机の上に散らばるタガネや魔石の隙間にどうにかスペースを確保し、アリアが差し出したかつての古文書を開いた。その横には、夏の簡易除湿器の魔石の成れ果てが転がっている。
該当のページをめくり刻印を一行ずつ追っていく。
あのコードの本質は、魔石の温度を下げることで周囲の空気中に含まれる飽和水蒸気を物理的に凝結させて水滴にするという機構に過ぎない。
となるとアリアが要求する逆としての加湿をやろうとしてもただ魔石の温度を上げるという処理にしかならない。そして元から水のない空間でただ石を熱くしたところで空気中の水がどこからか増殖するわけでもなかった。
聞いた段階で何となく予想はしていた。ただ見落としている記述やコメントアウトで忘れられた何かが無かったか、それだけを念のためチェックしたかった。だが、どこにも期待するような記述はない。ただの温度制御だけだ。
息を吐き古文書から目を上げてベッドの端のアリアを見つめた。
「結論からだが、加湿は逆の利用じゃ無理だ」
「無理?珍しいじゃないか。何故だい?」
「単純な話だ。この刻印はただの温度を下げるだけ。逆をやったところで単に魔石の温度が上がるだけで空気中の水分を増やすことには繋がらない。水を消し去るような動きじゃない以上、虚空から水を生み出すなんてできない」
「そんな……! だったら、この私の肌と喉の乾燥はどうなるんだい!? このまま冬を越したら、私の繊細な指先はタガネを握るだけでひび割れてしまうよ!」
アリアは頭を抱え、ベッドの上でゴロゴロと転がりながらごね始めた。ポンコツモードへ切り替わったか。というかこれまでの冬をどう過ごしてきたのだろう。呆れつつも仕方ないと別のアプローチを考え始めた。
前世の地球における冬の部屋のイメージを、現在に重ね合わせてみる。
暖房を効かせたワンルーム。あの空間で簡単にできる加湿はどうだったろうか。
一つには風呂の後浴室のドアを開け放すこと。
だが、そこまで考えてこの世界での差異が思いあたる。俺の実家でも大学の男子寮でもそう だったがこの世界には個人で風呂を持つ家なんてほぼ存在しない。誰もが街の一角にある大衆浴場へ行くが主だ。それはつまり風呂の湯気で室内全体の湿度を補給するというやりかたはそもそも不可能ということ。
「なぁアリア。一応確認したいんだけどさ、家に風呂ってあるか?」
「は? あるわけないじゃないか。ここは元々が工房なんだよ? そんなのを入れるスペースがあるとでも?」
アリアは何を当たり前のことをという顔で俺を見返してきた。
その言い分はその通りではあるが社会としてはまた別に理由がある。
個々の邸宅や工房に風呂が普及しない原因は大きく二つ。一つは、各家庭の室内まで水を供給する水道インフラが物理的に存在しないこと。そしてもう一つは圧倒的な燃料の問題。
噂によれば王族や侯爵等々の大貴族には水を生成するような魔道具が配備されているらしい。だが庶民にとって水は水道の共同給水所や井戸から人力でバケツを使って室内に運搬するもの。風呂という巨大な体積を満たすほどの水を運び込むだけでもとんでもない手間と時間だ。
さらに最悪なのがその大量の水の温度を引き上げるためのエネルギー。
薪や炭を燃やすにしろ魔石と刻印を使うにしろ熱量というのは対象の体積に完全に依存する。魔石にしたって火を出すことはできても所詮エネルギー密度は低い。どれだけ最適化しようと風呂一杯分の冷水を適温短時間まで沸かすほどの出力にはどうやっても及ばない。外気温がマイナスに突っこむような冬であれば必要な温度上昇量が大きい分エネルギー不足はさらに深刻化する。
ならばと。アリアの部屋を救うためにはさらに別のアプローチを取るしかなかった。
「風呂で部屋全体を一気に、が厳しいなら……もっと容量を減らして時間をかける方向ならどうだ?」
俺の呟きに、アリアの耳がピクリと動いた。
俺はもう一度、手元の古文書の刻印配列に視線を落とした。そこには魔石の温度を設定しそこに温度を合わせるように調整している箇所が存在する。ここを書き換えれば、冷却ではなく温度を上げて魔石を熱くすること自体は可能だ。
ただこの設定値の記述はアラビア数字で書かれている。しかも地球の物理学における絶対温度の定義がそのまま採用されていた。この世界の彫師や研究者がいくら見た目を模写したところで意味を理解して数値を書き換えることなど絶対にできない。たまらず苦笑した。
ここをピンポイントで書き換える。ただ、単に魔石を限界まで熱くしても意味はない。アリアの、このパーツまみれの部屋でそんな危険な熱源が存在すれば火災という別の大問題を引き起こしかねない。
「いいかアリア。魔石の温度設定を、だいたい60度から70度くらいの、そうだな、触れると結構熱くてすぐに手を離すくらいに固定する。その魔石を水を入れた容器にセットして、水をじわじわと温めるような構造にするんだ。夏のフィールドワーク用に作った浄水魔石付水筒の別バージョンのイメージだ」
机に転がっていた羊皮紙の裏に簡単にスケッチしていくと、アリアは俺の肩越しに身を乗り出して図を凝視した。
「それなら部屋の角に置いておいて、時々水を追加しながら放っておくだけでいい。魔石の熱で水蒸気が出てこの部屋の乾燥をましにしてくれる。何より床にひっくり返したりしたとしても少し熱いお湯が溢れる程度で済む。」
俺が説明を終えると、アリアは少しの間考える様子を経て、喜色を満面に爆発させた。
「おーけい! 素晴らしいじゃないかカイ! 方針が決まったんだ、今すぐ作ろう!」
アリアはベッドから飛び起き、棚から手頃な魔石とタガネを両手に抱えて見せてきた。
「折角、設計を作れて刻印もわかる人間が一人。そして、それを寸分違わず刻める彫師も一人。試作品をやるには最高の状況じゃないか!」
「いや、俺はもうアイデアで終わりたいんだが」
「何言っているんだ! 問題が解決しそうならやるしかないだろう!」
アリアはもう止まらない。
アリアの言う通りで俺たちは恐ろしいほど効率が良い。俺が刻印の修正版を羊皮紙に書き写しそれをアリアが魔石に刻んでいく。そしてその間に道具全体の構造も設計する。
アリアのタガネが、キン、キンと硬質な音を立てて魔石の表面を走る。一度彫るべき内容を理解すれば迷いは一切ない。
そうして少しばかり時間が経つ頃プロトタイプは完成した。
アリアが棚から持ってきた手頃な水盆に水を張りその底に魔石を沈める。
「それじゃあ駆動するよ」
アリアが魔石に微弱な魔力を流し、刻印が動き始める。
数秒は何も起きなかった。それでもじわじわと水盆の底の魔石には微細な気泡まとわりつきたまに水面に浮かぶ。
水に触れてみると冬のあの凍り付くようなそれとは違いほんのりと温かな熱がそこにあった。今のところ水温は俺が指定した約65度を目指している。このまま動かしていけば安定に移るだろう。
「……少し楽になってきた気がするねぇ」
アリアが水盆の上に顔を近づけ、立ち上っているであろう湿気を吸い込みながら、満足そうに振り返った。
その頬は少し赤みが差していた。