ハルバートの部屋へと向かう廊下は随分と冷えていた。息は白く、マフラーの隙間から入る空気も首に冷気をもたらしてくる
鞄の底にある羊皮紙の束の存在を右手の平で確かめながら、別棟の長い廊下を足音を低く抑えて進んでいた。
あの論文から、魔石の中心部に刻印を魔法として認識するための読込層が存在しているという記述は削った。だがそれでもハルバート教授が学生時代からずっと奇跡的個体と称して追い続け、周囲からはオカルトだと言われてすらいた、不完全な魔石での出力効率上昇とは再現可能なものになっている。
文字の削り方と魔石の形状の調整という特定の幾何学的配置によって、完全に再現性を持つ確立された手法であることだと。数式と実測を以て完璧に証明した。
ただ、何故そうなるのかという理由だけが存在しない。そうなるというだけの究極に結果だけを求めた代物。
「失礼します、ハルバート教授。今回の研究室体験の課題を私なりに再現できましたので結果を論文としてまとめてきました」
ノックをして部屋に入り、あの魔石削りとお茶会の時間になる前に羊皮紙の束を差し出した。
ハルバート教授は作業台の上の魔石の山から顔を上げ、ボサボサの髪を揺らして穏やかに微笑んだ。だが、彼が俺の差し出した羊皮紙の先頭。そのタイトルに目を落とした瞬間に空気が変わった。
教授の目には、これまでの数週茶を啜りながら身の上話を語る、あの窓際のそれに似たとしての緩くどこか頼りない気配は一滴残らず消え失せていた。
そこにあったのは冷徹な知性の眼光。
「…これは、君が?」
「はい。同じ学科のアリアの刻印の配置の手伝いと実際の刻みをしてもらい、実地で測定を回した結果です」
ハルバート教授はそれ以上は言葉を発しなかった。ただ無言でインクの匂いが残る羊皮紙を一枚ずつ読み進めていく。
論文自体はそう長いものではない。
魔石の表面をどうタガネで削り、どう配置すれば効率が跳ね上がるかという具体的手順と魔石の四角い形状を整えるためのいくつかの拙いスケッチが載っているだけ。文字の量だけで言えば、随分と簡素でマニュアルのような構成だった。
すべてのページをめくり終えたときハルバート教授は深くとても長く息を吐き出した。
鋭かった瞳は徐々に元の頼りない雰囲気のいつものものへと戻っていく。羊皮紙の束をゆっくりと両手で包み込んで、落ち着いたトーンでしかし震える声で俺に語りかけてきた。
「そうか……。これで、僕のあの奇跡の個体は……単なる偶然の産物なんかじゃないって示せたんだね。……本当に、本当にありがとう、カイくん」
弱小貴族の三男坊としてごくつぶしと呼ばれ、学問の場に身を置いてもオカルトだと教授会から針のむしろに座らされていた男の何年越しか何十年越しの存在証証明だった。
そんな言葉にどこか自分の方でも安堵のような不思議な気分を得ていた。
だが教授は驚くほど真剣な顔をして、俺の論文の一番上の記述を指差した。
「だけどね、カイくん。これの著者の欄なんだけどさ。…ここには、僕の名前も入ってしまっているよね? これは、僕の名前を消して君の名前と、女子学生かな、このアリアという人。この2人だけのものにすべきだよ」
「え? いや、それはおかしいでしょう。何故ですか?」
思わず問い返すとハルバート教授は優しくしかし確実に首を振った。
「だって、この結果を導き出したのは間違いなく君たちだ。僕はただ学生時代に偶然見つけて、それを何年もただ不思議として眺めていただけ。これは僕の方から教授会に持込こそするけど、本当に成果として僕の名前がここに居るべきじゃないよ。手柄の横取りなんて柄でもないしねえ」
「嫌です。この論文にはハルバート教授にも著者として入ってもらいます」
俺は一歩前に出て、ハルバート教授の目を真っ直ぐに見据えた。
「元々、欠けた魔石での効率上昇という問題を見つけたのは過去の教授です。俺もアリアも、そもそもそんな現象があったことすらここにきて話を聞くまで知らなかった。問題を解くことよりも先に、問題を見つけ定義するという貢献は一番最初の貢献です。その発見の名誉には、絶対にハルバート教授が最上位で与えられるべきです!」
「いや、だけどね、カイくん、実際の数式を…」
「数式なんて問題を解くための補助です! 教授の発見がなければこの数式自体がただのインクの汚れです!」
それからはもう完全なる口論で。
別棟の不人気研究室の静かな空間の中で、平民の学生と大学の教授が、お互いに自分の名前を削れ、そっちの名前を前に出せと普通ではあり得ないベクトルの、著者の押し付け合いを繰り広げる。
研究室体験としてただの雑談やお茶の時間ではなく著者を巡る激しい応答で完全に使い切るほどの猛烈な応酬。
最終的に、ボサボサの頭をさらにめちゃくちゃにかきむしったハルバート教授が折衷案と降伏を宣言する形でようやく決着がついた。
論文の著者欄には、ハルバート・クラン、アリア、そしてカイの3人の名前が共同研究者として並んで記されることになる。
ただし教授はせめて筆頭なんてことにはせず3人の中で最後にすること、出来れば本当に論文の末尾に過去の経緯として乗せるくらいにしてほしいと。
「いやあ……。この2ヶ月くらいで、僕が何年も足踏みしていた研究が一気に進んじゃったねぇ。本当に、君たちはすごいよ」
体験の時間が完全に終わり、研究室を退室するとき。
背後からかけられたハルバート教授のどこか寂しげで、しかし心底から嬉しそうなその声が、廊下を歩く俺の耳の奥に妙に残った。
なんで、俺はあの論文を提出したんだろか。
石造りの階段を下りながら自室への帰路でふと自問自答を始めていた。
自分の立てた仮説の検証なんて、ただの個人の知的好奇心を満たすための最悪どうでもいい程度の代物だったはずだ。余計なことをせず世間も関わりも荒立てることなく生きるなら、あの実測値は昨晩のうちにすべて忘れて教授にはできませんでしたと言うだけで良かったのに。
アリアというあのブレーキの壊れた、美しく刻印を操り、同時に誰より詳しく空間を見ることのできる天才。
そしてハルバート教授という周囲から嘲笑されながらも、たった一つの奇跡を追って薄暗い部屋でタガネを握り続けてきた孤独な職人。
そんな才と発見が何も手を下さないことで、このまま現文明のなかに埋もれ、歴史の時間の中で忘れ去られていくこと。それだけが、美意識として許せないことだったんじゃないか。
かつて技術がまだ泥臭く、未熟だった時代において技術は常に個人と密接に結びついていたはずだ。
例えば、前世でまだ馬車が走っていた頃。
馬車を巧みに操る御者の腕前を称え、同時に優れた馬を育てる馬飼いの人間の名前を、人は個人の個性を伴って覚えていた。あの工房の誰それが作った車輪は頑丈だ、あの御者の手綱さばきは一級品だ、と技術は人の生きるというそれそのものだった。
だが文明の高度化はそんな個人をすべて消し去ってしまった。
誰でもボタン一つで自在に扱えるようになった家電に自動車。高度に自動化された鉄道システム。
一人一人の利用者はその製品の裏側に、どれほど多くの人間が設計とテストを繰り返し、文書を書き連ねてきたかなど気に留めない。ただ便利で当たり前として消費して、居たはずの個人のなんて忘れていく。
もしこの世界がこれから、アリアの様な技術の奴隷や科学に似た理論と実験の感覚を持つ誰かの手で進んでいくなら。
アリアのあの神業も、ハルバート教授が見つけ出した奇跡もいずれは埋没していく。
そんな風にアリアや、あの教授の存在が誰もわからない程に消えていく未来に対してムカついていた。それだけで。
「……そんなの、ただのエゴじゃないか」
校舎を出ると、凍りつくような冷たい風が俺の制服の襟元を激しく吹き抜けた。
王都の空は、すでに本格的な冬の様相を迎えていた。頭上を覆う重く淀んだ雲は、今夜にでも初雪を届けるだろう。
そんな北風の吹き荒れるキャンパスの片隅で自分の不合理で傲慢なエゴを自覚しながらどことなく自嘲し歩いていた。