アリアの算術学習の手伝いをしつつ、同時にボルス教授からの世界のインフラの核心に迫る知的追いかけっこを何とか躱し続ける日々。
そんな、ギリギリを辛うじて乗り切った頃、王都の空はいつの間にか高く透き通るようになり、キャンパスを吹き抜ける風には、冬の足音を明確に孕んだ晩秋の冷気が混ざり始めていた。
半年をローテーションで回るように設計された、後期研究室体験も、これで2つ目。
俺が手元の通知で確認したその第二の研究室は、本校舎の喧騒から物理的に切り離された、随分と年季の入った別棟の、さらに一番奥の端に位置していた。
ガタつく石造りの階段を上り、薄暗い廊下を進む。
指定された開始時刻の通りに目的の部屋の前に到着して、衣服の乱れがないかを軽く確認してから、静かに木製のドアを押し開けた。
「……誰もいないな」
口から出かかったのは、ひどく覚えのある溜息だった。
ボルス教授の研究室を訪れた初日の光景と、随分と似たものだ。
広い室内には、経年劣化で黒ずんだ実験用の木製作業台と、真鍮製の測定器具がいくつか埃を被ったまま並んでいるだけで、他の学生の姿は一つもない。筆記用具を広げて開始の合図を待っているような生真面目な背中もなければ、貴族の学生が談笑しているような賑やかさも皆無だった。
ここも、あの新学期の初めに配られた、中身をあえて秘匿された案内書のせいで、一般の学生たちから見事なまでに敬遠されてしまった不人気研究室なのだろう。あるいは伝手のある学生からしたらブラックとでも情報が回っているものか。
いずれにしても連続で不人気を引くとはなかなかのものだと。
そんなことを考えていたその時だった。
「あ、ああ、ごめんごめん! 遅くなっちゃったねぇ!」
バタバタと慌ただしい足音と共に、廊下から一人の男が滑り込むようにして部屋へと飛び込んできた。
俺は条件反射的に、その場で一歩、物理的に距離をとるように身を引いた。
現れた男の様相は、お世辞にも大学教員として権威のあるそれにはどうにも見えなかった。
鳥の巣のようにぼさぼさに荒れた頭に、何日も手入れをしていないことが一目でわかる伸び放題の無精髭。あちこちにインクのシミや魔石を削った銀灰色の粉末がこびりついた、ヨレた白衣。
大分大丈夫かこの人、と思わざるを得ない格好の男が、そこに立っていた。
「いやぁ、体験の学生が本当に、しかも時間通りに来てくれるなんて思わなくてさ。慌てて地下の倉庫から資料を引っ張り出してきたんだよ。あ、僕はここの教授で、ハルバート・クランというんだ。よろしくね」
ハルバート教授は肩で息を切りながら、俺が机の上に置いていた未記入のレポート用紙を見て、自嘲気味に力なく笑った。
「見ての通り、ここは大学内でも一、二を争うほどひどく不人気な研究室でね。ろくに上級生も残っていなくて、大体の実験や記録は僕一人で回している状態なんだよ。……まぁ、僕自身の個人的な話で申し訳ないけど」
ハルバート教授は作業台の上に乱雑に積み上げられていた古い羊皮紙や、輝きを失ったジャンク魔石の山を両手でごちゃごちゃと片隅に押しやりながら、身の上話をぽつぽつと語り始めた。威圧感は皆無で、むしろ哀愁すら漂っている。
「僕は昔ね、とある地方の、本当に名前ばかりの弱小男爵家の、絵に描いたようなごくつぶしだったんだよ。だけど才能もなくてね、家業の手伝いもろくにできなくて、ただただ穀物を消費するだけの存在だった。ラッキーだったのは三男だったことかな、継がなくていいのは本当によかった。それで、どうにか家柄のコネを使って滑り込ませてもらったこの大学で、やることがないからって地下の薄暗い工房に引きこもって、ボロ魔石を四六時中弄くり回していたらさ。気が付けば、偶然書いた論文がいくつか上に評価されて、いつの間にか教授になっちゃっていたんだよ」
教授は無精髭の生えた顎をさすりながら、天井の低い梁を見上げた。
「たまたまここの学科の席が一つ空いたタイミングでね、丁度何かを見つけちゃった僕が、運良くその空きスロットに滑り込むことになったんだ。……でも、それ以降はこれといってパッとした成果を出せていないから、最近は教授会の視線が痛いこと痛いこと。会議に出るたびに、周囲の目が針のむしろだよ。予算を無駄に使っているんじゃないかってね。それに貴族出身の教授も結構いるからさ、うん、権威とかそういうのからすると確かに厳しいよね」
「……それは、なんというか……大変ですね」
俺は引き攣った笑みを浮かべながら、曖昧に頷いた。
教授会の監査の目に怯え成果の出せない進捗報告に胃を痛めるその姿はどこか他人事とは思えない生々しさがある。もし前世で、大した実績もないのに予算だけを消化している窓際プロジェクトのPMがいたら、きっとこんな顔をしていただろう。
ハルバート教授はハッと我に返ると、ボサボサの頭を両手でガシガシと掻きながら、バツ悪そうに頭を下げた。
「おっと、すまないねぇ。初対面の、それもこれからの希望に満ちているはずの若者に、いきなりこんな景気の悪い愚痴を聞かせてしまって、悪い癖だ。……よし、本題に入ろう。まずは僕の研究だね」
教授は、ようやく片付いた作業台の上に、一枚の黄ばんだ羊皮紙を広げた。そこに記されていた研究室のメインタイトルは、俺のなかに眠る前世のプログラマーとしてのアンテナを、微かに、しかし確実にピクリと刺激するものだった。
刻印の幾何学的配置と出力効率に関する研究。
「刻印の、幾何学的配置……、ですか?」
羊皮紙に書かれた文字列をなぞりながら、言葉を反芻した。
この世界の現文明における魔法道具の仕様は、エネルギー源である魔石に、旧文明の残した聖なる呪文として文字列を一文字も変えずに模写することで駆動する。文字の並び、つまりコードの構文の正しさだけがすべてであり、それを現には意味こそわからないが完璧にトレースすべき神聖なものとして扱われている。
そこに幾何学的配置という要素がどう絡んでくるのか。
「そう。幾何学的配置。……実はね、僕がまだ君たちと同じ学生だった頃に、刻印を刻むのに大失敗したことがあってね」
ハルバート教授は、まるで昔の失敗談を懐かしむように、悪戯っぽく目を細めた。
「手元が激しく狂っちゃってさ。文字の一部が物理的に完全に削れて欠けた状態の、ひどく不格好な魔石を作っちゃったんだよ。普通の感覚なら暴走するか、あるいは完全に沈黙して一切起動しないゴミだと思うよね? 実際、僕も破棄しようとしたんだ」
教授は人差し指を立てて、俺の目の前に突き出した。
「だけどね……試しにその欠陥魔石を駆動させてみたら、何故か、妙に魔力の消費効率が良くて、燃費が異常に高い魔法道具が出来上がっちゃったんだよ。同じ刻印を入れたはずの道具を遥かに超える出力見せたんだ」
なるほど、と。
男爵家のごくつぶしだった彼が、この大学で教授の席を勝ち取ることができた、何か見つけちゃったの正体は、その学生時代の偶然だったのだ。
「その理由が、今の理論じゃ、どうしてもいまいち説明がつかなくてさ。だからこうして独立して研究室を立ち上げて、その再現性を探っているんだ。……まぁ、その後は狙って同じように文字を欠けさせてみても、ただ動かなくなることの方が多くて、あんまりパッとした成果こそ出ていないんだけどね。でも、確かに時折、僕が下っ手くそに彫った不完全な刻印のなかから、妙に性能が良い奇跡の個体が出てくることがあるんだよ」
教授は肩をすくめて、手元の羊皮紙に目を落とした。
「だから僕は、刻印の文字そのものじゃなく、文字の削れ方や、彫る位置の幾何学的な配置のズレに、魔力を増幅させる未知が隠されているんじゃないか、と考えているんだよねぇ。
それに今でも変なのは見つかることもあって、ちょっと欠けた魔石の方が効率良いこともあったりするんだ。
もっとも、教授会からは、ただの偶然の産物を追いかけているオカルトマニアだって、いつも予算を削られそうになっているんだけどさ」
ハルバート教授のその言葉を聞いた瞬間に、いつかどこかの心が蘇ってきた。
文字が一部欠けた魔石、それが、偶然にも元のスペックを超える効率を発揮した、と。
現文明の人間は、刻印をある種神聖なそれとしてコピペしている。だが、その正体は過去の転生者が残した英語記述のプログラムだ。
もし、下手くそに彫って文字を欠けさせた結果として効率が上がったのだとしたら。それは幾何学的な奇跡でも、オカルトな魔力の増幅でもない。
不要記述の欠落によって、魔石側で処理する容量が減ることによる効率化。これは既に俺やアリアも実際に体験している。
そして、本当にそれだけだろうか。
狙ってやっても失敗するのは当然だ。文字の意味を理解していない教授は、必要な記述までランダムに削ってしまっているのだから、大半がエラーとして沈黙や暴走を起こすのは当たり前。奇跡の個体とは、本当に確率の壁をすり抜けて、不要なゴミ記述だけを正確に削り落とした、天然の最適化に他ならない。そのはずだ。
だが同時に、欠けた魔石の方が効率を出せるというのは謎だ。
不要を落として効率を出すことが出来ても、落としていない状態で効率が上がるというのは考えにくい。だというのに、実際にそれは出来てしまっている。
そう理解した瞬間、俺のなかで、レポートをあえてクソコード化して提出した時のあの不完全燃焼なイライラとは全く違う、純粋な技術的探求欲が頭をもたげそうになった。
「……あの、教授。もしよろしければ、教授がその奇跡と偶然の再現のために、今実験用に彫りかけている刻印の魔石を、少し見せてもらってもいいですか」
「おや、興味を持ってくれたのかい? 嬉しいねぇ。ああ、いいよ。ちょうど今、そこにテスト用に彫りかけた4級の魔石があるから、見てごらん」
ハルバート教授は顔を綻ばせると、作業台の引き出しから、ひとつの小ぶりな魔石を取り出して手渡した。
その魔石を両手で受け取り、表面に刻まれた幾何学的な模様を覗き込んだ。
下手だ。大分、というか、壊滅的に下手くそだぞ、この人。
俺は魔石を握ったまま、顔の筋肉が引きつるのを必死に抑えなければならなかった。
ハルバート教授自身の、刻印を施す側の人間としての腕前は、お世辞にも上手いものとは言えなかった。
あの超特級の技術探求者の神業を、毎日特等席で見せられている身としては、ハルバート教授のタガネの跡は、あまりにも見ていて不安を覚える代物だった。
文字の線は細く波打ち、本来直線であるべきフォントは歪み、文字と文字の間隔はバラバラ。インデントが一切整えられておらず、全角スペースと半角スペースがランダムに入り混じり、いたるところに誤字の一歩手前のような記述が散見される、最悪コードィングそのものだった。
この世界において、刻印の一文字の書き間違いは、プログラムにおける構文エラーと同値だ。最悪の場合、魔石のエネルギーが異常を起こして物理的な暴走を引き起こすリスクすらある。一文字も変えずに模写するだけが現文明の仕様だというのに、大学の教授であるこのハルバートという男は、その基本の時点で、常にめちゃくちゃなリスクを抱えている。
「ね? どこか不思議な現象だろう? 文字のこの辺りの線の傾きが、魔力の流れをこう、ねじ曲げているような気がするんだよねぇ」
ハルバート教授は無邪気に、歪んだ文字の配置を指差しながら、楽しそうに笑っている。
そして、目の前にある、今にもシステムダウンしそうなクソコード。
ハルバート教授のこれは純粋なコードの最適化という、プログラマーなら誰もが本能的に美しさを求めてしまう、エンジニアの根源的な美意識を激しく揺さぶる謎なのだ。目の前にある汚いコードを、今すぐ綺麗に整え、クリーンなコードとして書き直してやりたい、という強烈な誘惑が、脳の内から激しく湧き上がってくる。
同時に、最適化されていないコードで効率を出せる理由はいくらでも検証をしたい。欠け方に、欠けの限界、知りたいことは無限にある。全く考えもしなかった観点からの世界の未知が好奇をどこまでも刺激する。
この頼りない、どこか放っておけないハルバート教授の謎を論理的に解き明かしてやりたいという、知的好奇心の暴走。下手に綺麗足跡を残してしまえば波風の無い生活とのお別れという恐怖。
ハルバート教授の下手くそな魔石を両手で握りしめたまま、どこか今までとは違う悩みに声を出せないでいた。