世界とは、名状しがたいほどに低効率で、劣悪で、救いようのないクソコードの塊だ。
辺境領の午前十時。どんよりとした曇天から差し込む薄暗い光の中、エヴェレット・ヴィッセンは実家のベッドに寝転んだまま、天井の木目をじっと見つめていた。彼の右手には、琥珀色の液体が半分ほど残ったクリスタルグラスが握られている。一族が最高級の技術で製造しているどこに出しても最高級の三十年熟成ウイスキー。
「あー……ダルい。二度と働きたくない。人間はなぜ呼吸をするだけで寿命を消費しなきゃいけないんだ。完全に設計ミスだろ、この世界」
エヴェレットはぶつぶつと呪詛を吐きながら、グラスを傾けて喉を鳴らした。芳醇な麦と果物の香りと、焦がした樽の甘みが脳のニューロンを心地よく麻痺させていく。
彼がここまで社会を憎悪し、昼前からアルコールに逃げているのには、極めて正当な理由があった。つい三日前まで人生で五件目となる職場、領主直轄の税務署で税務官僚の助手という職に就いていた。職に就いたと思った瞬間に辞めていた、というのが正確な記録だが、まともな倫理観と最高の知性が飛び込めば、三日で脳がクラッシュするのは必然だった。
何がクソかと言えば、その処理の圧倒的な非効率さだ。
この世界には当然ながら計算機もなければ統一された規格すら存在しない。
税務署に持ち込まれる帳簿は隣の街の商人が持ってきたものは羊皮紙に殴り書きされた乱雑なリストであり、別の領地から届いたものは古臭い羊皮紙に謎の地方単位で書かれた、文字通りの怪文書だった。
エヴェレットに課せられたタスクは、それらの一件ごとに仕様が全く異なる書式を、すべて手作業で羽ペンを使いインクを指まみれにしながら、新しい台帳へと書き写すという地獄のルーチンワークだった。
エヴェレットの脳内には、初代が残し一族が百余年の間紙に書かず、脳内への暗唱だけで口伝してきた21世紀の計算機科学、物理学、そして高等数学のベースが完璧に格納されている。
データベースのインデックス化、データの正規化、配列の最適化。それらの美しいロジックを知っている彼にとって、世界の事務労働とは、ただの無駄なエネルギーの浪費でしかなかった。だから、三日目の昼休みにお先に失礼しますと言い残してそのままフェードアウトした。当然の帰結である。
「お前が社会適合性を排出する速度だけは、いつ見ても感心するよ。エヴェレット」
突如、部屋のドアが乱暴に蹴り開けられた。
現れたのは、エヴェレットと全く同じ顔、しかし対照的に極めて冷たい、そしてインクのシミが首元まで染み付いた青年。双子の兄、ジョセフ・ヴィッセンだった。
ジョセフは象牙の塔たる王立第二大学に引きこもり、日夜、世界の数理物理モデルの構築に没頭している生真面目な男だ。その腕には、今しがた届いたばかりと思われる、未だインクの匂いが残る大量の羊皮紙の束が抱えられていた。
「ノックくらいしろよ、ジョセフ。俺の神聖な空間にオブジェクトを乱入させるな」
「朝っぱらからウイスキーを煽っているやつのセリフじゃないな。……母さんが下で嘆いていたぞ。エヴェレットがまた三日で仕事を辞めて、部屋で透明な石を弄んでいるってな」
エヴェレットは小さく鼻を鳴らし、ベッドの脇の机に置いてあった透明な石、銀のケースに収められた小さな機械へと視線を落とした。
それは、エヴェレットが趣味で組み立てていた懐中時計。
今この世界において、時計とは一部の富裕層が持つだいたい一日に数十分はズレる高級な調度品でしかない。だが、エヴェレットの手元にあるそれは、ガラス越しに見える内部の機構が異質だった。
一族のなかでも金属加工の狂人派閥、いつかの時代に極細の針を鍛え上げた職人の血を引くという偏執的な親戚から、エヴェレットが暇つぶしのおもちゃが欲しいと強請って融通させた、不純物のない極限まで硬度を高められた特殊合金の歯車。
その歯車たちを、エヴェレットは寸分の狂いもなく噛み合わせた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
時計は世界のどの場所よりも正確に、一秒の誤差もなく時を刻み続けている。エヴェレットにとって、この寸分の狂いもない機械の律動だけが、クソだらけの世界で唯一の正常動作だった。
「それは、あの鋼鉄だな?」
ジョセフが、書類を机にドサリと置きながら、エヴェレットの懐中時計を覗き込んだ。その瞳には、単なる兄弟の会話を超えた科学者としての鋭い眼が宿っていた。
「ああ。あの爺さんたち、俺が摩擦を極限まで減らした歯車の噛み合わせを教えてやったら、狂ったように炉を炊いてこれを出力してきた。労働は嫌いだが、設計図を書くだけなら寝ながらでもできるからな」
「……やはり、マテリアルの強度は、すでに臨界点に達している」
ジョセフが、短く、しかし確信を込めて呟いた。
「は? 何の話だよ」
「お前が作ったその時計の精度、そしてその歯車を耐えさせている金属の靭性だ。エヴェレット、お前は初代の二百年の猶予の記述を、暗唱できるか?」
「馬鹿にすんなよ。んなもん、いつだって覚えてる。初代の10代の時の、社会の冶金技術に物流需要、そして統計概念の不在から逆算するに近代的な鉄の道を走る未知の輸送機関、おそらく最初は鉄道、が出現するまでにはおよそ二百年の猶予がある……だろ」
エヴェレットはウイスキーを口に含み、面倒そうに答えた。
「それがどうした。まだ初代の予言から二百年は経ってない。あと数十年はある。俺が生きている間は、世界はクソ泥道のままだ。だから俺は、家で寝て過ごす」
「いや、世界は、…加速している」
ジョセフは、抱えてきた書類の中から、数枚のグラフと手書きで美しくプロットされた統計図形をエヴェレットの顔の前に突きつけた。
「これを見ろ。ここ数年の辺境から王都にかけての人口統計、金の流通量、そして農業生産高のログだ。明らかに上昇を起こしている。それも指数的に近い。初代の予想を上回る速度で、社会のスペックが上がっているんだ」
エヴェレットは目を細め、兄の持ってきたデータを脳内で高速スキャンした。
人口の急増。それに伴う通貨の流動性の高まり。しかし、最も異様なのは農業生産高の項目だった。特定のエリアだけ、グラフの曲線が天を突き破るようなスパイクを記録している。
「……何だこれ。王都近郊のこの村、ジャガイモの生産量が前年比で200%を超えてるぞ。徴税官がとち狂ったんじゃね?」
「そうじゃない。身内の問題だ」
ジョセフはため息をついた。
「忘れたのか? 王都から少し外れたあのエリアの農場は、一族の、あの土大好きな農業狂が管理している。その現当主のカール爺様が、どこからか流れてきた品種を手に入れたらしい。あの爺様、脳内の現代化学と土壌学の知識をフル稼働して、栄養素を最適化して、その種を爆発的に増やして大当てしたみたいだ」
「カール爺さん……あの、泥を舐めて土壌の酸を測定するっていう、あのイカれた超人か」
「御年80で現役の畑のモンスターだ。だが、問題はそこじゃない。カール爺様が世界の農業を勝手にアップデートしてしまったせいで、王都近郊の物流が完全に制御不能になりかけている」
ジョセフは、さらに一枚の地図を広げた。王都からその村へと繋がる、一本の主要道路が赤く塗られている。
「作物が爆発的に採れた。しかし、今の世界のインフラはお前の言う通りクソだ。道はまともな舗装もない泥道、輸送手段は馬車。幅が圧倒的に狭すぎる。数万トンの農産物を王都に輸送しようとしても、馬車の列が悪路でスタックして詰まりを起こしている。結果、何が起きていると思う?」
「……市場に届く前に、ジャガイモがその場に蓄積して、腐るな」
エヴェレットは、グラスをベッドサイドに置き、ようやく上体を起こした。彼の最適化脳が、瞬時にその光景をシミュレートしたのだ。
「その通りだ。膨大なエネルギーが生産されながら、物流のせいで、すべてゴミとして処理されている。世界は、この過剰な生産力を処理するための、全く新しい大容量の輸送方式を求めているんだ。つまり、」
「初代の言った、鉄の道を走る怪物の条件が、前倒しで揃いつつある、と」
「そうだ。だが、私はまだ確信が持てない。理論上は可能でも、社会や実際の現場の物理的な抵抗がどれほどか、ここからだけでは見えないんだ」
ジョセフは、エヴェレットの目をまっすぐに見つめ、冷徹なトーンで告げた。
「だからエヴェレット。お前、そこまで働きたくないなら、このインフラの社長にでもなれ」
「は? 何で俺が」
エヴェレットは顔をしかめた。
「社長なんて、一番ダルい実務の塊だろ。利害の調整、人の管理、書類のサイン。俺が最も憎む面倒そのものだ」
「逆だよ、この天才野郎。お前は実務労働には徹底的に向いていないが、他人に効率よく働かせるシステムを組むことに関しては一族でも右に出る者がいない。鉄道というインフラは、一度線路を敷いてしまえば、あとは人間と物資が勝手にその上を転がって、駅を通過するたびに勝手にお前の口座に金が振り込まれる、永久稼働の自動集金構造だ。お前の大好きな、完全なる不労所得だよ」
不労所得。一生、働かずに、一族の最高級ウイスキーを飲み続ける生活。
その単語が、エヴェレットの脳を激しく揺さぶった。
それにと、ジョセフはエヴェレットの手元の懐中時計を指差した。
「鉄道が走れば、列車を衝突させないために、すべての駅と車両の時間を一秒の狂いもなく同期させるネットワーク・クロックが絶対に必要になる。お前が趣味で作っているその時計の規格を世界にばら撒き、世界の時間を支配するんだ。ついでに、その輸送スピードで世界中の知識人と材料が混ざり合えば、世界の技術水準は俺たちに向かって爆速で加速する」
エヴェレットは沈黙した。
時計のカチカチという規則正しい音が、部屋の静寂に響く。
家にいれば、仕事を三日で辞めた息子に対する両親や親戚からの無言の視線が、これからもずっと刺さり続ける。それは確実だった。ならば、一度ベッドから這い出て、この世界のクソな泥道をハックし、一生サボれるシステムを構築する方が長期的にはリソースの節約になるのではないか?
「……チッ。本当にダルいな」
エヴェレットは、大きくため息をつき、ベッドから足を下ろした。
「分かったよ。ジョセフ、お前はそのまま大学のネットワークを使って、王都の官僚たちの動きや広域経済をモニタリングしてろ」
「お前は?」
「現場実証よ。その、泥を舐めるカール爺さんのクソローカルな畑にな。まずは、どれだけのものが詰まってるのか、この目でデバッグしてきてやる」
数時間後。辺境領の邸宅の前に、一台の馬車が停まっていた。
馬車。それはエヴェレットにとって拷問器具と同義だった。サスペンションの性能は最悪で、道が少し窪んでいるだけで脳が頭蓋骨の中でシェイクされるような衝撃が走る。
「あー、ダルい。腰が痛い。なんで俺が物理的に移動しなきゃいけないんだ。早く電信開発しろよ、この世界」
御者が鞭を振るい、馬車がガタゴトと音を立てて発車する。
エヴェレットは馬車の硬い座席に深く身を沈め、懐から銀の懐中時計を取り出した。ガラスの向こうで、精密加工派閥の鍛えた超特級の歯車たちが、世界の不条理な揺れを一切無視して、ただ冷徹に、美しく、一秒の狂いもなく時を刻んでいる。
世界はクソコードに満ちている。
不純物だらけの鉄、バラバラの時間、効率の悪い馬車、そして泥まみれのジャガイモの山。
だが、その物理層の限界の底で、世界を強制加速させるための最初のシーケンスが、今、確かに起動した。
馬車は、悪路の泥を跳ね上げながら、ジャガイモのバグが待つ王都近郊の村へと向かって、鈍重に進み始めた。エヴェレットは目を閉じ、脳内のキャンバスにいつか敷かれるべき一本の鉄のレールを描き始めていた。