ソフィー・オルタンスから冷ややかながらも許諾という言葉をもぎ取ってから、レオンハルトの脳内はかつてない過密な思考の連鎖に支配されていた。
地下図書館の片隅で得たのは最小限の接続。だがそこから接続の拡大と問題の解決のための具体的な手法は何も存在していないのが現状だった。
魔法が使えないオルタンスの娘。彼女の肉体の何が狂っている。
大学の講義中もレオンハルトの指先は無意識に机の端を叩き続けていた。
曾祖父の遺した膨大な口伝のなかには世界の物理層に関する一つの壮大な仮説が存在する。魔法道具を必要とせず脳内だけで世界を書き換える特権階級の人間たちは超演算器なのではない。生まれつき脳や心臓に生体魔石と自身の精神を直結する回路を持つだけというハック仮説。
もしその推測が正しいのならソフィーの肉体で起きているエラーはその直結回路のどこかが断線しているかあるいは生体魔石そのものの形状に致命的な欠陥を抱えているかのどちらかだ。
だが、その仮説の妥当性を検証するための実測が現在においては決定的に不足していた。
週末、レオンハルトは大学の敷地を出て王都の貴族街の境界にひっそりと佇む、一族の本家へとアクセスした。
ヴィッセンの一族を束ねる長兄、アルベルトの邸宅。
そこはかつて高祖母アリアがその圧倒的な幾何学の才を以て刻み上げた膨大な魔石刻印のアーカイブが保管されている、一族にとって神聖とも言える場所。
重厚なマホガニーの扉の奥、書斎の暖炉でパチパチと薪が爆ぜる音が響く。
デスクの向こう側に座るアルベルト・ヴィッセンは、一族の重鎮に相応しい、仕立ての良い黒の衣服を纏い、冷徹な知性を宿した硝子のような瞳で孫を見つめていた。
「オルタンスの娘に接触したそうだな、レオンハルト」
アルベルトの声には非難の色もなければ歓迎の色もない。ただ、事実を事実として確認するための、平坦な響きだけがあった。おそらくは兄からすでに本家へも何らか話があったのだろう。
「はい、アルベルトおじさん。彼女の問題について、一族の知識をベースにもう一度前提を洗い直したいと思い、ここへ来ました」
レオンハルトの言葉に、アルベルトは静かに顎を引いた。
「いいだろう。我々の知識にどのような疑問を抱いた?」
レオンハルトは、アルベルトに促されて対面の革椅子に腰を下ろした。暖炉の熱が室内に満ちているが、二人の間で交わされる対話は、まるで精密な機械を解体していくかのように冷ややかだった。
「曾祖父カイの口伝は、理論として完璧に構築されています」
レオンハルトは脳内の棚から曾祖父の言葉を正確に引き出し、机の上に並べるように語り始めた。
「質量とエネルギーの双方向変換。魔石の中心に存在する受付層への最短ルート配置。他にも熱や力の構造。それらを用いれば現在の一族のやっていることが上手く説明できるのも確かです。 でも、その中で…」
レオンハルトは一度言葉を区切り、アルベルトの瞳を見据えた。
「生体魔石に関する記述だけが、あまりにも不自然なほど具体的な実測が欠落している。曾祖父は、魔法使いには生体魔石があると言い切った。だが、その根拠となる人間の肉体を切り裂いて中身を確認した事実は、この一族のどこを探しても存在しない。違いますか?」
アルベルトの硝子の瞳が、かすかに細められた。暖炉の炎が、その横顔に深い影を落とす。
「その通りだ、レオンハルト」
長兄は、否定することなく、冷徹なファクトをシステムから開示した。
「曾祖父カイは生涯、平民としての擬態を最優先した。人体への直接刻印や解剖という世界の禁忌に触れれば一族郎党が教会と国家に徹底的に社会的に抹殺されるリスクがあったからだ。だからこそ曾祖父はあの理論を秘匿し我々の脳内だけに留めた。つまり…」
アルベルトはデスクの上に両手を組み、静かに宣告した。
「お前が受け継いだ人間の肉体には魔石が眠っているという知識は、曾祖父カイが経験と他の理論から導き出した、極めて精緻な推測に過ぎない。一度も、生きた人間、あるいは死者の肉体を使って実証されたことはない不確定な空白だ」
やっぱり、そうか。
レオンハルトの胸の奥で、冷たい納得があった。
曾祖父カイの知識は完璧だ。だが、それはあまりにも安全に保護されすぎていた。リスクを恐れるあまり最も核心的な生命の領域への直接的な実験を、曾祖父はあえて生涯を通じて避けていたのだ。
理論の前提条件そのものが未実証のままで六十八年間放置されている。
その不確定な土台の上で、自分はソフィーに君の身体の問題を見つけると、大見得を切ってしまったのだ。
「レオンハルト。お前は、その空白をどう処理するつもりだ?」
アルベルトの問いが、重く、書斎の静寂を浸食していく。
レオンハルトは、自分の両手を見つめた。
「前提が不確定なら、まずはそれが本当のことなのかを自ら確かめるしかありません」
レオンハルトは、静かに、しかし迷いのない声を出力した。
「確かめる? どうやってだ。墓を暴いて死体を切り裂くか? それとも、ソフィー・オルタンスの頭を開くか?」
「…人間の身体には、まだ手を出しません。そんなリスクの高い行為は誰であってもできない…」
レオンハルトは首を横に振った。カイの思想はひ孫の彼にも極めて合理的な概念として受け継がれている。
「曾祖父の遺した推測の底には、もう一つの前提があります。魔物と通常の獣の差は本来存在しないか、あっても体内に魔石という器官を持つかどうかという差に過ぎない。そして曾祖父は、その仮定の先でこう結んでいる。魔石という器官は本来すべての生物の共通設計に実装されている器官であり人間だけがその仕様から外れる理由はない、と」
レオンハルトは立ち上がり、暖炉の炎の照り返しのなかで、自身のロードマップを明確に宣言した。
「魔物には魔石がある。ならば、魔物ではない、ただの家畜という通常の動物の肉体にも、生体魔石かその雛形が必ず眠っているはずです。まずは市場から通常の動物を買い付け、その精密な解剖から始めます。人に触れる前に、その事実を実証してみせる」
アルベルト・ヴィッセンは少年の言葉を、じっと黙って受け止めていた。
「……いいだろう。お前がそこまでの覚悟を持つというのなら、こちらにそれを止める気は無い。そしてもし使いたいのなら印刷所の保管庫も使うといい」
アルベルトはデスクの引き出しから、古いヴィッセンの印章が刻まれた承認の書簡を取り出し、レオンハルトの前へと滑らせた。
「実証してみせろ、レオンハルト。父が遺したものの向こう側をお前自身が示せ」
「…はい、必ず。アルベルト伯父さん」
レオンハルトは書簡を手に取り、深く一礼して書斎を後にした。
本家の重厚な門を出ると、王都の春の夜風が、彼の熱を帯びた頬を心地よく撫でていった。
手元にメスはない。医学としての体系もない。だが、レオンハルトの脳内には、家畜の肉体という名の未知を徹底的に解体し、真理を掘削するという好奇の炎が赫々と燃え上がり始めていた。