自室のドアを開けた瞬間の聞こえるはずのない声に驚きで身体が固まった。
「カイ、遅いじゃないか。待つ身にもなってほしいねぇ」
ベッドの上に我が物顔で鎮座し机から勝手に拝借したノートをパラパラと捲りながらアリアが当然のようにそこに存在していた。
正体こそわかれば驚きはない。というか、そうだろうなと、妙な納得さえあった。寮の風紀規約こそあれど、これまで幾度も侵入してきたし、何よりその前提が存在する。
外套をハンガーにかけため息を吐きながら丸椅子を引き寄せた。
「……で? 今日の用件は何だ。わざわざ不法侵入した理由は」
「飽きたんだよ」
ノートをベッドの上へどさりと放って、子供のようにむくれている。
「算術の講義は簡単すぎてやり甲斐がない。かといって、あの計算ばかりの計測評価なんて、数字の文字列を処理するだけで、私にとっては嫌悪以外の何物でもない。研究室の講義だってさ、既存の刻印の習得ばかりで、今学期には面白いものが本当に皆無なんだよ!」
アリアの瞳は、技術への圧倒的な飢餓でどこか危険な光を放っていた。
新学期の初週とその後の何日かは、俺の方も前世の記憶から幾何学の難問をどうにか思い出して提示していた。だが、20何年も前のはるか遠い前世の記憶だ、詳細を思い出すのも一苦労でこれ以上は限界があった。
つまるところこのギークは新しい玩具が欲しくてたまらないわけだ。
刻印そのものの英語コードをこれ以上解読して渡すのはリスクが高すぎる。それは変わらない。だが、コードそのものを弄るのではなく、その周辺で起きる物理現象の検証ならどうだろうか。
少し前から脳内に置いていた一つのアイデアを共有してみることにした。
「なぁ、アリア。刻印のそのものじゃなくてさ、現象の方に目を向けるのはどうだ?例えば、ひどく強い出力で魔石を駆動させたとき、その周辺に置いてある別の未使用の魔石は、何か現象を誘発しうるか、とかな」
「周辺の魔石への……誘発?」
アリアのピクリと動いた耳に説明を続ける。
「あぁ。あんまり聞いたことは無いが、刻印の中には強烈な出力を出す奴だってあるだろ。そういう刻印で駆動中の魔石が他に影響を持ち得るのか、現象そのものとしても安全管理としても悪くない話に思えるが」
その突飛なアイデアに瞳が一瞬だけ輝きを取り戻した。
だがほんの直後に彼女の目は冷めたような飢えた色に戻っていった。
「……うーん。アイデアとしては面白みがあるけれどさ、カイ。それ、現象としてはありえないものなんじゃないのかい?」
アリアはベッドの上で、つまらなそうに足をバタつかせた。
「そんな連鎖的な現象があるならさ、私の実家なんてとっくに大爆発しているよ。うちには、3級までの魔石なら文字通り山のようにいくらでもあるし、なんなら2級だってたまに両親が扱っているんだ。それでもその辺に置いてある魔石が勝手に暴走した、なんていうことには私は一度だって遭遇したことがないよ?」
それは圧倒的な開発現場の実績という極めて客観的データ。
確かに特級の工房の過酷とすら言える環境で起きていない以上、この世界の一般的な魔石の仕様において隣への誘発現象など存在しないと結論づけるのが論理的には正しそうだった。
「あぁ、お前の言う通り、ただ魔石を並べるだけなら現象は起きないだろうさ」
魔石の保管はアリアの実家でなくても割と雑だ。安全かどうかというよりそもそもそれで事故が起きたことを見たことが無い。だからそうなっている。それは大学でも。そして、この状況を逆手に取るための追加前提を提示した。
「確かにそうだと思う。ここでも魔石はひとまとめにその辺に置いてるしな。でも、まだ出力と状況の面では、試せることがあるんじゃないかとも思うんだ」
「出力と、状況……?」
アリアが身を乗り出してくる。俺は机の上の羊皮紙を引き寄せ簡単な図をスケッチし始めた。
「ハルバート教授の研究の一端として、俺たちが実証した配置による効率上昇。あれを応用してさ、上手くやれば効率と同時に最大出力そのものをもっと引き上げさせることも可能なんじゃないか? さらにただ魔石を密集させるんじゃなくて、その配置の角度や距離を計算して周りに置いてやることで現象をより起こりやすくすることはできるはずだ」
「配置で、強制的に……!」
「何より一番には、全体を駆動させるためのメインの魔石を、全体の中心に配置して動かすことだ。そんな特殊な環境を構築してみるだけでも検証実験としては相当に面白いんじゃないか?」
俺が図面を叩きながら説明を終えると、アリアの瞳の奥で消えかけていた輝きが今度は青い炎となった。
「おーけい! 悪くない……いや、最高じゃないかカイ!」
ベッドから飛び起き拳を握りしめて興奮を露わにした。
だがそこまで言ったところでふと現実に戻って疑問を口にした。
「だけどさ、カイ。そんな魔石の用意や、変則的な密集配置の作成なんてどうやって実装するんだい?」
「簡単なことだよ、アリア」
外套を再び手に取りドアを指差した。
「そんな面倒が必要なら、全部まとめて、ハルバート教授のところに持って行けばいい」
「ハルバート教授の部屋に……? あぁ、なるほどねぇ!」
アリアはすべてを理解して唇を上げて笑った。
不人気で、配置の問題を研究していて、しかも今は新たな研究領域の模索中と素晴らしい条件がまとまっている。何よりそこに追加するのは既に論文の共著の上で面識のある人間。
2人してすぐさま鞄を引っ掴むと確かな足取りで歩き出した。