前にここは地味な測定だけをやる研究室です、と仕様を開示してしまえば、アリアのような実践派の学生は一人も寄り付かなくなる。結果として特定の人気研究室だけに人が集中し、不均衡を生むのは目に見えて居る。といっても、不人気研究室が出ているのは事実だが。
それにしても。
「見事なまでのミスマッチだな」
それにここに明日から彼女の宿題についての教師役も重なって、ボルス教授とのひりつく頭脳戦の負荷に加え、アリアの算術のケア。
たった一つの構成の問題が随分と大きくなったものだと少しため息が出た。