「……正気、か?」
喉の奥から絞り出すように出た声は、驚くほどに掠れていた。
協力要請、いや、これはそんな生易しくはない。目の前のアリアの瞳の奥に灯っているのは、俗なものではなく、底の知れない沼に似て、職人としての純粋な狂気。
「嫌だね。作る? そんなことしてみろ、俺たちはどうなる。
60年前のコンロの発見者がどうなったか知ってるだろ。平民から子爵だ。もし俺がこの刻印を半分以下に最適化した魔道具なんて現実にしてみろ。国家に拉致されて兵器開発の奴隷にされるか、暗殺か、最悪異端者として処理される。良くて即死、悪けりゃ永劫の奴隷だ。俺は死にたくないしまともでいたい、平穏に生きたいんだよ」
いつのまにか早口となった言葉をまくしたてる俺を、彼女は遮らなかった。ただ、手に取った羊皮紙を見つめて、声音の温度をすっと落として囁く。
「世に出す? そんなことはどうでもいい。 私はただ、この目で確かめたいだけだよ」
「……確かめる?」
「そう。私達は、いや刻印に携わる者は誰だって、何世代も、意味もわからない古代の文字列を神聖な呪文として必死に写経してきたんだ。髪より細い隙間の配置に命を賭けて、文字をギリギリまで崩しながら、それが最高の技術芸術だと信じて彫ってきた。……でも、それがただの旧文明の愚痴だったなんて、誰も気づかなかった。誰もそれを削っていいなんて思いもしなかった」
アリアが顔を上げる。その灰色の瞳は、飢えた獣のように肉食的な光を放っていた。
「目の前に完全なものがあるんだ。余計な濁りもない、完璧で合理的。私は彫師だ、これを見て、自の手で形とせずに死ねるわけがない。手伝わないというなら、私はこの記憶を頼りに、一人でも彫るよ。……それでミスで暴走して、弾け飛ぼうが死のうがしらないけどね」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
脅迫ではない。彼女は本気だ。この手合いの人間は、前世の開発現場でも見たことがある。
徹夜、カフェイン、果てはあらゆる言語へのアクセスも。
技術への探求心のためなら、自分の命すら構わないタイプの最高最悪のギークだ。
ここで拒絶したとして間違いなくアリアはやる。自滅も、おそらくする。そうなったとき、高確率でその原因として俺のノートに辿り着かれる。ノートを燃やしたとして、交友関係、タイミング、状況証拠で特定されるのは避けられない。密告されるリスクを躱しても、このまま放置するリスクだって同等、いや手から離れる以上より厄介になりえる。
詰み。ここまで知られて踏み込まれた以上どうやっても逃げるのは無理だ。
俺は大きく息を吐き出し、両手で顔を覆って天を仰いだ。目の奥がいやに痛む。
「……わかったよ、分かった。実験して、確かに動くのを見届けるだけなら付き合う。ただし、俺の指示には絶対に従え。少しでも目立ったら、その時点でこの話は即座に破棄だ」
「素晴らしい! さすがは話がわかるね。それで、目立たないようにどうする気だい?」
アリアは一瞬でいつもの小悪魔的な笑みに戻り、身を乗り出してきた。
俺は机の上の羊皮紙を指で叩く。
「この刻印をそのまま彫ったら、消費魔石が少なすぎて一発で異常性がバレる。これだけ削っているからな、効率がどうやっても向上する。だから、カモフラージュをする。本体のロジック部分はこの綺麗なコードに置き換えるが、それ以外の部分に、さっきの教授の問題にあった元のクソコードを再利用する」
「元の刻印を? あれをまた? 無駄だらけなのに?」
「そのままじゃない。元の長い文字列をバラバラに解体して、並べ替えて、動く部分の周りに配置するんだ。……そう、コメントアウト。ただの意味のない文字列として肉付けする」
つまりはコードの難読化だ。
旧文明のプログラム言語において、コメントアウトの処理は見えなくなる。魔道具の基盤においては、ただの無害なノイズとして処理されるはずだ。
「元の刻印をバラバラに引き裂いて再構成すれば、全体の分量は元の魔道具よりちょっと増えるくらいになる。外から見ただけじゃ、何が書いてあるかさっぱり分からないスパゲッティみたい絡みあった構造のままだ。これなら、大学側が検査しても、運良く、奇跡的なバランスで効率が1割ほど向上した凡人の試行錯誤の産物にしか見えない。これなら陛爵なんて大騒ぎにはならないし、言い訳が立つ」
動く部分は極限まで綺麗にするが、社会に出す時はわざとゴミを混ぜて難読化する。プログラマーの美意識としては最悪のクソコードだが、生存戦略としてはこれ以上の選択肢はない。
「…それに、バラバラにして再構成した部分はその後でどう弄ったところで問題はない。世に出した後で少し弄ったとしても、だ。
出回っている魔道具を、商品としていちいち全てを刻印のレベルで調査しようなんてやつはそうそういない。
…文量こそ制限はあるが自分で好きなようにいくらでも弄れるんだよ」
俺の妥協案を聞いたアリアは、しばらく呆然とした後、くつくつと肩を揺らして笑い出した。
「あはは! 最悪だね、君は。せっかくのこんなにすっきりして美しいのに、わざわざ自分でゴミまみれにするなんて! ……でも、面白い。いいじゃないか、触れてはいけない部分といくらでも弄れる部分に切り分けてどこまで出来るか試される、こんな自由と制約の重ねなんてそうあるもんじゃない」
彼女はそう言って、その手を差し出してきた。
「よろしく、今度は秘密の相棒として。私たちの最初の実験を始めようじゃないか」
差し出された手を握り返しながら、俺はただ、自分の胃がこれ以上のストレスに耐えてくれることを祈るしかなかった。