王都の夜空に星々が静かに瞬く様を背にして、男子寮の自室に戻ってからというもの、外套を脱ぎ捨てるのももどかしく、すぐさま机に向かってインク瓶の蓋を開けた。
あの理論と実測値で8割の精度で合致したという事実が、脳内で未だに激しい火花を散らしている。
ペン先が羊皮紙を引っ掻く音だけが、静まり返った密室に響き渡る。
タイトルはあえて地味に、ハルバート研究室のドメインに偽装した。
魔石の幾何学的重心と刻印配置における出力の相関について。
2次元的な表面の写経という固定観念を、真っ向から否定するロジック。魔石という三次元構造体の物理的な中心部にこそ、刻印を魔法として認識・変換するためのコア物理層が存在しているという仮説。そして、その中心部からの最短距離を算出し、重要記述のレイアウトを意図的にその位置へ集中させることで伝達ロスを極限まで低減させるという体系化された手法。数式と実測値をグラフとしてプロットしていくその作業は、前世で何百枚もの仕様書を書き連ね、深夜のオフィスで試行錯誤を繰り返していたあの頃とどこか似ていた。
「……できた」
最後の一文を終えた時、跳ね上げ窓の向こうの空は、うっすらと白み始めていた。
翌日と言うべきかその昼のことと言うべきか、とにかく陽光が窓から差し込む時間帯になって、俺はようやくベッドから這い出し、重い足取りで寮の食堂へと向かった。
休日の食堂は、講義のある平日に比べて学生たちの数も少ない。
「また随分とひどい顔をしているじゃないか。…あの時の顔にそっくりだねぇ」
小気味よい音を立てて対面にトレイを置いたのは、やはりあの赤髪で。
アリアは俺の目の前に座るなり、楽しそうに目を細めて俺の顔を覗き込んできた。徹夜明けの灰色に濁った俺の瞳と、目の下に在るであろう色濃い隈を見て、あの古い記憶を完全に呼び出しているらしかった。
「……まあ、だろうな」
俺は力なく笑いながら、フォークでトレイの上の野菜を突き刺し、口へと運んだ。
奇しくも、今口にしているのは、あの時と同じ、あの解読をした朝と同じ、少し苦味のある青野菜だった。
「なぁ、アリア。……あれは、どうしたものかな」
俺はフォークを置き、トレイの脇に置いていた、インクの匂いが残る今朝書き上げたばかりの羊皮紙の束に視線を落とした。
「どうするって、君。何を今更」
アリアは食堂のスープをスプーンで上品に、しかしどこか早口に啜りながら、実にあっけらかんと言い放った。
「どうせ昨日のことを全部その羊皮紙の上に全部論文みたいな形で書き出しちゃったんだろう? だったらさ、別にそれをそのままハルバート教授に提出して、終わりにすれば良いじゃないか。不人気研究室で予算を削られそうになって困っているんだろ? 十分な成果になるじゃないか」
「簡単に言うな。問題は、その提出した後どうするんだよ」
俺はこめかみを押さえながら、再び胃の奥がきりきりと差し込むように痛むのを自覚した。
「この論文を教授に出せば、あの人が余程悪辣な、他人の成果を平気で盗むような人でない限り……いや、あの人柄は考えにくいが、とにかく確実に執筆者である俺の名前を共同研究者として論文の中に残すだろう。それだけじゃない。空間配置の正確な座標の解を出した、アリア、お前の名前だって同時に記録されることになるんだぞ」
ボルス教授の時のように、世界を吹っ飛ばせるような一撃ではない。
今回の発見はただ少しだけこの世界の魔法科学の歩の進める。ただそれだけのこと。物理的な構造の問題を一つ取り除き、本来あるべき効率へとシステムを最適化する。それだけの話。
だが。それを、前世の記憶という不正な何かを持ってしまった自分の手で、この世界にインパクトを起こして良いのか。それだけがどうしても拭えない、底知れない不安だった。
計算モデル自体は、立体を利用した幾何と少しばかりの解析だ。
だが、それを十全に理解し、魔石の物理構造と結びつけて三次元的なレイアウトの最適化計算へと応用できる人間はこの大学という場所でもそう多くはない。だとしても一度この論文が提出されてしまえば話は別だ。
結果として弾き出された魔石の形を整え、中心に近い場所に刻印の重要記述を集中させるという方策は、あまりにも単純で同時に誰にでも真似ができるものだ。そしてその応用に、周囲が気づかないなんてことはまずもってありえない。
問いかけに対しアリアはパンの最後の一片を口に放りながら不敵に微笑んでみせた。
「別に、気にしないねぇ。我が家は元から王都でも随分な高名の彫師の家系だしね。私の名前自体、刻印の彫という世界じゃそれなりに知られているものなんだよ?
論文に名前が刻まれてそれで何か変わるものかい?」
本当に、彼女は何一つ気にしてなどいない。
そこにあるのは、ただ一つの事実としての絶対的な肯定感だけだった。
「……それで良いなら、それで良いさ」
俺は降伏の手を上げるようにため息をつき、論文の束を鞄の中に仕舞い込んだ。
「分かった。次の最後の研究室体験の訪問の時に、ハルバート教授にこれを提出しておく」
「いいじゃないか。 じゃあ私は、ボルス教授のところで次の魔石があるから一足先に部屋に戻るよ。またね、カイ!」
アリアは満足そうに立ち上がると、風のようなスピードで食堂を去っていった。
パタン、と遠くのドアが閉まる音を聞きながら、冷めかけたスープを見つめていた。アリアはきっと昨晩の実験のログを元に自分の自室で色々と試しているのだろうと想像できた。
だが頭の中には、彼女の姿とは全く違う、もっと巨大でもっと冷徹な別の仮説が濁流のように湧き上がっていたのだ。
もし、魔石が中心部に読み取りのための物理層のように受付層を持っているのだとしたら。
スプーンを握ったままに思考が没入していく。
魔石の中心に信号の受付層がある。ならば、その周りを取り囲んでいる外層とは何か。
仮説はすぐに。
外層とは純粋なエネルギー源か、あるいはさらなる多層構造を仮定するならば、内側のコアから放たれたプログラム命令を、熱や冷気、光など具体的な属性に変換して外部へ放射するための出力媒体と見なしても整合性が完全に取れる。
もし。もしもその層の抽出技術が確立されてしまったら。
今のこの世界は、魔石を4級や3級と、魔物から採れたそのままの大きさで区分を行っている。加工費がないから4級は安い、大きさとちょっとの加工の手間で3級は高いと。
だが、魔石の構造がコアと外層に分離できるのだとしたら、そんな等級のシステム自体、本来は存在しなくていい。
コアがパーツとしてあれば、その周りの外層なんてものは、別に安価な4級魔石の残骸を結合させて拡張したっていいし、それは3級だろうと同じ事。
そして、それがさらに進めば。魔石からコアの存在だけを純粋に取り出し、コアを記述部位とし、外層は完全に制御可能な純粋なエネルギー源として、あらゆるシステムに電力を供給するように扱えるようになってしまう。それはどうしようもなく便利で全ての産業で利用可能なものになるのにそう時間も要らない。
そして結果に、あの超高度な文明を築いていた旧文明の人間が気づいていないはずがない。
脳裏にはボルス教授の研究室の光景。
旧文明の輸送魔石の出土品として見せてくれた、幾何学的な刻印がびっしりと刻まれた謎の魔石。あの魔石のサイズは、今のこの世界の3級魔石と、大して変わらないものだった。
だが、もし旧文明がとっくにコアを認識しているなら。
自動車や鉄道を複雑な自動運転や車体制御のコードを含んだ状態で動かすための記述がただそれだけで存在している。エネルギー源としての外層は全く存在しない。
旧文明において、魔石そのものからコアを切り出し、外側のエネルギー源となる外層部分とは別に運用をしている。それはつまりコアであるはずの部位だけで今の魔石と同等の大きさを持つということ。
それが意味するのは旧文明が魔石を物理的に巨大化あるいは結合させるだけの技術と、それを国家規模で運用する生産体制を持っていたことに他ならない。
この仮説が通るなら、旧文明とは、前世のどこより遥かに恐ろしい怪物だ。
旧文明はおそらく地球の科学技術以上に効率的で圧倒的な兵器」を、当たり前に内包して、運用して何らおかしくない水準にあった。
そして同時にそれは魔法の理論的構築と同時にいかにして効率良く国家内で大量の魔石を収集し選別し、コアを切り出すかという大規模な供給システムの構築と同義になり得る。
巨大な魔石を効率よく集めるためには魔物を効率よく大量に間引き、管理か養殖をしなければならない。それは生態系そのものすら構造に組み込んだ存在としか言いようがない。
誰にも、話せない。絶対に、アリアにも。
冷え切ったスープの傍らで、流れる冷や汗が、顎を伝ってトレイの上に落ちるのをただ見つめていた。
幸いなことに、まだこの現代の文明には純粋に生物そのものを学術的に探求するという生物学の概念も、なぜ魔法が起きるのか、なぜ魔石を魔法道具の重要部品として使えるのかという自然の摂理そのものを解き明かそうとする理学に近い概念は存在していない。
今の人間たちにとって魔法とは伝わっている呪文をそのままに刻めば動くという便利で神聖なブラックボックスでしかなく、魔石とは魔物から採れる便利な燃料でしかない。
「……だけど、それだって、そう長くは持たない」
アリアのあの輝く瞳を思い出す。彼女のような技術の奴隷が、これから何人も現れ、この論文を足がかりにして最適化という足がかりから跳ねれば、世界は爆発的に加速する。数十年か数百年後この世界は必ず、旧文明が辿ったのと同じ滅亡を踏み抜く。
知識と同時に魔石と刻印をさらに解析し使えるものとして残さなくては。
自分がそこに居るかより、いつか来る世界の破滅の切掛けへのカウンターとして。知っている限りの前世の地球の知識を残し、利用可能な魔石をひたすら収集し、世界中に散らばっている旧文明の未知の刻印を探し出して解析する。
頼むから。この仮説がただの勘違いであってほしい。
そんな思いと共に冷え切ったスープを強引に喉へと流し込んだ。