実験室は無人で走り込んだ足音が妙に響いていた。冷え切った空気と、昼間の講義で使われた魔石の削りカスの仄かな匂い。掴み走っていたアリアの手首を離すと、すぐに部屋の隅にある魔法道具で灯りを灯し、実習台の上に棚から取り出した簡易測定器と、数本のタガネを並べた。
「カイ。連れてこられたのはいいけどさ……。で、どういうことだい?」
実習台に無造作に腰掛けたアリアは、腕を組んで不満げに口を尖らせていた。その顔には、食事を強制的に中断させられたことからか、仏頂面に、そこそこ以上の苛立ちが隠すことなく示されている。
「悪い、アリア。だけど、今すぐに、どうしても、試したい。……これを見てくれ」
俺は懐から、いつぞやの売上で増額された小遣いを元に購入した、通常の3級魔石と、先中心部からの距離が均等になるようにさらに形を整えた3級魔石の2つを並べた。少しばかり不格好なのは俺の腕の問題だろう。
「私は刻印を彫る側の専門だからね。道具の設計も、君がどう考えているのか、よくわからないよ」
「ああ、今から説明する。そういう仮説として聞いてくれ」
先ほど食堂で思いついた魔石中心を物理層と見なした時のアクセス距離という仮説を、できる限り簡潔に彼女に伝えた。
魔石の受付層は表面にあるのではなく、幾何学的な中心に存在しているのではないかという構造。そして歪な多面体のまま文字を刻むことで刻印の読込にロスが発生しているのではないか、と。
「……つまり、さっきお前に解いてもらった図形問題は、その中心部から刻印の重要記述までの最短ルートを知るための計算だったんだ。まあ、立体配置だ。その計算から見積もった理論上の効率の変化が、この形を整えた魔石と通常の魔石でどれだけ違いうるのか。それを今から実際の計測を行って、実測値を取る」
俺がそこまで一気にまくしたてると、アリアの顔から険が削ぎ落とされていった。
苛立ちは上書きされ、代わりに彼女の大きな瞳の奥に強い光が灯る。静かにキレていたはずの彼女は、今や完全に楽しさの中という顔つきにシフトしていた。
「……おーけい。話の構造は理解したよ、カイ。……で、計測の状態はどういう感じだい?」
「どういう感じって……。お前、さっきから計測器のは動き続けてるだろ。これ、ちょっと前の講義でやったんじゃないか?」
メーターを差しながら呆れると、アリアは忘れたねえと実にあっけらかんと開き直ってみせた。
「私はくだらない数字の羅列を見るのが一番嫌いだって言ったじゃないか! 私はただ刻印が結果としてどう動いているか、それだけを知りたいんだよ!」
「はいはい、わかったよ。じゃあこの辺の処理は全部俺がやるよ」
会話をしながらも、手元のレポート用紙の余白に、一定時間ごとに計測器が示す数値をプロットしていった。
実験の仕様はシンプルだ。通常の魔石と、形状を立方体に近づけた魔石。それぞれに全く同じ熱源の刻印をアリアに超高速で彫ってもらい、同じ負荷とした際、水槽の温度がどれだけの時間で上昇していくかをタイムログとして収集する。
「ある程度、データが集まるまでは時間が必要ではあるが…。今のところ問題なしだ。計測自体は綺麗にできているぞ」
装置の動きは時に任せつつ、時折ペンを走らせ、点プロットし曲線として繋いでいく。
他に学生は居ない。妙に静かな実習室に真鍮の針が刻む音だけが響く。
「……よし、そろそろ次の点が打てそうだな」
メーターの針の動きを見、新たな座標に黒いインクの点を打ち込んだ。プロットされた点と点が繋がっていくにつれ、2つの測定結果には少しずつズレが生じていく。
「うう、随分とめんどくい……」
アリアは実習台の上で頬杖をつきながら、俺が地道に点を打っていく作業を退屈そうに眺めて、小さく零した。
「こんなことしなくてもすぐにわかるようなものがあればいいのにさ」
「まあ、旧文明の技術水準なら、そういう高度な測定器があってもおかしくないだろうな」
かつての地球の実験装置を思い出しながら適当に相槌。話しながら行った最後のプロットを打ち終えた瞬間にペンの動きは完全に停止した。
「……終わった。おおよその測定は、これで終わりだ」
学生用実習室にある簡易的な測定器具だ。当然、計測の精度そのものは大分荒いし、今だって環境を綺麗整えたわけでも、データのサンプリングレートすらも低い。だが、それでも簡易計算のための生データとして十分に使えることは確かだった。
測定結果から元の魔石の出力を3次元放射のモデルを以て組み立てていく、インクが羊皮紙を汚し、解として時間を遡っていく。
「…8割だ。計算上の理論値と実測が、8割で一致したぞ…!」
「8割…? それって、凄いの?」
アリアが身を乗り出して、インクまみれのレポート用紙を覗き込んできた。
「最高に凄い。完全一致じゃないのは、いくつか要因がある。ちょっとどうしようもないのもな。そもそもこの実験室での測定精度。まあ、もう少し整えられたかもしれんが。次に、俺が手作業で削ったから完全に球と立方体を再現できてないという問題。そして何より、俺の立てた理論が、まだ単純で綺麗すぎるという問題だ。……だけど、そんな誤差をすべて差し引いても、一つの解を得てしまったぞ」
「それは……どうだったんだい? 君の言った仮説は、正しかったのかい?」
アリアが、じっと俺の顔を覗き込んできた。その瞳のなかには、冗談や悪戯の気配は微塵もなかった。
俺は深く息を吸い込み、装置に繋がって未だ熱を放つ、形を整えた魔石を指差した。
「ああ。俺たちの仮説は正しかった。……ハルバート教授の発見は奇跡の産物でもオカルトなんかでもじゃない、真理の欠片だったんだ」
現文明のオリジナルコードはクソコードでもある。ただ、魔石をハードウェアとみなし記述の位置を最適化すれば、たったそれだけでも効率を上げられる。そんな三次元という空間前提を現文明の人間が全員見落としていただけだったのだ。
「……そっ、か……!」
その回答を聞いた瞬間、アリアの表情が見る見るうちに鮮やかな喜色へと染まっていった。
「カイ! やっぱり君は最高だ! 文字の意味がわからなくたって、魔石の形と配置を変えるだけでこれまでの刻印の可能性がさらに広がる……!」
夕闇が完全に実習室を包み込み、薄暗い魔導灯の光のなかで、赤髪の少女が壊れたブレーキのままに歓喜の笑みを爆発させる。
その圧倒的なまばゆさに、少しだけ高揚感の残骸と、遅れてやってきた胃の痛みを見ないことにした。