前期末試験は特に何の苦労もなく、極めてスムーズに終了していった。
前世の知識がまだ頭に残っている以上何ら苦にはならずとりあえず留年はありえない。主席は可能性としてはありえるだろうがいくつかの問題は確実に外したこともあって変な席次を戴くことはないはずと。アリアの方は算術は直ぐに終えたらしく寝ていた。他のテストでも寝ていたことを見るにとりあえず再試なり赤を避けるのはできているのだろう、多分。
そんな一週間が終わって大講堂から解放された学生たちが下町や問屋街へと一斉に動いていく隙間に、俺たちは無人の実験室へとアクセスした。
あの日と同じ薄暗い空間。いないのはハルバート教授だけだ。
「やっぱり実行できたじゃないか。」
アリアが声を漏らしたように強出力に書き換えた刻印によって強制駆動された中心の3級魔石は遮光布越しでも網膜をちかちかと焼くほどに凄まじい閃光を放っていた。
そしてその周囲に配置された4級や3級の未使用魔石群が中心のエネルギー変換に誘発されまるで夏の夜に瞬く蛍のような燐光をいくつも室内に点滅させた。
満足そうにやはりねと呟くアリアの肩を強く掴んだ。
「実証は取れただろ。……いいかアリア、この刻印を、お前の実家で、絶対に、実行するなよ。分かったな?」
「おーけい、分かっているよ、カイ。これは二人の秘密の実験だからねぇ」
アリアはそう言って笑った。そうして即座に実験の痕跡を消して、明日から始まる野外実習に向けて実験室を後にしたのだった。
翌朝。王都の空は、立ち上がりからじっとりと汗ばむような熱気を孕んでいた。
雲一つない快晴。2年次の夏の野外実習への旅立ちとしては、そう悪くない日取りだった。欲を言えば、もう少し涼しいと助かるのだがそこまで贅沢を要求するわけにもいかない。
「……まぁ、この仕込みがあるだけ、去年より遥かにマシか」
首元に巻いたタオルの裏地に忍ばせた、共作の冷気石を駆動した。
夏の熱気を相殺するように首元をひんやりと冷却してくれる。相変わらずの好調。
今年の野外実習は昨年の往復7日のスケジュールよりもさらに幾日か長い。
それもそのはずで、昨年は旧文明の遺跡の外周構造を確認する程度で終わっていたが、今年のカリキュラムには、いよいよ遺跡の内部への進入と探索という、より高度な内容が含まれていた。
それに伴ってか、実習に参加している学生数は昨年よりも明らかに少ない気がしていた。内部探索という危険を恐れていたり、昨年よりも長い日程という面倒を避けて講義申込をしなかったものが多かったのだろう。
「んもー、面倒極まりないねぇ! ただ土砂を掘り返すだけなら部屋で魔石を磨いているほうがずっといいのに!」
口ではそうやって愚痴を吐き散らしているアリアだったが、彼女の鞄の中には内職用の羊皮紙とタガネがフルに詰まっていた。
文句を言いつつも彼女が参加したのは遺跡内部に旧文明の思想が残した面白い刻印や未知の現象の欠片が眠っているのではないかという飢えがあるからだ。ついでに言えば、隣に俺という人間が常駐している以上、何かまた新しいバグのようなものを見つけられるかもしれないという期待すらも宿しているのが分かった。
そして、その実習の隊列の中には、あの時の3人も合流していた。
あいつらはあいつらでリスト教授の史学科研究室に無事に本所属できそうだろうか。今度状況を聞いてみるのも悪くない。
そんな予測を脳内で回しながら、初日の移動ルートを消化していく。
やがて夜の帳が世界を黒で塗り始める頃、割り当てられた共同テントのメンバーリストを確認する。
今回の実習、俺と同じテントにアサインされたのはあの男、ハインだったか。
王都の東生まれの俺に対し、北の生まれで髭に長髪という、平民学生の中では一際ワイルドな風貌をしていながらも、その実、薬草や地理の知識を蓄えて将来探索者としてガッツリ稼ぐという、極めて合理的なバックエンド思考を持つ、あの料理屋の長男坊。
テントの設営を以て初日の移動は終了し隊列は水場の近くで夜営へと移った。
中央付近では軽く火が焚かれはしたものの夏の熱気のせいで、多くの学生たちは早めに自らのテントへ戻り就寝していくか、あるいは風通しの良い外の暗がりに集まって軽く談笑を交わすなど、思い思いの過ごし方をしていた。テントの薄い布地を透過して、外からは少しばかりの話し声が静かながらに響いてくる。
俺もまた後者の一人だった。
テントの入り口に腰掛け、夜風に当たりながら彼と、互いの生まれ育った街の文化についてを交わしていた。
「……へぇ。王都で生まれこそ同じだけど、俺のいる東の下町と、北らへんじゃ、随分と違いがあるんだな」
「あぁ。前にも言ったが特に北は魔獣狩りの探索者が少ないんだ、代わりに美味い飯屋が多いんだ。東だとそんな探索者の出入りも多いだろうし、そうすると道具なりを扱う店は多いわな」
これまでの今世の中で王都北に一度も行ったことがなかったのには特に深い理由があったわけではない。
ただ実家の辺りが完全に下町の商業区というローカル環境であったことと、何より北も含めて王都には大きなモールのような店が存在しないからだ。北に行くにしてもどこへ何をしに行くかという明確な目的が存在しないと少し辛いものがある。
まして見知らぬ場所の料理店などに何の話題もないまま突撃するのは、どうにも衛生事情なりで不安が拭えなかった。王都とはいえ清潔の概念が根本から違う以上せめて見知った場所で生きていたいと。
そんなことを思い出しながら彼の実家の料理の話を聞いているとある単語が聞こえた。
「……ん?お前の実家の看板料理はチーズを使ってるのか?」
「あぁ、そうだ。お前らの東の下町でも、たまに市場でえらく乾いた黄色い塊で売ってるだろ? ……でもさ、俺の家の場合は、ちょっとそれとは違ってな」
彼は、自慢そうに胸を張ってその詳細を語り始めた。
「親父が使ってるチーズはさ、王都の市場にあるような硬くて干からびた保存食じゃないんだよ。水分をギリギリまで残した、すごく柔らかいやつだ。……まぁ、そのせいで夏場の輸送や長期保管のクオリティはめちゃくちゃ難しいけどな。その代わり、味に関しちゃそこらの貴族が食うもんには絶対負けねえぞ」
「水分を残す?」
それだけじゃないんだと彼はさらに声を潜める。
「よくよく頼んで聞いて見せてもらったらさ、見た目も少し変わってんのよ。白い塊の中に、緑色や青色の斑点が混じってるんだよ。しかも、独特の匂いもする。そのまま食うってのは相当特殊なやつばっかだな。……だけどな、そいつを肉料理のソースに少しだけ混ぜて熱を通すと、とんでもなく美味くなるし、匂いでダメってやつが美味いって食うんだから
本当に面白いぜ」
その詳細に脳内で描かれたのは前世でも高級と言われたいくつかのそれ。
この世界にも、青カビによる偶然の産物がすでに誕生しているのかもしれない。
もしそれが、前世の地球と同じ、青カビの代謝によって脂質を分解して極上の旨味へと進化させるものであるなら。それは平民の飯屋のメニューの一つとして収まっていいような、そんな素材ではない。
普通なら、そんな銘品が誕生したならば王都の巨大商業ギルドが独占販売権を追うために血眼になって動くだろうし、何より特権を持つような王族や大貴族たちが国家レベルの権力を使って優先的な商路を築いてしまっても全くおかしくはないはずなのだ。
地球でもフランスチーズなんかはそんな歴史を辿っていたはずだ
「……なぁ。それがそんなに美味いなら、なんで王都のギルドや貴族たちに見つかって買い占めされてないんだ?」
商人としての極めて真っ当な疑問に対して困ったように頭を掻いた。
「そんなに大きな規模で生産してるわけじゃねえんだ。親父の従兄が北の田舎でやってる小さな農場で時々出来るやつをうちの店がまとめて買い取っているだけ。だから、買い占め以前に量がない」
なるほど、と。つまり、銘品の誕生のまさにそのプロトタイプの局面に今立ち会っているわけだ。
もしこの世界におけるチーズの発酵と熟成のプロセスが前世の生物学と同じ流れに従って稼働しているのだとするならば。
その偶然を再現性のある作り方として、俺の知識を使えば今すぐにでも構築することが可能だった。
特定の青カビをライ麦パンか何かの培地を使って培養して増殖させる。それを牛乳を凝固させた塊の中に細い金串を使って穴を作りつつ内部にカビを付着させる。
それを狙ってやるだけでも随分と成功率は変わるだろう。
加えてこういう発酵食品で何より最悪なのが温度と湿度管理。それこそ、俺とアリアが冬休みに弄っていた魔石やこの首元の魔石も使えば、青カビの繁殖に最適な環境を完全に年中止まることなく稼働させることができる。
だが誰がそんなものを受け入れられるのか。
自嘲。
科学がそこまで進んでいないということは、つまり目に見えない微生物による発酵や熟成という現象は人の認識においては、神の気まぐれと完全にイコールで結ばれているということで。
そこに平民の小僧がしゃしゃり出て、奇跡を人の手で再現可能な事実になんてしたらどうなるか。ハルバート教授やアリアなら笑ってくれるかもしれないが宗教的に燃えたりどこぞのギルドからの拉致監禁ルートは目に見えている。
せっかく泣いて喜ぶほどの超高級ブランドの量産方法が目の前にあるのに何もできない。本当にもどかしいというかつくづく不自由だ。
「急に黙り込んでどうしたんだよ。腐ったカビの塊の話、嫌だったか?」
心配そうに覗き込んできた。ハッと我に返る。
「いや、違う! そうじゃない! むしろ逆だ! ……なぁ、お前の実家のその料理屋。この夏の野外実習が終わって王都に戻ったら、絶対に、何があっても、行くよ。冬もな!そのたカビのチーズソース、必ず食べに行くと約束する!」
「お、おう……!? なんだよ、急にでかい声で。あぁ、分かった! 約束だ。お前がそこまで言うなら、実家の特等席で親父の飯食わせてやるから、楽しみにしとけ!」
ハインは俺の想定外の熱量に驚きつつも、嬉しそうに白い歯を見せてガシッと俺の肩を叩いた。