夏への扉が開いてから王都の空気はねっとりとした不快な湿気を帯び、石造りの街並みは息を吸うだけでも喉の奥が焼けるような熱気に包まれた。
だが、その地上を覆う太陽の傲慢なまでの光さえも、教会の地下深くに口を開けた監獄までは届かない。
プツ、プツ、プツ、プツ。
錆びた鉄格子の奥、湿った黴の臭いと、幾十人もの男たちが流した饐えた汗の匂いが混ざり合う仄暗い空間のなかに、驚くほど一定のリズムを持った微細な打撃音が響いていた。
炎が、蜘蛛の巣の張る石壁に不気味な陰影を落としている。
レオンハルト・ヴィッセンは、目の前に広がる男の青白い背中を見つめながら、その指先を一切の揺らぎなく動かし続けていた。
財務方の兄ルーカスが手配した、法的死角を突いた書類。
王国と教会が重犯罪者や宗教的背信者の肉体に、社会的排除の識別子として罪人の入れ墨を強制執行する刑罰。その執行を一族の企業を利用し買い取り、レオンハルトは臨時の執行役という身分を獲得してこの地下監獄へと入り込んでいた。
すべては、ソフィー・オルタンスのため、疑似神経回路を完成させるため。最短最速を以てその達成のために。
だからこそ、彼はこの実験を自らに課した。
最初の被検体となったのは教会の教義に背いたとして捕らえられた、痩せ細った寡黙な宗教的背信者、異端の知識人だった。
男は自らの運命を諦めたように静かに椅子に縛り付けられ、ただ時折、背中に刺さる針の痛みに耐えるように低く、短い吐息を漏らす。
レオンハルトの手にあるのは、フリードが鍛え上げた皮膚の表皮を切り裂くことなく一定の深度に潜行する極細の特殊合金針。
そして彼が使っていたのは、一族の印刷所で使われている純粋な黒いインクだった。
プツ、プツ、プツ。
レオンハルトの指先はまるで波音にも似て、寸分の狂いもない均一な深度と、冷徹なまでの規則正しさで男の皮膚を打っていた。
痛々しく悲鳴をあげる囚人の姿を目の前にしても、レオンハルトの胸に嫌悪や恐怖、あるいは憐憫は生じなかった。彼の頭脳はただ、人間の皮膚という生体膜が、針の圧力に対してどれほどの弾性を返すか、インクが滲まずに定着する最適な運針の速度はどれくらいか、というデータだけを、指先の感覚を通じて収集することだけに集中していた。
数時間、数日の静かな時間のなかで、レオンハルトの指先は、人間の皮膚の癖を完全にその肉体へと叩き込んでいった。通常のインクによる運針への適応は、驚くべき速度で最適化されていった。
監獄の地下室に漂う汗の匂いは、時間の経過とともに濃厚さを増し、衣服が肌に張り付く不快感がレオンハルトの全身を包む。
だが、実験は終わらない。彼の理知的な瞳には狂気が灯り始めていた。
通常のインクでの運針に自らの指先が完全に馴染んだことを確認したレオンハルトは、小さな陶器の小瓶を取り出した。
中に満ちているのはインクではない。
一族の酒造が誇る精密な攪拌技術を用いて、極限まで細かく粉砕された魔石の粉末を均一に混ぜ合わせた魔石混合インク。
「…インクの配合比率を段階的に変更。0から10%へ」
誰に告げるでもなく、レオンハルトはカンドルの灯りの下でインクを調合し、フリードの合金針の先に吸わせた。
ここからが、この実験の本性だった。
ただの入れ墨を彫る技術ならそこらの職人でも身につけられる。だが、彼がやろうとしているのは魔力を伝える疑似神経を構築することだ。
通常のインクにどれほどの割合で魔石の粉末を混ぜれば皮膚が拒絶反応を起こして腫れ上がったり、化膿したりするという副反応を回避できるか。
どの程度の深さと連続性をもって刻めば、皮膚の表面で流れた魔力の信号が、肉体の内部へと、抵抗を最小限に抑え込んだままで連鎖的に伝導していくか。
レオンハルトは、被検体たちの背中に、罪人の識別刻印を打つという建前を維持しながら、その実、極めて複雑な暗号回路を針で刻み込んでいった。
プツ、プツ、プツ、プツ。
魔石の粉末が混ざったインクは、通常のインクよりも粘度が高く皮膚への侵入の際にわずかな重みを生じる。
針を突くたびに、異端の知識人の背中から今までとは明らかに違う深い苦悶の呻きが漏れた。魔石の粒子が生きた人間の神経の先端に近づき、微弱な反応を起こしている証拠だった。
レオンハルトは、男の背中から滲み出す赤い血をアルコールを含ませた綿で拭い去りながら、手元のメモに細かな数値をサラサラと書き加えていった。
「…配合比率、10%。定着、良好。……だが、抵抗が強すぎる。連鎖には、これでは足りない」
冷たい声で分析を出力し、彼は再びインクの小瓶を揺らす。
夏の夜が更けていく。薄闇の中でレオンハルトはただひたすらに肉体と向き合っていた。
数週間が経過し、地下監獄の空気は真夏の熱気と生々しい体臭、アルコールの匂いで満たされていた。
レオンハルトの前に連れてこられた次の被検体は背信者としてのそれとは対極にある男だった。
大柄で無数に過去の抗争の傷跡が刻まれた無頼の凶悪犯。強盗と殺人の罪で教会の地下へとぶち込まれたその男は、自分より遥かに体躯の小さな十五歳のレオンハルトをただの子供と舐めてかかり、鉄格子の奥からおぞましい暴言を吐き散らしていた。
「おい、クソガキ。その細い針でお前のママの顔でも彫ってろ。俺の背中に一瞬でも傷をつけたら、この縄を引きちぎってお前のその生意気な首をへし折って…」
男の汚い言葉の濁流を、レオンハルトは完全に無視した。
彼の硝子のような瞳には、男の威嚇など一切が映らない。見つめているのはただ一つ、凶悪犯の分厚く、荒れ果てた、最高の肉体だけだった。
「静かにしろよ。運針が狂う」
冷徹にそう告げると、レオンハルトは、魔石混合インクの比率を三割まで高めた、漆黒の液体を針に含ませた。極限の粘性は針にまとわりつき滴ることもない。
そして、男の荒れた皮膚を見定め針を迷いなく、深く、突き立てた。
「…アガッ、ァァァアアアッ!?」
先ほどまでの傲慢な暴言が、一瞬にして、監獄の石壁を震わせるほどの獣のような絶叫へと変わった。
魔石の比率を極限まで高めたインクが、凶悪犯の分厚い皮膚の下で、彼の生体電流と激しく衝突し、肉体の奥底の神経を直接、魔力で焼き焦がしていく。
男の巨体が、縛り付けられた椅子のままガタガタと激しく暴れる。だが、レオンハルトの手首は、一ミリのブレも起こさなかった。
「……化膿はなし。混合比率30%、深度二ミリ。これなら、生体の抵抗を最小限に抑え込める。流した魔力の信号が、肉体の表面から内部の奥深くへと、連鎖的に伝導していく」
深夜、すべての実験を終えた監獄の静寂のなかでレオンハルトは、血とインクの染みがついた自らの両手を見つめていた。
過酷な生活のなかで、彼の脳髄にはカイの遺した保身的思想との静かな対話が組み立てられていた。
曾祖父さんの知識は、完璧だった。
だが、曾祖父さんが想定していた生体魔石ハックの解決策は、あくまで肉体を切り裂き、直接配線を繋ぎ直すという、より確実で効率的な外科的アプローチだった。
その方針の正しさは、レオンハルトも百パーセント認めている。もしメスがあり、輸血のシステムがあれば、それが一番確実だ。
だが、曾祖父カイはリスクを恐れて生命の領域への直接的な侵入をすべて避けて、脳内だけに残して生涯を終えた。
曾祖父さんの気持ちは、今ならよく分かる。これは、見つかれば一族ごと教会に潰される最悪だ。だけど。
レオンハルトは極細針をそっと箱へと収めた。
その瞳の奥に、消えない好奇の炎が、静かに燃え上がっている。
俺のこの指先は、曾祖父さんほど臆病には作られてはいない。それに、俺は大学のあの講義室で、ソフィー・オルタンスに、会っちまったんだ。
数週間に及ぶ、地下監獄での実験。
生きた人間を使った実験の末、レオンハルトの運針の精度、インクの配合比率、そして魔力抵抗値の計算式は、生体への拒絶反応を完全に抑え込む成功率百パーセントの領域へと、完璧に叩き上げられていた。
完璧な臨床データを手に入れた少年は、ゆっくりと立ち上がり、地下の重厚な鉄門へと足を向けた。
門をくぐり地上へと出ると生温かい風が、彼の煤けた外套を静かに揺らした。
道具は、揃った。データも、全てが揃っている。
あとは、一つだけ。
足取りは止まらない。