光は、一瞬にして部屋を満たし、そしてまた何事もなかったかのように夜の暗闇へと溶けて消えた。
ソフィー・オルタンスの白い指先から放たれた、鮮烈な魔力の火花。それは、彼女を縛り付け続けてきた宿業の茨を踏み越えた決定的な証明の瞬間だった。
静寂の部屋のなか、ソフィーは自らの指先を呆然と見つめていた。薄暗い炎のなかに浮かび上がる彼女の顔は、驚愕と、やがて、これまでの人生で背負わされてきたすべての絶望と苦悩が、その指先の一点から洗い流されていくかのように、大粒の涙が頬を伝って流れ落ちた。
レオンハルト・ヴィッセンは、診察台の傍らに立ち、彼女のその涙をただ静かに見つめていた。
監獄の地下で手を汚し自らをも実験台にして掴み取った成功。そして目の前の少女を呪いから救い出したという圧倒的な証左。レオンハルトの胸の奥底には、曾祖父カイの遺した数式には決して存在しなかった、命に輝きを灯したという深い確信と震えるような達成感が静かに満ち満ちていた。
「……おめでとう、ソフィー。これで、全部、終わったよ」
レオンハルトは、血とインクの染みがついた特殊合金針を清めてから静かに箱へと収めると上着を拾い上げた。その顔は、先ほどまでの極限の集中から解き放たれ無表情へ一瞬に移ろいだ。
彼はそのまま、ソフィーの視線から逃れるように、静かに部屋の扉へと足を向け、離れようとした。
「待って……。どこへ行くのです、レオンハルト」
衣服を緩めたまま、胸元の漆黒の幾何学の迷宮を晒したソフィーが、震える声で彼の背中に問いかけた。
レオンハルトは立ち止まり振り返ることもせずゆっくりと言葉を放つ。
「人体への直接刻印は世界を破滅に追いやる禁忌だ。だから、この世に只人が魔法を使えるようになる回路の形なんてものは一切遺さない。紙の論文はさっき焼いた。そして、」
レオンハルトは、扉を、その向こう側を差すように右手を上げた。
「…俺の、この首元と胸元に刻んだこれも火傷で跡形もなく焼き潰す。全部隠蔽するんだ。それで本当に全てが終わる。君は魔法を使えるようになって、世界は何事もない」
それは知識と秘匿の継承、そしてその先の証明からたどり着いた少年の絶対的な合理性だった。自らが描いたものさえも自らの手で肉体ごと焼き潰し完成する業。
「…そんな…、そんなことは……絶対に、許しません!」
個室の静寂を切り裂くように、ソフィーの鋭い叫び声が響いた。
彼女は診察台から飛び降り、裸足のまま冷たい床を踏みしめて、レオンハルトの行く手を塞ぐように、その身体の前に立ち塞がった。彼女の青い瞳には、涙の膜の向こう側に、少年の自己犠牲に対する激しい怒りと拒絶の火が燃え上がっていた。
「どうして、そんな残酷なことを平気な顔で行おうとするのですか!」
ソフィーは、レオンハルトの包帯の巻かれた腕を、白くなるほど強く掴み、必死に訴えかけた。
「世界と一族の安全のためだ、ソフィー。俺の肌にこの回路が残っていれば、万が一にも魔法を使える可能性が誰かに見つかる。そんなリスクを遺すわけには――」
「本気で一族を、その秘密を守りたいというのなら、あなたのそのやり方は完全に論理的ではありません、レオンハルト!」
ソフィーは、レオンハルトの硝子のような瞳を真っ直ぐに睨み据えオルタンスの娘としての高い知性を以て彼の冷徹な合理に真っ向から反論し始めた。
「もし、あなたのその細い首元から胸元にかけて、不自然なおぞましい火傷の痕だけが残されていたらどうするのです。一族の人間や、国家の不穏な目を持つ者たちが、ヴィッセンが何か致命的な秘密を隠すために自らの肉体を焼き潰したのだと余計に疑いを深めて探りを入れてくるに決まっています。私だってそうです。入れ墨を入れて急に魔法を使えるようになったとあれば、その2つを結びつけるのが人間です。…これはあなたや私が、一人だけの肉体に証拠が刻まれているから、異常な痕跡になるのですよ」
ソフィーは一歩身を乗り出し、自らの胸元に刻まれた漆黒を、誇らしげに、そして切なく指差した。
「ですが、同じ黒い幾何学の印を持つ人間が、この世界に二人として並んで存在しているなら、話は全く変わってきます。これは、大学に入ったばかりの若い平民の男と、特殊血統の傲慢な娘が、夏の盛りの熱気に浮かされて、お互いの皮膚に消えない呪いを刻み合ってしまった……ただの、愚かな夏の過ちの入れ墨であると、世間の下俗な噂をすべていいわけの盾にして誤魔化すことができるではありませんか!」
貴族としての絶対的な名誉も、オルタンスとしての気高い立場さえも、少年の肉体を熱鉄から守るための偽装コードとして平然と差し出す、少女の圧倒的な覚悟。
一人なら大罪の証拠。だが、二人なら、ただの不埒な若者たちの情熱の痕跡。国法や教会の検閲の目を、これ以上ないほど俗悪なスキャンダルで目眩ましできる。
レオンハルトは、ソフィーの執念と、完璧な論理の前に、完全に言葉を失って立ち尽くしていた。
彼の頭脳は彼女の提示した欺瞞の盾の合理性を一瞬で解し、そして無表情がゆっくりと笑みへと融解していった。
「……完敗だよ、ソフィー。君の言う通りだ。…これなら、俺が熱鉄を握る理由はどこにもない」
崩壊への入り口鍵は、焼き潰されることなく、二人の肉体の上に黒い陰影として、そのまま残る。
ソフィーはホッとしたように深く息を吐き、涙を拭いながら、少年の胸元へとそっとその額を預けた。お互いの皮膚に同じ黒い神経を宿して、二人は共犯関係へと落ちた
季節は、時間を未来へと急がせることなく、ただ若々しい夏の一幕として、王都を濃厚な熱気で包み込み続けていた。
あの無菌室での劇的な接触から数日。大学の講義が完全に休止された夏休みの後半戦、レオンハルトとソフィーの二人は、一族の邸宅の奥にある静かな書斎に引きこもり、新たな共同作業に没頭していた。
一族の脳裏に宿る知識の数々。それは静かでとても冷たい。
レオンハルトは、その冷たい記述の隣にソフィーの持つ圧倒的な芸術の才以て、一族に温かい記憶を残したいという、一つの個人的な願いをソフィーに乞うていた。
「僕と、君と、そして一族の姿を、一枚のキャンバスに描き出してほしいんだ。僕たちの血が、この世界で生きていたというもう一つの温かい継承の形としてね」
ソフィーは、レオンハルトのその願いを快く引き受け、書斎の大きなイーゼルに向かって筆を執っていた。
だが、レオンハルトはその願いのなかにもう一つ、重要なことを追加していた。
「大伯父のアルベルトや、父や兄たちから聞いた話を元に、曾祖父カイと、曾祖母アリアの姿を、最初にそこへ入れてほしい」
ソフィーの細い指先が、パレットの上で油絵具を混ぜ合わせ、キャンバスの上へと滑らかな線を紡ぎ出していく。
彼女の眼が、一族の言葉の断片から二人の幻影を三次元に再構築していく。
キャンバスの中央の奥に、最初に浮かび上がってきたのは、異世界の知識をその頭脳に納め、孤独を抱えながら擬態を貫き通した若き日の曾祖父カイの理知的な表情。そしてその隣には、立方体や多角形の色なきパズルを余暇として解き明かし圧倒的な才を携えてカイの隣にあった曾祖母アリアの凛とした笑み。
さらに、その二人の創始者の影の周りへと、現在のヴィッセンの一族の面々が次々と書き込まれていく。
本家でアリアの遺物を守り、レオンハルトの指先に母の再来を見て静かに涙を流した、大伯父アルベルトの威厳ある佇まい。
国家の財務方で冷徹に数字を繰り弟の退路を無言の視線で断ってみせた兄ルーカス。
炉の熱と鉄のなかで悩みを豪快に笑い飛ばし極細の特殊合金針を鍛え上げてくれた、遊び人の金属狂フリード叔父さん。
そして、知識の実証と好奇に身を捧げた両親の姿。
皆の姿が描かれていく。
レオンハルトは、ソフィーのすぐ後ろに立ち、キャンバスの中に構築されていく一族の系譜をじっと見つめていた。
瞳の奥にかつてないほどの熱い感情が去来する。
兄が法の死角を見つけ、フリード叔父さんが極細の針を鍛え、アルベルト大伯父さんが過去とまっすぐに向き合ってくれた。自分一人では到底到達できなかった、生命の連鎖。
やっぱり、俺はみんなに助けられたな
胸の奥で、完璧な結果を導き出したことへの圧倒的な自負と誇らしさ。そして同時に、自分のソフィーへの下心のすべてを、一族の男たちに最初から完全に見透かされ知られていたことへの小恥ずかしさ。
まるで、親に内緒で悪戯を仕掛けていたつもりが、実は最初からすべて掌の上で見守られていたと知った子供のような誇りと羞恥がぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に小さく頬を赤くして笑うしかなかった。
「どうしたの、レオン。そんな顔をして」
ソフィーが筆を止め、悪戯っぽく笑いながら振り返る。
「……いや。利用していたつもりが、ただ肩に乗っていただけだなと思ってね」
夏休みの終わりの夜。
王都を包む夜風は、盛り頃の生温かさを失い、どこか秋の気配を覚える涼やかな冷気を滲ませ始めていた。
一族の邸宅の静かなバルコニー。レオンハルトは机の上にあの陶器の小瓶を無造作に置いた。
彼は手元の魔石を使い、気泡一つない完全透明な氷のグラスを二つ静かに作り出した。
その透明な無色の器に、琥珀色の液体をなみなみと注ぎ、片方をソフィーの前へと滑らせる。
「…レオン。これを、私にも飲めと?ワインならともかく、このような強いお酒は、とても…」
「いいから、付き合えよ。君が、俺たちを夏の過ちだと言い切ったんだろ」
レオンハルトは、少しからかうようにニヤリと笑い、自らのグラスを揺らした。ソフィーは顔を一瞬で真っ赤にし、恨めしそうに少年を睨みつけながらも、諦めたようにその氷のグラスを小さな手で持ち上げた。
二人の衣服の隙間、首元から胸元にかけて、全く同じ入れ墨のラインが、月明かりの下で美しく、静かに並んでいる。
「……いただきます」
ソフィーはウイスキーを口に含まされた。
刺すような強烈なアルコールの熱さが彼女の喉を焼き、直後、口を閉じて鼻から優しく息を吐き出したソフィーの瞳が、驚愕で大きく見開かれた。
「……おいしい。本当に、すごい一族なのね、あなたたちは」
「だろう。曾祖父カイの作った、最高に完璧なシステムの味さ」
レオンハルトは自らのグラスをソフィーのグラスへと静かに接触させ、キン、と澄んだ無色透明の音を夜の静寂に響かせた。
曾祖父カイが遺した世界の記述。その裏側に、いま、ソフィーの描く鮮烈な命の絵図が完全に重なっている。
一族はこれからも表舞台には立たない。爵位も持たずただ不可侵の影として歴史の中をそっと流れていく。
だがその底には二人がこの夏にもぎ取った果実が言葉にすらならない暗号になりながらも消えずに確かに息づいている。