その一室は、夕暮れの淡い琥珀色の光を反射させながらただ静まり返っていた。
部屋の中央に置かれた、白く清められた診察台。その傍らでレオンハルト・ヴィッセンは静かに、自らの指先をアルコールで拭っていた。
冷たい液体の感覚が皮膚の表面から心地よい緊張のシグナルを送り届けてくる。そのすぐ隣には、針とインクが光の下で一本の回路のように並べられていた。
カサリ、と微かな衣擦れの音が静寂の部屋に波紋のように広がった。
レオンハルトは、視線を動かした。
彼の目の前で、ソフィー・オルタンスは、衣服の最初のボタンへと細い指先をかけていた。
一つ、また一つと、上質な生地のボタンが外されていく。
その仕草には迷いもなければ気後れもない。あるのはただ執念と期待。
やがて、ソフィーの衣服の前合わせが静かに左右へと分かたれ、彼女の纏っていた薄衣が診察台の床へと滑り落ちた。
晒されたのは、彼女の白く滑らかな、傷一つない首元から鎖骨、そして胸元にかけての完璧な美。
まるで最高級の白磁のように滑らかな、生きている少女の肉体。
皮膚のほんのすぐ向こう側、肉層の奥深くに潜行している彼女の心臓のさらに奥。そして、脳の思考の波形が生まれる頸椎の起点。その二つのノードを繋ぐべき、皮膚からアクセス可能な曲線。彼女がこれまでの人生で、自らの宿命を呪いながらスケッチブックに閉じ込めて描いてきた、あのキュビズムが、レオンハルトの視界の中に刻まれていく。
見える。
レオンハルトは、静かに針を握りしめた。
監獄の地下で、生きた囚人たちの肉体を使って数週間自らの手首を最高に精密に機械へと作り直し、成功率百パーセントの臨床データを叩き上げてきた自負がある。
あとは、目の前にあるその完全な設計図の通りに自らの指先をただ駆動させるだけ。
そう、考えていた。
だが。
レオンハルトが、針に漆黒の金属インクを吸わせ、ソフィーの白く滑らかな首元へと、あと数センチという距離までその身体を近づけた、その瞬間。
彼のバックエンドの理性が、想定外のバーストによって、一瞬にしてフリーズした。
至近距離に迫ったソフィーの肉体から立ち上ってきたのは、監獄を満たしていた男たちの饐えた臭いとは、根本から別次元の、少女の息吹だった。
微かに汗の香りを孕んだ、それでいて、どこか甘く、花に似た、脳髄を直接痺れさせるような濃密な馨り。
ドクン、とレオンハルトの胸の奥で、彼の心臓が、かつてないほどの激しさで大きく波打った。
張り詰めていた視界が、その馨りを吸い込んだ瞬間から、どこか柔らかく、溶けるように融解していくような強烈な錯覚に襲われる。
監獄には、むさくるしい男の囚人しかいなかった。数週間もの間、荒れ果てた男の肉体だけを冷徹に見つめ、自らを執行役へと最適化してきたレオンハルトにとって、これが人生で初めて至近距離で直面する女性の肉体という全くの未知による洗礼だった。
女性への耐性が一切存在しない。
その決定的な動揺を自覚した瞬間、レオンハルトの完璧だったはずの指先が震え出した。
触れれば、彼女のその白く、美しい皮膚を、自分の手元の一狂いで一生消えない汚れに変えてしまう。
あまりの恐怖と気恥ずかしさ、そして彼女の体温を前にした独占欲の混ざり合ったマルチスレッドな混乱のなかで、レオンハルトの脳裏に、一瞬だけ、卑怯な閃きがよぎった。
俺じゃ、駄目だ。誰か、他の誰かにこの針を任せるべきでは。
だが、その刹那で、少年の硝子のような瞳の奥に果てしない理性の冷徹さが、再び戻ってきた。
違う。他の誰かって、一体誰だよ。
秘伝となった消毒による完璧な衛生環境を整え、極細針の特性を理解し、何より、空間の線を寸分の狂いもなく脳内に浮かべられる眼を持った人間が、この世界のどこにいる。
存在しない。
この世界において、ソフィー・オルタンスという人間を救い、世界を書き換えることのできる人間は、自分をおいて他には絶対に存在しない。
その絶対的な不可能性を完璧に計算し尽くした瞬間、レオンハルトの脳内の熱暴走は完全にねじ伏せられた。
震えていた指先が、止まる。心臓の波打ちは未だ激しかったが、彼の瞳からは、十五歳の少年の動揺は完全に失われ、ただ冷徹なまでの機能美だけが残されていた。
「ソフィー、できるだけ動かないでくれ。運針が狂う」
レオンハルトは、驚くほど平温な声を出力し、カンドルの光のなかで彼女を見つめた。
ソフィーは、診察台の上で静かに目を閉じ、衣服を緩めた胸元をかすかに震わせながら、くぐもった声で応じた。
「………私を、私のすべてを、あなたに預けるから。……始めて、レオンハルト」
少女の覚悟の言葉が、少年に最後の絶対の確信を付与した。
レオンハルトは、彼女の首元、頸椎のすぐ下、最初の起点へとフリードの極細針を迷いなく、深く、突き立てた。
プツ、プツ、プツ、プツ。
白く清められた静寂の一室に、針が皮膚を打つ規則正しい音だけが響き始めた。
レオンハルトの精神はすでに外界のあらゆるノイズを遮断した極限の集中領域へと到っていた。彼の世界にはいま、ソフィーの滑らかな肌とその直下に滑り込ませていく漆黒の疑似神経のライン、その二つしか存在していなかった。
監獄の荒れ果てた囚人たちの肉体とは、あまりにも違う。繊細で、柔らかい、少女の皮膚の弾性。
レオンハルトは、アリアの晩年に一日中付きっきりで教わった、あの最速最短の指運びのリズムを、記憶から完全に再現していた。
黒いインクをミリより細く正確に定着させていく。
だが、針の先のインクが神経の先端と接触したその瞬間。
ソフィーの身体が、弾かれたようにビクリと大きく跳ね上がろうとした。
「――っ、あ、ぁ……っ!?」
至近距離でぶつけられる、彼女の痛切な吐息と激痛による呻き。
監獄の凶悪犯たちが獣のような絶叫をあげたその超高濃度の魔力抵抗が、いま、ソフィーの華奢な肉体を容赦なく襲っていた。
ソフィーの細い指先が、診察台の白いシーツを、爪が割れんばかりの力で強く握りしめる。その目元からはあまりの激痛に耐えかねた涙が溢れ出し、嗚咽となってレオンハルトの胸元へとぶつかった。
だが、レオンハルトの手首は、一ミリのブレも起こさなかった。
彼はソフィーの肩を左手で静かに、しかし絶対に動かせないほどの力で固定し、彼女の肉体が吐き出す激しい拒絶を、冷徹に、手のひらの感覚だけでコントロールし続けた。
「大丈夫だ、ソフィー。回路は完璧だ。何も問題はない。俺の針を、俺を、信じろ」
レオンハルトは一定のリズムを刻み続けながら、彼女の首元から、鎖骨のラインを跨ぎ、胸へと向かって、漆黒の線を編み上げていった。
ソフィーは、身を震わせ、時折激しい嗚咽を漏らしながらも、決して声を上げて泣き叫ぶことはしなかった。彼女は、目の前の少年の硝子のような瞳の奥にある心を、その異様なまでの運針の正確さを、自らの肉体の痛みを通じて完全に理解していた。
これは、ただの傷ではない。ただの社会的排除の入れ墨ではない。
自分を宿業の底から救い出すために少年が自らの人生のすべてを賭けて刻み込んでくれている、世界を書き換えるための新しい命なのだ、と。
ソフィーは、激痛のなかに訪れる、ある種の絶対的な救いの恍惚のなかに自らの肉体を完全に委ねきっていた。
部屋が闇に満ちていく。
少年の神業は、一瞬の揺らぎも起こさず、ただ静かに、少女の肌の上に陰影を完成させていった。
数時間に及ぶ、息詰まるような施術の果て。レオンハルトは静かに針を台の上へと置いた。
アルコールを含ませた綿を手に取り、ソフィーの胸元に滲み出していたわずかな血と大粒の汗を、優しく拭い去っていった。
赤い血が完全に消え去ったその後に現れた全貌に。
レオンハルトは自らの息を呑む音を地下の静寂のなかに響かせた。
そこに完成していたのは、圧倒的な名もなき最高峰の美術品の姿だった。
ソフィーの白い肌の上に、漆黒印影の迷宮。
それは、ただの白い肌でもなければ、ただの黒いインクでもなかった。
肌という背景がなければ、その黒い多面体の陰影は、ただの歪な図形に過ぎない。しかし、インクという配線がなければ、その白い肌はただの面でしかない。
肌も、インクも、単体ではその美しさは霞んでしまう。互いの存在を前提にしながら、それでいて、そのどちらよりもずっと麗しい。極限の果てが、一枚の皮膚の上で完璧に交わっている言葉を失うほどの圧倒的な美がそこにあった。
「……終わったよ、ソフィー」
レオンハルトの低い、しかし微かに震える声に、ソフィーはゆっくりと、涙に濡れた青い瞳を開いた。
彼女は、診察台の鏡のなかに映し出された、自らの首元から胸元へと滑らかに伸びる、痛々しくも息を呑むほどに美しい黒い疑似神経のラインを見つめ、ただ静かに、声を失って震えていた。
「これが、君の新しい世界だ」
レオンハルトは、自らの指先をアルコールできれいに拭うと、ソフィーの肌の上の黒い線の起点、その首元の頸椎のすぐ下へと、自らの指先をそっと触れさせた。
少年の体温が、皮膚の膜を超えて少女の肉体へと伝わる。
二人の肉体、そして精神のラインが、皮膚という極薄の境界線を超えて直結された。
レオンハルトは、脳内の思考を集中させ、自らの魔力をソフィーの胸元に完成した神経束へと、静かに、流し込んだ。
頸椎から生まれた微弱な思考の波形が心臓へ、そして指先へと形を変えて波紋を描く。
その決着は白い指先から火花として部屋を照らした。