白色とトポロジー   作:朝凪小夜

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 王立第一大学の講義室に響く老教授の講釈はレオンハルトにとって、ただの退屈で砂の音に過ぎなかった。

 黒板に大仰に書き連ねられる数式。教授は当然として語っているが、一族の閉ざされた私塾や父や兄から夜を徹して叩き込まれた過酷な家庭講義に比べれば、欠伸が出るほどに散漫な既成構文でしかなかった。ヴィッセンの一族が子供たちに強いる知的鍛錬と教壇からの景色の間には集積と歴史というどうしようもない断絶があった。

 レオンハルトは頬杖をつき、窓の外で舞い散る花びらの列を眺めていた。大学という環境はただヴィッセンの名に相応しい合格実績というラベルを得るための通過点に過ぎない。そんな冷めた認識の最中、彼の部屋に大学の小使いの手によって一通の手紙が届けられた。

 封蝋には一族が身内でしか用いない幾何学的な刻印の簡素な紋様。送り主は、兄だった。

今夜、北街の店にて。オルタンスの男を連れていく。お前も同席しろ。

 手紙の文字は一切の無駄を削ぎ落とした事務的な筆致だった。それを一度だけ読み終えると火鉢の隅にくべて静かに灰にした。

 週末の夜。王都の北街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返って、街灯とそのすぐ隣の闇が迷宮のようだ。

 レオンハルトが指定された場所に辿り着いたとき、そこにあったのは看板すら出していない石造りの重厚な老舗料理店。貴族か高級官僚でなければ足を踏み入れることすら許されない王都の隠れた店。

 案内された個室の扉を開けると温かい薪の匂いと熟成された肉の香りがレオンハルトの鼻腔を迎えた。

 それだけでも伝統的な最高級店と言える。しかし、運ばれてきた前菜の肉料理のソースを口に含んだ瞬間、レオンハルトの中での評価がもう一段上がった

 ツンと鼻腔を心地よく突き抜ける独特の刺激臭。そして、圧倒的なアミノ酸の旨味と濃厚なコク。

 そんな料理を一度だけ口にしたところで、耳朶には男の声。

 

「…お前が今年のヴィッセンか。話は先輩から聞いているよ」

 

 席の正面に腰を下ろしていた青年が手元のグラスを傾けながら、レオンハルトを真っ直ぐに見つめた。

 ジュリアン・オルタンス。

 魔法を道具なしで行使できるオルタンス家の長男でありながら、生まれつきの血統をただのおまけ程度と切り捨て自力で身に付けた知識によって国家の高級官僚へと上り詰めた努力派の男。彼はレオンハルトの兄と財務方の部署で一つ違いの先輩後輩であり、何より、自身の最も苦手とする算術をレオンハルトの兄に徹底的に教え込まれ、叩き込まれたという過去があった。

 

「妹が、大学の図書館でお前に随分と手痛い洗礼を浴びせたと聞いてね。先輩に顔を合わせるのが少しばかり心苦しかったよ」

 

 ジュリアンは苦笑し、仕立ての良い上着の内ポケットから小さな革張りのスケッチブックを取り出した。それを無造作に机の上へ滑らせる。それは、ソフィーが肌身離さず持ち歩き、誰にも触れさせようとしなかった彼女の個人的な精神の記録だった。

 

「俺たちは、幼い時から魔法がすぐ傍にあった」

 

 声が重く、響く。

 

「生まれた瞬間から、空気を歪め、火を点し、風を起こす。それがオルタンスの当たり前だ。だが、あいつはそうじゃない」

 

 ジュリアンはグラスの酒を一口飲み、視線を落とした。

 

「オルタンスの血を引きながら、その指先からは微かな魔力の火花さえ上らない。周囲の目も、何より、自分自身の肉体に対する絶望は他の誰にも分かり得ない宿業だ。あいつはいつもそれを否定するために知識の欠片を探し続けているが、……それと同時に、自分の歪んだ世界のすべてを、この絵の中にだけ閉じ込めているんだ」

 

 レオンハルトは、差し出されたスケッチブックを手に取り、そっとそのページをめくり、そして言葉を失って固まった。

 レオンハルトの目に飛び込んできたのは、美術として画家が描くような写実的で正確なデッサンではなかった。

 そこには、一つの果物、一つの花瓶といった静物がバラバラの断片に解体され複数の異なる視点や角度から同時に見つめた形として一枚の画面に再構築されていた。

 四角形や多角形の無数の陰影。遺された膨大な知識をどれだけ走査しても、このような様式はどこにも存在しない。

 空間としても物理的にも正しい線は一本もない。すべて歪んでいて、不揃いだ。

 それなのに、その歪んだ多面体の線の集まりを見つめていると、そこにその物質が圧倒的な実感として存在しているという、震えるような躍動が網膜にレンダリングされてくる。

 

「あいつを、直す、と言ったそうだな、レオンハルト」

 

 ジュリアンが、鋭い官僚の目でレオンハルトを見つめた。

 

「それもソフィーから聞いているよ。それを、本気で言っているのなら、それがどういうことか、ここに来ている以上わからない、なんてことはないよな?」

 

 ジュリアンは静かにグラスを置いた。

兄は何も言わなかった。ただ視線を送ってくる。その無言がジュリアンの言葉をどうしようもなく肯定していた。

 

 週が明け、再び訪れた地下図書館の空気は変わらずひんやりとした静寂に満たされていた。

 古い羊皮紙の匂いと微かなカビの臭い。お互いに講義の課題のために必要な古文書を広げ、調べものをしているという建前上の同じ空間。レオンハルトは、数日前に彼女から完全に拒絶されたその同じ机の向こう側に足音を殺して静かに腰を下ろした。

 ソフィー・オルタンスは、広げた古文書から頑なに目を離さぬまま低い声を出した。

 

「二度と現れるな、と言ったはずですが。ヴィッセンさん」

 

 古いページを押さえる彼女の指先が、怒りと警戒で微かに尖っている。

 

「まずは、謝らせてほしい」

 

 レオンハルトは、ただ真っ直ぐに彼女の青い瞳を見つめた。

 

「数日前は、本当に悪かった。君が抱えているものの重さもそのコンプレックスの深さも知りもしないで、いきなり言葉をぶち込んで君を傷つけた。本当に、すまなかった」

 

 ソフィーのページをめくろうとした指が、ぴたりと止まった。

 ただの傲慢な実業家の一族だと思っていた平民の少年が、驚くほど真摯に自分自身と向き合おうとしている。

 

「……今更、何を取り繕うというのです。私には、あなたたちの誇る魔道具の知識も、一族の圧倒的な富も、何の関係もありません。私は、私の力で変えてみせる」

 

「…それでも、だ。…申し訳ないけど、君のお兄さんから君のスケッチブックを見せてもらった。あの絵には圧倒的な命の実感があの線の中にあったんだ。でもそれが、世界と自分を否定したいという意思だけなんてとても悲しいじゃないか」

 

 ソフィーの瞳が、驚愕と、秘密を暴かれた羞恥で大きく見開かれる。

 

「…僕は見つける。何があっても、その身体の問題とその解決策を」

 

「…そうしたいのなら、ご勝手にどうぞ」

 ソフィー・オルタンスは、目の前の少年が提示した言葉にただ冷たい言葉を返した。

 邂逅としてはあまりに遠い会話。それでもレオンハルトにとっては大事な一歩であった。

 

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