白色とトポロジー   作:朝凪小夜

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 王都の長い冬が終わり石畳の上の白い雪が無くなった頃大学の新学期が始まった。

 とはいえ、2年生ともなれば新入生の入学式などのイベントはない。進級した者たちを待っていたのは講堂でのとりあえずといった体の全体オリエンテーションだった。

 新学期とは驚くほどぬるりと何事もなかったかのように立ち上がるものであった。

 

「お前たちもこの1年で大学には十分に慣れただろう。だが、2年次はこれまでのように講義を消化していればいいというわけではない」

 

 壇上に立った教授が退屈そうに羊皮紙の内容を読み上げる。

 

「来期の終わりにはいよいよ専門の研究室本配属がある。それに合わせて今期から各々が自律的に行動せよ。我が学科において進級に必須の必修単位こそ設定していないが、各研究室の特色や要求は大きく異なる。何も考えずに適当に講義を取り、適当に希望届を出すと、来年の今頃にはそのままの意味で泣きを見ることになるぞ」

 

 周囲の平民学生たちが一斉にざわざわとし始める。慌てる気持ちもわかる。興味こそあれど1年先の事を考え、かつ選抜迄ある中でどう選択をすればいいかなどあまりに難しい問なのだから。その中で平然としていられるのは単に一度経験をしているというだけの事だ。

 そうしてそのガイダンスが終わり始まったのは最初の関門としての講義。

 あろうことか本日の時間割のトップに配置されていたのは算術だった。

 

 「おーけい……完全に、拒絶反応が出てきたねぇ……」

 

 隣の席に着いたアリアを横目で伺うと、案の定、完全に無の表情となっていた。

 元々、前世の区分で言えば昨年の算術は算数に似た計算基礎や代数領域、つまり、回りくどい文章とで数式を愚直に解かせる作業が主だった。だからこそ、アリアにとっては苦行以外の何物でもなく教師役を要求する羽目になっていたのだ。

 しかし。そのアリアの無は、講義が進み黒板に新しい式が追加されていくにつれて、全く別の色を帯び始めることになった。

 2年次の算術が扱う領域、それは三角関数。つまりは、幾何学そのもの。

 アリアの瞳の奥で輝きが灯る。

 なるほど。これなら、こいつはもう一切苦労しないだろうな。

 俺はノートをとりながら教師役という作業が減ったことでどこか安堵を覚えていた。

 

「どうだった、2年の算術は。これならもう俺を頼らなくても余裕だろ」

 

 講義終了の合図とともに教室からの道すがらでアリアに声をかけた。

 アリアは退屈そうに鼻を鳴らした。

 

「苦労なんてこれっぽっちもないよ。まぁ、空間の線を数式に置き換えるというやり方に興味もなくもないけれどさ。……それにしても、これ、簡単すぎるじゃないか?」

 

「簡単すぎる、か。他の奴らは大分苦しそうだったぞ」

 

「あの程度で、かい? 提示された問題も、黒板の図面も、見れば分かっているもの以上の何物でもないんだよ?なのにわざわざそれを数式に落とし込んでこねくり回して……何のためにそんな無駄を挟んでいるのか、何一つ理解できないねぇ」

 

 アリアは呆れたように首を振る。数式での計算ステップを踏むまでもなく一瞬でそこにある幾何学として真理を手に掴んでしまう。これが圧倒的すぎる才。

 

「たださ、カイ。さっきの講義の最後にあった、円周を6等分に切る正三角形の図面だけどさ。あの円の中心から、三角形の辺に向けて直に落とした線の長さ余弦の比って、綺麗な比にはならないんだねぇ」

 

「……それ、1年でやった、根の概念だろ」

 

 このアリアの才はあまりにも隔絶している。息を吸うよりも簡単に図も立体もが見えてしまうのだ。数式は才なき凡人がその差を埋めるための足掻きなのだと改めて思い知らされる。

 ならば。悪戯心が、ほんの少しだけ悪さを働いた。

 前世において多くの天才数学者たちの脳を苦しませてきた難題をこの天才に渡してみたらどうなるだろうか。

 

「なぁアリア。じゃあさ、ちょっとした骨のある問題で、定規とコンパス、ただし定規は目盛なし、この2つだけを使って特定の正多角形、例えば、正十七角形なんかを完全に作図することは可能だと思うか?」

 

 かの大天才が19歳の時にその作図可能性を証明し墓標にその図形を刻むことを望んだという有名な逸話。そう望ませるだけの難しさと誘惑のある問。

 講義が終わったのは、すでに夕刻に近い時間帯だった。いくらアリアが空間認識の化け物とはいえ、この世界にはない多角形の構成問題だ。明日か、あるいは次の算術の講義の日にでも答えにたどり着くか、あるいは頭を抱えるか

そう思っていた俺の予測など一瞬で外れた。

 

「ん? 正十七角形で作図……?

 使って良いのはコンパスとただ線を引くための定規だけ?」

 

 アリアは歩みを止め、夕暮れの赤い光が差し込む廊下で、ほんの数秒だけ、視線を空間の一点へと固定していた。

 

「……出来るよ」

 

「は?」

 

「あぁ、完全に可能だよ。定規とコンパスで描く弧をこう、良い感じの比率で2つの辺の等しい三角形の円周上に並べて配置していけば、綺麗に十七の頂点が置ける。たださ……線の書き込みが随分と多くなるから、かなり大きめの羊皮紙を用意しないと、途中で線が重なって見えなくなるかな」

 

 廊下の真ん中で完全に言葉を失った。

 天才に時間を使って論理を組み立てるという概念は存在しないのだ。彼女はただ、問題に対してその脳の内の多次元空間からすでにそこにある答えをそのまま引き出してきただけなのだ。その圧倒的な才の差に背中がただただ冷えていた。

 

 そんな一幕から数時間。

 大学の実験室に一人で籠もっていた。

 部屋の中には俺が握るノミが魔石を削る金属音だけが響き渡っている。

 実験室が完全な無人だったのは僥倖で、非常に好都合だった。丁度、新前期が始まったばかりで上級生も教授陣も全体のカリキュラム調整や慣れるのに忙しいのだろう。あるいは、新しく入った研究室で先輩たちとの顔合わせの時間を過ごしている最中なのかもしれない。

 そんな周囲が動けない隙を狙って黙々と手を動かし続けていた。

 目の前に並ぶのは3つの魔石を元にして、精密に分割された合計6つの小さな魔石の断片だった。

 今回の実験は全ての魔石から可能な限り半分での切り出しを行うこと。

 ただしその3つの魔石はそれぞれ異なる状態。

 1つは全く刻印を施していない魔力が満タンの状態。2つはエネルギーを完全に使い果たした完全使用状態。3つは冬休みの間にアリアの部屋で試作し実家で売った加湿器もどきのなかで、少しだけ稼働させた、ちょっと使用状態、の魔石だ。

 魔石は刻印によって駆動された後、その内部のエネルギーを使い果たらすと、色彩の面でわかりやすい変化が起きる。

 元々は純白色でありながらも使えなくなるとまるで内側から灰を纏ったような濁った灰色の色調へと。

 冬の加湿器もどきの売上が少しばかり資金を潤してくれたからこそ、検証用として3級魔石を用意してこの物理層の確認が試せるわけだが、わざわざ今夜ここに居残ってまで行っている作業は単なる趣味ではない。目的はある仮説の検証だった。

 ハルバート教授の課題によって見つけてしまった、刻印は、実は魔石の中心部に存在する読み取りのための受付層へとアクセスしている、という仮説。

 もしその仮説が正しいとするならば、魔石の内部には目に見えるような明確な層構造が存在していなければおかしい。

 そして同時にもう一つ、魔石そのもののエネルギー供給に関する物理的な推測が成り立つ。

 もしこの魔石の内部に蓄えられている魔力によるエネルギーが、前世の物理学でいう粒子の様な振る舞いをしつつ一定の透過性を持つものであるとするならば。中心にある物理層が刻印を読み取ってエネルギーを吸引する際、当然、中心に近い部分から順番に消費が走るはずなのだ。

 切り出したちょっと使用状態の魔石の断面を卓上の拡大レンズの下へと滑り込ませる。

 ピントを合わせ集中してその内部構造を検証する。

 思わず、息を呑んだ。

 レンズの向こうに映し出されていたのは推測通りの層構造。

 完全に使い切った魔石は中心から外縁まで一様に灰色になっている。全く使っていない魔石はどこを切っても均一な純白色だ。

 だが少しだけ稼働させた、ちょっと使用状態の魔石の断面にはある程度の大きさの領域を中心とした球状の領域だけが明確に灰へと変色していた。そしてその外側の領域はまるで手つかずで元の美しい純白色を保っていたのだ。

 仮説は完全に証明された。

 魔石の内部には中心の読取層と、それを取り囲む外層のエネルギー源という明確な二層の構造が存在している。

 元プログラマーとして自分の設計した予測ロジックがバグなく通ったことに対する純粋な歓喜が最初は脳内を駆け巡った。

 しかし次の瞬間その歓喜は鉛のように重い現実となってのしかかってきた。

 この層構造が視覚的に証明されたということは何を意味するか

 あまりにも明白で、冷徹だった。

 中心の受付層と外層のエネルギー源が物理的に分離可能であるならば、現文明のように歪な形の魔石の表面にただ呪文を彫るという非効率を完全にパージできるということだ。魔石を精密に削り出し、中心の読取層だけを極小チップとして切り出しそこに大容量の外層エネルギーを別に接続すれば、効率は現文明の数千倍にだって跳ね上がる。

魔石は単独で使用するよりも、分解し構造化して再結合した方が圧倒的にシステム全体のパフォーマンスが良くなる。

 だがその効率の追求の果てにある末路は何か。

 コアという受付層のみを3級サイズに肥大化させて切り出し利用するという旧文明の営みそのもの。その裏にあるのは悪夢のサプライチェーンだ。魔物を大量に管理し養殖して間引く。国家と魔石の生産とが完全にイコールで結ばれた世界。

 この実証はまさしくその一歩目。

 汗が額から作業台へと落ちた。

 だが、一度走り始めた思考はとまらない。証明された事実を前提にしてさらにその先にある、もう一つの極めて厄介な仮説が勝手にその姿を見せつけてくる。

 そもそも、魔石とは何か。

 今のところ誰にとっての認識でも、魔石は魔物の体内から産出されるものとされている。

 広く言えば獣の一種。特に人間に害をなすような獰猛な個体を現文明の人間は魔物と呼んで区別している。だが、その生物学的な分類の厳密性にはっきりとした定義が存在しない。

もしかしたら、魔物と通常の獣の間に明確な境界などは元から無いのではないか。ただ体内に魔石という器官を持つかどうかという、遺伝子レベルの仕様の差、ただの種の違いに過ぎないのではないか。

 そして、その推測をさらに一歩進めてしまえば、厄介さのレベルは世界を滅ぼす兵器すら生ぬるい次元へと駆け上がる。

 もし魔石という存在が、純粋にこの世界の生物由来の有機的な器官であるとするならば。

 人という種にだけその器官が存在しないと、どうして言い切れる。

 

「……まさか、な」

 

 自分の口から漏れ出た呟きはひどく掠れていた。

 この世界には魔道具を介さず脳内の演算だけで魔法を発動できる王族や一部の突然変異としての天才が存在する。そして俺も含めた、大多数の魔法が使えない者たちが存在する。

これまでその差は脳内の演算能力の有無だと思っていた。

 だが、もしそれが完全に間違っていたとしたら。

 使えないと思われていた人間は演算能力が足りなかったのではない。

 人間という生物の体内のおそらくは脳の深部か心臓か、どこかに魔石と同等か、あるいは生体魔石とでも呼ぶべき受付層が、最初から全人類に存在しているのだとしたら。

だとしたら、俺たちが魔法道具なしで魔法を使えなかった理由は、単にその生体魔石に対する、適切な情報の与え方が出来ていなかっただけなんじゃないか。

 現文明の人間は、模写した英語のコードを一文字も変えずに魔石に彫ることしかできない。自分の生体器官にコードを書き込む術を持たないから一部のものしか魔法を使えない。

 そう思ってしまった瞬間、魔法の才の意味が完全に書き換えられる。

 彼らは、前世でいうサヴァン症候群のような特殊な脳の構造をした人間ではなかったのだ。

 彼らはただ、生まれながらにして自身の体内にある生体魔石の物理層に対して、自身の思考から、直接刻印と同等の制御命令をノータイムで与えられる生体内の専用回路を持っているだけの存在なのだ。

 これが、何を意味するか。

 この生体での魔法はプログラムとしてみた刻印と同等である以上、ハード的な配線をしているだけに過ぎない。そしてそれは後から外部的な追加が可能だということだ。

 体内の魔石の座標を特定しそこに外部から何らかの物理的なアプローチ、人体に直接刻印を施すか直結回路を埋め込む処理を外部から加えれば、生まれつき回路を持たない人間であっても、後天的に誰であっても、王族と同等以上の出力を叩き出す人間魔道具へと変更できてしまう。

 人体を、人間を……パーツとして。

 

「うっ、ぅあ……!」

 

 激しい目眩。

 思いついてしまった。その最悪の可能性の、具体的な方法までもが前世の知識と今夜の実験によって脳裏に完全に浮かび上がってしまった。

 後悔、という生ぬるい言葉では表現しきれない。

 心臓が異常に脈打ち、喉の奥から酸と、強烈な吐き気がせり上がってきた。

 作業台に両手を突き、激しく咽び返る。

 人体ハック。奴隷の脳に刻印を施した自動演算兵器。王族の血統をリバースエンジニアリングして量産するクローン工場。

 旧文明がそこまで手を染めていたのかは分からない。だが今の俺の脳内仮説の先には、そんな地獄が確かに存在していた。

 

「…ダメだ……。これは、絶対に、ダメだ……」

 

 これは、触れていい領域ではない。

 この世界の誰一人として、アリアにすら、絶対に口外してはならない。もしこの仮説が功名心に駆られた研究者や、権力を望む貴族の誰かに漏れれば、世界は2度目の破滅に向かって全力でアクセルを踏み込む。

 震える手でノミとハンマーを握り直し作業台の上に並べられた6つの魔石の小片をバラバラに粉砕した。削りカスも小さな小片すら残しはしない。

 そこに居てそこにあったという痕跡をすべて消去し、鍵を閉める。

 夜の大学の、冷え切った暗い廊下へと這い出るように歩き出しながら、ただ嘘をついた。

 俺は、ただの平民で、ちょっと算術が得意なだけの魔法道具店の息子だ。

 何も見ていない。何も、思いついてなんているものか。

 胃の痛みは、ない。今夜は酸の味を伴って、俺の胸の奥底をドロドロと焼き尽くそうとしていた。

 

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