結局アリアを楽しませる面白い何かを即座に提示することはできずに、代わりにやらされたのは去年に何度も見たあの刻印のまとめ集、要は古文書の再確認だった。
「もう一度最初から読み直してみようじゃないか。何か見落としているものだってあるかもしれないだろ?」
アリアに急かされ羊皮紙をめくっていく。だが、そこに記述されているのは蚊よけにしろ、冷気石にしろそして浄水にしろ、見慣れて何度も作ったものばかり。何度ページをめくってもすでに読み尽くしたし尽くしたものばかりが並んでいるだけだ。
「どうだい、カイ。何か新しい閃きは?」
アリアが作業台に肘をつき、覗き込むようにして問うてくる。
「……いや、特に何も。別に書いてあることは変わらないしな」
俺はそう平淡な声で返し仕方なしにもう一度先頭から見ようとして不意に違和感。
何か気になる。何か条件を見落としていないか。
いつかアリアが自嘲気味に言った思考の枷。それは今、この前世の知識を持つ俺自身にこそ、強力に嵌め込まれていたのではないか。魔法が当然に構築されているこの異世界において、俺はあまりにもその事象を当たり前として、ノーチェックで受け入れすぎていた。
問いの対象は、他でもない。この手元の古文書に記述されている、あの浄水魔石の存在。
これは、一体何だ?
前世での化学の知識を呼べば、普通の浄水プロセスというものは徹底的な不純物の分離と除去のステップを意味する。粗大粒子のフィルタリングから各種イオンやミネラルの除去という段階的処理を経て、最終的に多少の混合はあれど、ほぼ単一の分子構造へと純化させていく。
言ってしまえば、浄水という行為の定義は、純水以外の邪魔な物質をより分けて外側へ廃棄する行為とも言える。
では、この世界の魔石がやっているあの魔法の仕様はどうだろう。
水筒の内部に魔石を放り込み魔力を通すだけで泥水は澄み切った飲料水に変わる。
だがその水筒には、より分けられた不純物をパージするような排水口など最初からどこにもない。もし、泥や塩分が水筒の底に沈殿させられているだけなのだとしたら、歩いて飲料水として何度か傾けて口に運んでいる以上直ぐに攪拌されて全体が再び泥水での濁状態に戻っていなければおかしい。なのに、一度浄化された水はどれだけ激しく振っても透明なままだ。
泥水に含まれていた不純物は一体どこへ消えた。
脳内には、いくつかの仮説が浮かんでいく。
だとしてもこれは推測のまま放置していいものではない。必ず、今すぐに、確かめなくてはならない。
それも極限の秘匿環境で。
「……アリア。ちょっと手伝ってくれ」
「ん? どうしたんだい、カイ」
アリアが不思議そうに片眉を跳ね上げる。
「ちょっと実験をしたい。その結果を確認するのを手伝ってほしい」
彼女の目が妖しく輝いた。
実験の対象として選んだのは入手性と結果の単純さのある食塩水だった。
適当な容器の水に対してこれでもかと塩を入れ完全に飽和させた溶液を作る。
その中に、アリアの手によって浄水の刻印が精密に刻まれた3級魔石を投入。魔力を通して駆動する。
そして、適当な時間が経過したのち、魔石を取り出す。
次に、全く同じ条件で作った別の飽和食塩水の容器を用意し、今度は先ほどよりもずっと長い時間魔石を内部に放置した。
そうして出来上がったのは、都合3種類の溶液サンプル。
「……じゃあ、あまり自分を使いたくはないが、順番にこれを口にして味を確かめよう」
アリアはむしろ面白そうに目を輝かせ、指先で水面に触れて自らの舌先へと動かしていく。
「……ゲホッ! うん、当たり前だけど、最初のやつは最悪にしょっぱいねぇ……」
アリアは顔をしかめて口をゆすいだ。当然だ。限界まで塩が溶けているのだから。
だが2番目、そして3番目の溶液サンプルを口に含んだ瞬間、ただただ驚愕。
短時間のものでも、明らかに塩気が減退している。そして、長時間にわたって魔石を放置した3番目の液体に至っては。
「……っ。…完全に、真水じゃないか」
それは浄水魔石が正常稼働を叩き出していることであり、同時に問題でもある。
「アリア。……その、ほぼ水になってる方の魔石。……表面をちょっとだけ削ってみてくれないか」
「え? まあ、いいけどさ」
意図がわからないという風であったがアリアは軽く手を動かして削り取ってくれた。その断片を舌の上にのせ確認する。
無味。それに何の匂いもない。ただの石の粉。
魔石の表面に塩は欠片も存在していなかった。
もし、この浄水という行為がろ過のプロセスであるならば、水筒の内部、あるいは魔石の表面構造の隙間に塩の結晶が堆積していなければ絶対に辻褄が合わない。
だが、水の中からも魔石の内部からも塩は完全に消え去っていた。
核変化、あるいはもっと根源的な物質そのものの生成と消滅。
目眩がした。
作業台の上での様子をじっと見つめていたアリアが、静かに穏やかな声で訊いてきた。
「……ねぇ、カイ。何か、分かったのかい?」
何と言えばいい。いや、ダメだ。こんな地雷をアリアに伝えるわけにはいかない。
だがこの隠そうとする動きさえアリアならわかってしまう。
「…君のその顔色を見る限りさ、何かまた気づいちゃったことはもう完全にバレてるんだからねぇ」
アリアは唇を釣り上げて笑う。
ため息を吐いて素直に白状することにした。
「……あぁ、降参だよ。……いいか、この浄水の刻印がやっている処理はさ……。物理基盤の根底を直接弄ってる」
「物理基盤の根底……?」
アリアの目に炎が浮かぶ。
どうにか言語化を試みている俺に対し彼女は完全にこの謎解きを楽しんでいた。そして、小首を傾げて別の疑問を投げかけてきた。
「……だけどさ、カイ。それがそんなに凄いことだっていうなら……。それって、あの光を放つ放光の魔法なり、世界中のコンロに使われている熱源の魔石と、一体何が違うんだい?」
「え……?」
その何気ない一言で殴られたような衝撃を覚えてフリーズした。
また俺の思考は囚われていたんだ。
本質的に、そこに違いなんて最初からどこにも存在していなかったのだ。
魔石が刻印を通じて生み出している物理的変化にしろ、今回実証した化学的な消滅にしろ。それが前世の地球の科学から見てどれほどおかしなことであろうとも、そんなことは今この現代において、前世の記憶を持つ俺しか知り得ない事に過ぎないのだ。
この世界の住人にとっては、石から光が出るのも、熱が出るのも、水の中の泥や塩分が消えて綺麗になるのも、すべては同じ魔法道具の挙動として等しく並列に受け入れられて誰も問題にはしない。
自嘲が漏れ出た。安堵に似た拍子抜けの感情が全身に広がっていく。
もし、魔力という未知のエネルギーがこの世界に存在していて。その上で、その魔力というリソースがエネルギーから物質そのものへ直接、双方向に変換可能なものとして機能しているのだとしたら。それは確かに、質量保存の法則を否定してこういう物質の消滅や生成を平然と起こしうる。
だとして。この仮説を世界が知ることになるのは、それこそ「二百年」の遥か先のことになるだろう。
なら今ここでその仮説にたどり着けたことそのものがアドバンテージ。
「……なんだいカイ。急に笑い出したと思ったら、ずいぶんと楽しそうじゃないか。ついに君も探求の沼に目覚めちゃったのかい?」
「……あぁ、そんなところだ。」
夕暮れの赤い光の中遠くに、しかし確かにセミたちの声が響き渡っていた