乾いた破裂音が地下図書館の静寂を激しく切り裂いた。
直後、レオンハルトの右頬に、焼けるような痛みが遅れて走る。
「二度と、私の前に、現れないで」
ソフィーの青い瞳は、怒りと、それ以上に屈辱で激しく燃え上がっていた。
そして彼女はそれ以上言葉を重ねることなく、激しい足音を立てて書架の奥へと去っていった。
残されたレオンハルトは、静まり返った空気のなかで、一人右頬を押さえて立ち尽くしていた。
「……手痛い、な」
ぽつりと呟き、ため息を吐く。
実家という巨大な後ろ盾に甘えて勢いのまま核心を突けば、相手が心を開くか、あるいは解決のテーブルに就くものだと盲信していた。だが、現実は違った。ソフィーが抱える魔法が使えないという宿業は、部外者が無遠慮に触れていいものではなかったのだ。
彼女の生体魔石がどうなっているのか、その接続回路の何が狂っているのか。それを確かめる以前に、ソフィーという一人の人間から完全にシャットアウトされてしまった。
数日経っても、頬に残ったあの感触と、ソフィーの張り詰めた横顔が頭から離れなかった。
自分の傲慢さをリセットし、この手詰まりな状況に対して大人の助言が必要だと考えたレオンハルトは、週末、大学の敷地を出て王都の職人街へと足を向けた。
訪ねたのは、街の喧騒から少し外れた場所にそびえる鍛冶工房。
中から聞こえるのは、魔道具のふいごが上げる轟音と、重厚な金属の打撃音。そこは叔父であるフリードが営む仕事場だった。
フリードはヴィッセンの兄弟の中で唯一大学へ進学しなかった男だ。当時、学生だった一族の長兄に対し大学に金属を専門にする領域はあるかと問い詰め、無いと知るや否や鼻で笑って現場へと飛び込んだ。曾祖父の遺した金属工学という知識を本物の熱と鉄で再現し続ける、一族のなかでも極めて変わった人物だった。
だが同時に、このフリード叔父さんは一族でも悪名高い遊び人としても知られていた。
「おう、レオン。大学の合格祝い以来だな」
炉の前に立っていたフリードは、長髪を後ろで雑に結び煤で汚れた革の前掛けをしたまま、白い歯を剥き出して笑った。一族の男たちに共通する理知的な顔立ちをしていながら、その佇まいにはどこか歓楽街の匂いが染み付いている。
「叔父さん、少し、相談したいことがあって」
「相談? お前みたいな優等生が俺のところに欲しがるものなんて、鉄屑くらいなもんだろ。まあ、上がれよ。ちょうど火を落としたところだ」
工房の奥にある、煤けた木製の机。
フリードは棚から無造作に、琥珀色の液体が満ちた陶器の瓶を取り出した。一族の蒸留所から横流ししてきた、ソレラシステム仕込みの最高級ウイスキーだ。
「おい、これを使え」
フリードが懐から取り出したのは小さな魔石。それを机の上の水桶に浸けると、微かな魔力の輝きと共に気泡一つない完全な無色透明の氷のグラスが二つ、削り出された。
叔父はその氷のグラスに琥珀色の液体をなみなみと注ぎ、片方をレオンハルトの前に滑らせた。
「もう一人前の男だ、付き合え」
「……いただきます」
レオンハルトはグラスを持ち上げ、曾祖父の知識に、社交界の栄華としても至高であるとされるその液体を、そっと口に含んだ。
直後、猛烈な熱さが喉を襲った。
「っ、ごほっ、げほっ……!」
あまりのアルコールの強さと、爆発するような香りに、レオンハルトは思わず激しく咽せ返った。涙目になりながらグラスを置く甥を見て、フリードは声を上げて愉快そうに笑った。
「ははは! 飲み方が全く分かってねぇな!」
「……きついよ、これ」
「グラスが冷たいから、液体も縮こまってるんだよ。いいか、レオン。まずは口の中に少し唾液を溜めろ。そこにウイスキーを滑り込ませて、舌の上でゆっくりと混ぜるんだ。お前の口の中の体温で、液体の温度を上げてやるのさ」
フリードは自分のグラスを揺らし、実演してみせる。
「十分に温まったら、ゆっくり飲み込む。そのあとだ、口を閉じて、息を鼻から優しく吐き出してみろ。香りが化けるぞ」
言われた通り、レオンハルトは口内で液体を温め、ゆっくりと喉に流した。そして、鼻から息を抜く。
瞬間、先ほどまでの刺すような痛みは消え去り、バニラや干しぶどうのような圧倒的に濃厚で甘やかな香りが鼻腔の奥で爆発した。
「……本当だ。すごいな」
「だろう? 金属もウイスキーも、そして女も同じだ。最初から力任せに冷たく扱えば、心を閉ざして牙を剥く。だが、時間をかけてこちらの体温で温めてやりゃあ、最高に甘い中身を見せてくれるのさ」
フリードはニヤリと笑い、グラスを鳴らした。
「いいか、レオン。金属とは女だ。思い通りに曲げたいなら、まずは相手の性質を知り、じっくり温めて、ここぞって瞬間に力を入れなきゃならねぇ。女を知らねぇ奴に、良い金属は扱えねぇんだよ」
あまりに俗っぽく、しかし職人としての絶対的な経験に裏打ちされた叔父の持論に、レオンハルトは苦笑した。だが、その温めてからここぞという瞬間にという言葉が、ソフィーにビンタされた自分の右頬へと奇妙にリンクして響いた。
「で、大学の優等生様が、俺みたいなはみ出し者に何の用だ? 数式の解き方なら、お前の親父や兄貴に聞いた方がマシだぞ」
フリードに促され、レオンハルトはウイスキーの残りを静かに見つめながら、胸の内の迷いを出力した。
「叔父さん。僕は……曾祖父が遺した無機質な数式や物理に、どうしても興味が持てない。僕がやりたいのは、生命として躍動する、生物の学びだ。だけど、大学の講義はどれも過去の数式のなぞり書きばかりで、死にそうだ。親父の家での講義が終わったと思ったらこれだよ。僕も、叔父さんのように大学を飛び出して、外の現場に出るべきじゃないかって、悩んでる」
一族の誰もがそうすることを疑わないなかで、初めて漏らした本音。
フリードは、氷のグラス越しに琥珀色に歪むレオンハルトの顔を、じっと見つめていた。そして、フッと短く鼻で笑った。
「何がやりてぇんだ、なんて、俺に青臭い相談をしに来たのか。だがよ、レオン」
フリードは机に肘をつき、甥の目を覗き込んだ。
「お前、その退屈で死にそうな大学の講義室で、あのソフィー・オルタンスに会っちまったんじゃねぇのか?」
「……え」
レオンハルトの動きが止まる。なぜ叔父がソフィーの名前を知っているのか。
「お前の兄貴から聞いてるよ。財務方の仕事の合間に、オルタンスの血筋のバカ息子と妹のコンプレックスについて愚痴り合ってるらしいからな。その妹が大学に入って、案の定、うちの生意気なバカ弟が鼻の下伸ばして話しかけに行ったってよ」
フリードはグラスを干し、愉快そうに机を叩いた。
「大学を辞めるだの、外に出るだの、御大層な理屈をこねる前に、まずはそのソフィーって女をどうにかしてから考えろ。どうせそのまま突っ込んでって嫌われたんだろ? 相手をろくに知りもせず、その割に迷いなく行動すりゃ、そりゃあ鉄だって割れるし、ビンタも食らうわな」
レオンハルトは顔を赤くし、返す言葉を失った。すべてを大人の、それも遊び人の叔父に見透かされていた。
「まずはその女をどうにかするなり諦めるなり、きっちりケリをつけてみせろ。話はそれからだ。大学の外がどうのこうの言うのは、目の前の女一人かたつけてから言いやがれ」
フリードは立ち上がり、レオンハルトの肩を乱暴に叩いた。
「まあ、お前のその生物の学びってやつが、あの魔法の使えねぇオルタンスの娘とどう噛み合うか……面白い酒の肴にはなりそうだ。行き詰まったら、たまに飲みに来い」
炉の残熱と、ウイスキーの熱い香りが残る工房のなかで。
レオンハルトは、自分の脳を暴走させていた気恥ずかしさを自嘲するように、小さく笑った。曾祖父の数式は冷たい。だが、目の前の生きた人間との会話はこれほどまでに熱く、そして思い通りにいかない。
まずは、ソフィー・オルタンスの閉ざされた心をどうこじ開けるか。
手元に道具はまだ何もない。だが、レオンハルトの瞳には、冷徹な理性の奥に、職人の叔父から火を移されたような、確かな業が、静かに灯り始めていた。