ボルス教授の時のように現状の問題を洗い出してレポートを書けといった、わかりやすい宿題は、ハルバート教授からは提示されなかった。
成果の無さで教授会から針のむしろに座らされている窓際PMの彼は、初日の終わりに、ただ困ったように微笑んで俺にいくつかの4級魔石の手形を渡してきただけだった。
「いやぁ、うちの研究室はね、既存通りの課題を出してもあんまり意味がないんだよ。だから、そうだな、次の体験までの間、通常の形態の魔石じゃなくて、君自身の手であえて最初からちょっと欠けさせた魔石を用意して、そこにいつもの刻印を試すという実習をやってみてほしいんだ。どんな欠け方なら動くのか、どんな欠け方だと動かないのか、君なりにやってみて欲しい」
それは、簡易実験そのものだった。
男子寮の自室に戻ってからというもの、ハルバート教授から支給された実験用のボロい魔石を机に並べ、タガネを握りしめていた。
だが、現在の俺の手元は、かつてないほど迷い、そして止まっていた。
不要な記述を落として効率を出すことは出来ても、欠けている魔石にそのままオリジナルを刻んで効率が跳ね上がるのは考えにくい。なのに、ハルバート教授は実際にそれを引き当ててしまっている。そんな未知の欠陥。
「……クソ、綺麗に書き直したいのに」
俺はため息をつき、タガネの先端を見つめた。
ついでに言えば、ハルバート教授のあの全角半角が入り混じったような壊滅的な彫り跡を見た後だと、自分のタガネさばきがどれほどのスペックなのか、客観的に評価せざるを得なかった。
俺の刻印の技術は、お世辞にも上手いとは言えない。自分の彫った魔石を見つめても、ハルバート教授のあの汚い彫り跡と比べて、ぶっちゃけちょっとマシという程度、どんぐりの背比べの領域でしかなかった。あのバケモノレベルを毎日特等席で見せられているせいで基準がバグっているだけで、俺も教授も下手という水準で並んでいるのが現実だった。
だからこそ、俺がここでハルバート教授と同じように下手くそな彫りで魔石を削り、偶然にもまた別の不要記述を物理的に削り落としてしまったら、それこそ予期せぬ奇跡の個体を作れてしまうリスクがあった。
下手には触れない。だが、知的好奇心の暴走が、タガネを握る手のひらにネットリとした汗をかかせていた。
どうするかと考えながらもボロ魔石の端を慎重にタガネで削り落とそうとしていた、まさにその瞬間だった。
ドォン!!!
凄まじい衝撃音が、男子寮の一室に響き渡った。
俺の手元がわずかにブレて、魔石の端が狙いよりも深く削れる。
「……アリア。頼むからノックしてくれ。ドアの寿命は、お前のせいで確実に縮んでいるぞ」
俺は心臓の動悸を押さえながら、振り返ることなく背後の侵入者に文句を言った。
現れたのは、案の定、赤髪を雑にまとめたアリアだった。だが、この前のようにキレ散らかしている様子はない。それどころか、信じられないほど晴れやかな、どこか上気した顔で、その大きな目をギラギラと輝かせていた。
「おーけい、カイ! ドアの話なんかどうでもいいじゃないか! 聞いておくれよ、ボルス教授の研究室は最高だ! 見たこともない刻印が至る所に転がっているよ!」
アリアは俺のベッドに文字通り滑り込むように腰掛けると、信じられないほどの早口でまくしたて始めた。
そういえば、スケジュールのズレによって、彼女は俺の後を追う形で、つい昨日からボルス教授へと配属されていたはずだった。
前回の計測研究室でのログ取りであれほど死にそうな顔をしていた彼女が、今や狂喜乱舞で戻ってきたのだ。
「そんなにか? 俺が最初に行った時は、随分と議論の様な会話の応答連続だったが……」
「何言ってるんだいカイ! あれのどこがそんなものか! 旧文明の人たちが残した、刻印の記述の断片……! 意味こそわからないが、私も扱ったことのない正真正銘の最先端だ!あそこには本物の、未知が眠っているよ!」
アリアは俺の机の上に身を乗り出し、目をランランと輝かせながら、タガネを持つ所作を真似て空中に綺麗な円を描いた。
「ボルス教授もね、私がその刻印の美しさについてちょっと話したらさ、あの顔を驚きで真ん丸にしてねぇ、それは良いねぇって、すっごく盛り上がっちゃったんだよ! それでね、まだ動かせてない刻印をいくつか、実際にタガネを握って写せないかを試してみないかって話になってさ! 私は今日、3級魔石の端材を丸ごと三個も消費してこの手で刻んできたんだ!」
「……は?」
「…いやぁ、あれは実に良かった。アレが実際動いたらどうなるんだろう、想像だけでも興奮してくるよ。動かないという点だけが実に残念だ」
アリアは不敵に、あの小悪魔な唇の形で微笑んだ。
「ねえカイ。ボルス教授のところ刻印、君なら、本当はどういう意味で書かれているか、解読できてるんだろう?」
アリアはベッドから立ち上がると、俺の机の上に両手を突き、ゼロ距離で俺の目を真っ直ぐに見据えてきた。
彼女の瞳の奥にあるのは、純粋な技術への圧倒的な飢えと、俺という世界で唯一のコードの書き手に対する、絶対的な期待の光だった。
「君が読んで書いて、私がそれを形にする。たったそれだけで、旧文明の遺物は形になる。違うかい?」
アリアのそのあまりにも魅力的な、そして破滅的な提案に言葉は出せなかった。
それに何を思ったのか、また来るよとアリアは帰っていった。
そういえば算術の講義をどうするんだろうと場違いな思考で漸く現実が戻ってきた。