新雪の白い帳が、王都の煤けた石畳を静かに覆い隠していく。
十五歳になったレオンハルト・ヴィッセンは、吐き出す息の白さの向こう側に、王立第一大学の巨大な鋳鉄の門を見上げていた。魔石の放つ鈍い光が、湿った雪を斑に照らし出している。
石造りの大きな掲示板の前には、分厚い外套を羽織った若者たちがひしめき合って押し合いながら自分の名前を探していた。歓喜の悲鳴を上げる平民の若者、付き添いの従者と共にお仕着せの冷ややかな笑みを交わす大貴族の子弟。熱気が凝縮した喧騒のただ中で、レオンハルトはただ一人、群衆から半歩引いた場所で自分の名前を見つめていた。
レオンハルト・ヴィッセン
少し煤けた羊皮紙に、その十文字が明確にインクで刻まれている。
「受かったな」
呟きは小さく、冬の北風にかき消された。心臓の鼓動は驚くほど平穏なままだった。
奇しくも、六十八年前にこの重厚な門をくぐったという曾祖父カイと同じ、十五歳での大学入学。だが、レオンハルトの胸にあるのは、立身出世への野心でもなければ、輝かしい学問への純粋な憧憬でもなかった。
ヴィッセン。それが、一族の背負う姓だった。
かつて王都の下町にある凡庸な魔道具店の息子に過ぎなかった曾祖父が、いくつかの常軌を逸した事業を成功させ、王国の権力中枢とひりつくような綱引きを演じ始めた頃、自嘲を込めて付け替えたというファミリーネーム。どこか古い大陸の言葉で知識そのものを意味するのだというその響きは、いまや国の誰もが無視できない底知れぬ富と不可侵のステータスを表す記号と化している。
この一族に生まれた者は、学問の最高峰である大学に合格することなど、当然の前提として課せられる。祝う者など誰もいない。それはただ、次の儀式を始めるための合図に過ぎなかった。
「…やはり、見惚れるような名前だね、レオン」
背後からかけられた硬質な声に、レオンハルトは振り返った。
鉄門の影に停まった黒塗りの馬車から、一族の印刷事業のすべてを統括している叔母が顔を覗かせていた。仕立ての良い黒いドレスに身を包んだ彼女の目は、甥の合格を喜ぶ色など微塵もなく、ただ冷徹に、次の予定だけを正確に告げていた。
「確認は済んだろう? 身支度はいいかい? 時間は有限だ。男たちが揃って君を待っている。樽の香りが逃げないうちに、馬車へ乗りなさい」
「はい、叔母さん」
レオンハルトは短く応じ、湿った雪を踏みしめて馬車へと乗り込んだ。
馬車が動き出すと、車窓の向こうに王都の夜景が流れていった。
そこには、ヴィッセンの一族がこの六十八年間で築き上げてきた、あまりに巨大な影が潜んでいた。
街角の辻馬車が灯す、燃費が異常に良い魔道具のランプ。知識層が競って買い求める、辺境領や副都にまで張り巡らされた一族の印刷所から刷り出された聖書や論文の数々。そして、どんな大貴族の晩餐会であっても、それを用意できなければ三流と見なされるという、一族の誇る至高の蒸留酒。
一族は決して政治や軍事の表舞台には立たない。絶対に爵位を持たないという誓約を歴代の王室と交わすことで、権力者たちの警戒心を巧みに外してきた。しかし、その実態は、この国の文化と経済の喉元を完全に締め上げている不可侵の巨大実業家集団だった。
馬車が停まったのは、王都の北街にそびえる大レンガ造りの建物。王都蒸留所。
夜間にもかかわらず、建物からはほのかに温かい蒸気と発酵した麦の濃厚な匂いが立ち上っている。叔母に促され分厚い鉄の扉を抜けて外の寒気が嘘のように遮断された地下へと階段を下りていく。
階段を下りるごとに、空気の質が変わっていった。
鼻を突き抜けるのは圧倒的なアミノ酸の旨味とアルコールの濃密な香り。そして、何十年もの時間をかけて液体に溶け込んだオーク樽の鋭い芳香。一族の持つ温度を完全に一定に保つ刻印によって、一年中完璧な冷気に満たされたその地下貯蔵庫には、数え切れないほどの樽が、暗闇の奥まで整然と並んでいた。
その最奥の広場でレオンハルトは足を止めた。
仄暗い光に照らされて一族の男たちが彫像のように円陣を組んで待っていた。
国家の財務方で数字を回す兄。大学の天文学科に籍を置き、星の運行を冷徹に監視している研究者の父。そして、大学へは行かず、現場の炉で金属の精錬にのめり込み続けている、頑固な鍛冶狂の叔父。
ヴィッセンの血がそこに集まっていた。
「時間だな。これより、レオンハルト・ヴィッセンへの継承を行う」
中央に立った父の低い声が、地下の静寂に波紋のように広がった。
彼らの前に、紙の書類や書物は一切置かれていない。知識は決して記録媒体に残さず、空で完璧に再現できるまで肉体と記憶だけに直接叩き込み続ける。それが、一族が定めた世界のいかなる検閲や奪取をも防ぐための絶対の規約だった。
最初に始まったのは古くから続く男女別の全体集会を兼ねた知識の流布だった。
レオンハルトは円陣の中央に立ち、冷たい石畳を踏みしめて背筋を伸ばした。父が、叔父が、そして兄が、順番に彼の前に進み出暗唱というにはあまりに冷徹で恐ろしいほどの密度を持った口伝を注ぎ込み始めた。
それは地球という異世界に存在した高度な文明の遺産だった。
現文明の学者たちが何十年もかけて解けないでいる回りくどい数式を一瞬で解きほぐす代数学。
この世界の思想法則を根本からあざ笑うような質量とエネルギーが直接双方向に変換可能であるという真の物理学。
そして、現文明の人々が単なる呪文として二次元的な写経を繰り返している魔道具の刻印が、実は異世界の言語で記述された精緻な構造体であり、その中心と外層の2重構造には読取とエネルギー源という役割があること。
レオンハルトは、瞬きもせずにその膨大な知識の奔流を受け止めていた。曾祖母であるアリアの空間を見ると数式を挟むことなしに一瞬で答えが脳裏に浮かぶという、圧倒的な幾何学の才を最も色濃く受け継いだレオンハルトにとって、その複雑な理論の構造を理解し、脳内の棚に格納していくことは、少しの造作もないことだった。
「……そして、これが曾祖父カイの遺した、最後の推測だ」
父の声が、一段と低くなった。貯蔵庫の冷気が、さらに鋭さを増したように感じられる。
「かつてこの世界を一度完全に滅ぼし、現在に残骸として刻印を残した旧文明。彼らは、ブラックホールと呼ばれる、光さえも脱出できない異常な重力エネルギーを兵器として扱っていた。そのあまりの時空の歪みの余波によって、世界が破壊され、次元の接続が発生した。曾祖父カイのような異世界の魂がこの世界に流れ込んできたのは、旧文明が犯した、その最悪のクラッシュの結果である、と」
重い沈黙が、オーク樽の香りと共にレオンハルトの肩にのしかかった。
一族の男たちは、代わる代わる詳細な数値や、まだ実験によって実証されていない空隙の宿題を、レオンハルトの頭脳へと詰め込んでいく。数時間に及ぶ、過酷な口伝の連鎖。紙に残せば国家がひっくり返る軍事機密であり、教会が知れば即座に異端審問の炎が上がる禁忌の数々が、十五歳の少年の頭の中に埋め込まれていった。
「すべてを頭の中で完結させろ、レオンハルト。実証されていない空白を、お前の代で埋めてみせろ。それが一族のロードマップだ」
最後に父がそう締めくくって、レオンハルトの脳内にはカイが一生をかけて組み上げた、世界の破滅を防ぐための強固な防壁の全貌が完璧に構築されていた。
だが。
全ての継承が終了し、熱を帯びた頭の中で異世界のロジックが完全に起動したとき、レオンハルトが抱いたのは、震えるような知的好奇心でも、一族への誇りでも、重圧ですらなかった。
冷たい。
それが彼の率直な感覚だった。
曾祖父が遺した物理も、数式も、時空の歪みの記述も、すべてが意味のある、とてつもなく精緻なものであることは理解できる。だが、それらはすべてどこか死んでいるという感覚が否定できなかった。
それは、どれだけ美しい言葉で飾られていても、とうの昔に死に絶えた者からの古い手紙を読んでいるような遠さだった。何枚もの分厚い布のヴェールを重ねた向こう側にある、二度と触れることのできない冷徹な過去の遺物を見つめているような果てしない寒々しさ。
完璧であればあるほど、計算式として隙がなければないほど、そこに輝きは無く躍動する余地はないように思えた。
「これが、俺たちの世界の裏側だ、レオンハルト」
兄が大人の目で自分を見つめている。その目は、すでに国家の歯車としてもこの巨大な知識の防壁を守る覚悟に満ちていた。
「わかっているよ、兄さん。完璧な計画だ」
レオンハルトは、オーク樽と染みが黒々と刻まれた冷たい石畳を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
彼は、自分の胸の奥底で、一族の誰にも告げていない衝動が、静かに熱を帯びているのを自覚していた。
曾祖父が残した無機質なロジックにはどうしても魂が動かない。だが、その口伝の端々に残されていた、生き物が、魔物が、人間が、その肉体という信じられないほど複雑な構造のなかで反応を起こし生命として躍動する有機物のトポロジー。生物学という一族が誰もまだ本格的に手を付けていない未踏のフロンティアに、レオンハルトの目はすでに魅了されていた。
大学生活という名の、新しい環境が始まる。
それが、曾祖父の遺産を足場にしながらも、世界を全く別の角度から書き換えていく、新たな生命の起動であることに、まだ誰も気づいていなかった。
翌日、王立第一大学の講義棟は、新入生たちの熱気と、暖炉から立ち上る煙で満ちていた。
レオンハルトは上質なウールの外套を席の背もたれにかけ広い階段教室の中央に腰を下ろしていた。周囲の平民の学生たちは貴族の子弟たちに気圧されないよう身を縮めていたが、レオンハルトにはそんな気後れは無縁だった。王室すら迂闊に手出しできないヴィッセンの名は彼にある種の傲慢とも言えるほどの絶対的な余裕を与えていた。
講義が始まる前の騒然とした空気のなか、教室の入り口が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。
一人の少女が、教科書を胸に抱えて入ってきた。
レオンハルトは、その姿を見た瞬間視線を動かせず固まった。
輝くようなプラチナの髪、陶器のように滑らかな白い肌。そして何より、周囲の人間を一切視界に入れていないかのような、孤高で、どこか痛々しいほどに張り詰めた青い瞳。
彼女が通り過ぎるたびに男子学生たちが目で追いかけ小さく息を呑む音が聞こえる。
あの姓は。
レオンハルトは耳に届いた周囲の囁き声から彼女の存在を瞬時に弾き出した。
ソフィー・オルタンス
オルタンス。それは一般の貴族や王族とは別の一線を画す特別な血筋の姓だった。
魔道具という外部の演算器を必要とせず、生まれつき自身の脳内だけで魔法の式を組み立て行使することができるという、超能力者の家系。曾祖父カイの口伝によれば、生まれつき脳や心臓に生体魔石との直結回路を持つ特殊人類の末裔だった。
講義が終わった放課後。
学生たちが次々と王都の街へと繰り出していくなか、レオンハルトは、迷わず大学の巨大な地下図書館へと足を向けていた。ひんやりとした古い紙の匂いと、微かなカビの臭いが漂う迷宮のような書架の奥。
案の定、彼女はそこにいた。
周囲に溢れるほどの古い論文や、かすれた手書きの古文書を積み上げ、取り憑かれたような速度でページをめくっている。その指先は何かを求めて必死になっているように見えた。
レオンハルトは、若く、実家という力に裏打ちされた傲慢な勢いのまま彼女の机の前に歩み寄った。
「そんな古い論文を読んでも君の求める答えは載っていないよ、オルタンスさん」
弾かれたように顔を上げた。冷徹な青い瞳が、不躾に話しかけてきた平民の少年を射抜く。
「……誰? …邪魔をしないで」
「レオンハルト・ヴィッセン」
レオンハルトは、自分の姓をあえて区切って明確に発音した。
「ヴィッセン……?」
ソフィーの瞳の奥で、何かが小さく揺れた。その姓が持つ意味を、王都のあらゆる印刷物と蒸留酒を支配する影の巨人の存在を、彼女も知らないはずがなかった。
「君の家系は、魔石に刻印という道具なしで世界を書き換える。なのに、君の指先からは、微かな魔力の火花さえ上らない」
レオンハルトは、その能力で、彼女の肉体を無意識に走査しながら核心を突いた。
「君、魔法が使えないんだろう。その血筋でありながら」
ソフィーの顔から、一瞬で血の気が引いた。彼女の胸元で、教科書を握る指が白くなるほどに強く震え出す。
「な、何が言いたいの……! 平民の分際で、私を侮辱しに来たの!?」
「違うよ」
レオンハルトは、彼女の前の椅子をゆっくりと引き、当然のように腰を下ろした。
「僕はただ、君という生き物に猛烈に見惚れてしまっただけだ。だから、一緒に解決しようと思ってね」
ソフィーは、怒りと、それ以上の驚愕に目を見開いたまま、目の前の奇妙な少年を見つめ返すことしかできなかった。
自力で宿業を否定しようと知識の鉱脈を掘り続ける少女と、一族の巨大な遺産を背負いながら生物の深淵を覗き込もうとする少年。
冷たい地下図書館の片隅で二つの異なる血統が相まみえた