胃袋の内容物が数秒おきに逆流の意思を脳裏に送ってくる。
辺境領から王都近郊の村へと至る街道はエヴェレット・ヴィッセンに対する容赦のない嫌がらせを断続的に繰り返した。
「あー……クソ。マジ、ダルい。内臓が完全にシャッフルされてる。このサスペンションを設計した奴、死んだ方が良いわ。ゴミを、市場に出すんじゃねえよ」
泥道をガタゴトと、いや、ガツンガツンと音を立てて跳ねる馬車の座席で、エヴェレットは青白い顔をして悪態をついた。
道とは、単に平らな地面を馬が歩いた結果自然にできた轍の集積に過ぎない。舗装という概念が欠落したその泥路は前日の雨をたっぷりと吸い込み、深さ数十センチメートルの泥濘と、乾いて岩のように硬化した土塊のコンビネーションで構成されている。馬車の車輪がその凸凹に突っ込むたびに、凄まじい衝撃がダイレクトにエヴェレットの腰椎を突き抜け、脳頭蓋をシェイクした。
彼は銀の懐中時計を取り出し、ガラス越しに文字盤を見た。内部では鋼の歯車たちが、この殺人的な振動を無視して美しく一秒の狂いもなく動作を続けている。機械だけが正常で、それを取り巻く世界全体が致命的なバグに侵されている。その圧倒的な落差に、エヴェレットは再び深い溜め息を吐いた。
「おい、旦那。そろそろ見えてきたぜ。ジャガイモの村だ」
御者が前方を指差す。エヴェレットが窓から顔を覗かせると、風に乗って、奇妙な匂いが鼻腔を突いた。
大地の匂い。爆発的な生命の匂い。そして、それを遥かに上回る、鼻を刺す酸っぱい悪臭。
「……おいおい、何だこれは。超過してるなんてレベルじゃねえぞ」
馬車が村の入り口にログインした瞬間、エヴェレットは絶句した。
そこにあったのは、貧しい農村の牧歌的な風景では断じてなかった。
村の広場、民家の軒先、果ては街道の脇の空き地に至るまで、ありとあらゆる場所に山が形成されていた。それも、土の山ではない。すべてが、丸々と太った、異常なサイズのジャガイモの山だった。
一つの山が、人間の背丈を優に超えている。それが数十、数百と村中に乱立しているのだ。だが、その表面は無惨だった。市場への輸送が完全に滞り、行き場を失った数万トンのジャガイモは、初夏の陽気に晒されて発酵し、ドロドロに溶け、不気味な汁を地面に垂れ流していた。大地の恵みが、物流の狭さというただ一つのボトルネックによって、文字通りのゴミへと反転している。
「酸は良いぞ! このピリピリする酸味こそが、土壌が最高潮に達している証拠じゃ! これで次も実る! 無限に実るぞ!」
その腐敗臭のただ中で、一人の老人が狂気的な歓声を上げていた。
御年八十。ヴィッセン一族の中でも農業狂家系の現当主、カール・ヴィッセンだった。
短い白髪を振り乱し、シャツをはだけたカール爺様は、あろうことか、畑の土をスコップで掬い、そのまま直接口に含んでモグモグと咀嚼していた。
「爺さん、相変わらず振り切ってんな。人間の消化器官は土を処理するように設計されてねえよ」
エヴェレットが馬車から降り、呆れ果てた声をかける。
「おお、エヴェレットか! 辺境の引きこもりが何の用じゃ! 見ろ、この土を! 最高に酸が乗っておる! どこからか流れてきたあの妙な種に、ワシが組み立てた栄養素の黄金比率を叩き込んでやったら、大地がこれを作りおったわ!」
カール爺様は泥まみれの歯を見せてガハハと笑った。
彼の背後には、同じく泥にまみれた十数人の大男たちが立ち並んでいた。カールの息子や孫世代にあたる、ヴィッセンの農業血統の男たちだ。全員が、日々の農作業と一族の異常な執着によって鍛え上げられた、丸太のような腕と分厚い胸板を持つ、暑苦しい筋肉の塊だった。
「エヴェレットさん、お爺様の言う通りです。ここの土は水はけも完璧だ。ちょっと舐めれば、鉄分と硝酸のバランスが1秒で分かります。ほら、エヴェレットさんも舐めてみてください。今日の土は一段とコクがありますよ」
カールの孫の一人が、筋肉をピクピクと震わせながら、親切そうに泥のついた指を突き出してきた。
「断る。俺の舌にそんな未精製の物体を置こうとするな」
エヴェレットは全力で手を振って拒絶した。
一族の脳内知識ベースを、多分独自に進化させているのだろうが、肉体と土を舐めるという超原始的なセンサーで強引に実行しているこの筋肉男たちは、エヴェレットのような理論派からすれば視界に入れているだけで疲れる存在だった。
「しかし、爺さん。喜んでる場合かよ」
エヴェレットは、足元で腐りかけているジャガイモの泥山を蹴った。
「せっかくの収穫物が、完全に腐って廃棄を待つだけのゴミになってる。王都までの泥道じゃ、運べる量が少なすぎるんだ。生産だけ増大したって、輸送がそのままだからつっかえてんだよ」
ぬぅと、カール爺様は頬についた泥を拭い、初めて悔しそうな顔をした。
「確かに、馬車の奴らがこれ以上は馬の足が折れると泣き言を言って、運ぶのを拒否しおる。ワシらはただ土の摂理を証明したいだけなのに、あのクソ泥道め……!」
「…そこまでにしてもらおうか。不穏な住人たちよ」
冷徹で重々しく、そしてどこか傲慢な響きを持った声が、村の入り口から響いた。
エヴェレットが眉をひそめて振り返ると、そこには、ジャガイモの村の存在とは明らかに異質な、漆黒の集団が佇んでいた。
馬を降り、泥道で衣服を汚さないように慎重に歩みを進めてくるのは、豪奢な刺繍が施された漆黒の司祭服を身にまとった男。その後ろには、教会の紋章が刻まれた胸当てをつけた、武装した護衛兵が数人、張り詰めた空気を漂わせて控えている。
男の名は、マルセル司祭。
王都の本国教会からこの村の異常を監査するために派遣された厳格なる聖職者だった。彼の目は信仰に人生のすべてを捧げた者特有の純粋ゆえの冷酷さで濁りなく澄んでいた。
ちっ、最悪のタイミングで検閲官が来やがった。
エヴェレットは心の中で舌打ちし、頭に回っていた酔いを瞬時に覚ました。
「私は王都教会より遣わされた、マルセル司祭である」
マルセルは、山積みにされた異様なジャガイモの山と、泥を舐めていたカール爺様、そして無駄に筋肉のついた大男たちを、不信感に満ちた目で見据えた。
「この村から王都へ届く農産物の量が、ここ数年、不自然極まるまでに至っているとの報告を受け確認に赴いた。……だが、これは私の想像を絶している。主の御手にある大地が、このような怪物のごとき豊作を、自然の営みだけで出力するはずがない。さらに…」
マルセル司祭の視線が、カール爺様に突き刺さる。
「老人が土を喰らい、村人たちが土は神様、土の摂理に跪けと不穏な賛美を叫んでいるという噂は、どうやら事実のようだな。これは、主を差し置いて物質を崇拝する、明白なる異端崇拝、あるいは悪魔と契約した魔術ではないか?」
武装した護衛兵たちが、静かに剣の柄に手をかけた。
カール爺様の後ろで、筋肉男たちがやるんかと言わんばかりに肩を怒らせる。
「おい待て、筋肉ダルマども、動くな。お前らの拳じゃ、国家と宗教には勝てねえよ」
エヴェレットは小声で身内を制し、わざとらしく大きく溜め息を吐きながら、マルセル司祭の前へと進み出た。彼の顔には、三日前まで税務署の助手として死んだ魚のような目をしていたニートの面影はなかった。脳内の論理エンジンが暖機なしに最高出力で駆動を始めていた。
「…お言葉ですが、高貴なるマルセル司祭様。それは解釈の誤り、言ってしまえば、ちょっとした行き違いではないでしょうか」
「何……? 何者だ、お前は」
マルセル司祭が、不快そうに目を細めてエヴェレットを睨みつける。
「私はエヴェレット・ヴィッセン。しがない辺境の書生に過ぎません。司祭様、貴方のように人生を純粋なる信仰に捧げ、聖書の教えを厳格に守らんとする真面目なお方にこそ、この村の真実を正しく読み解いていただきたいのです」
エヴェレットは、胸に手を当てて優雅に一礼した。まずは相手の真面目さという属性を肯定し、敵対という摩擦係数を下げる。
「真実、だと?」
「はい。確かに、この哀れなカール老人は、確かに土は神だと口にしました。しかし、それは決して教会の教えに背く異端や主以外を戴く偶像崇拝などではありません。無学故に、言葉の定義を間違えて表現してしまったに過ぎないのです」
エヴェレットは、脳内メモリからスコラ神学や存在論、そして論理学を高速で引き出し、宗教言語へと翻訳しながら言葉を紡いだ。
「司祭様、聖書にはこうあります。主は泥から人を作られた、と。つまり、この土という存在は、我ら人間という不完全な存在の根底を支え、主が天地創造の際に構築せし大地というシステムであり、秩序そのものの最大最奥の基盤なのです。彼らは土そのものを拝んでいるのではない。主が土壌に授けたまうた、生命を育む摂理のそれ自体に対して、圧倒されているのです」
マルセル司祭の眉が、わずかに動いた。エヴェレットの口から飛び出した、聖書の正確な引用と、驚くほど精緻な論理展開に彼の思考が揺さぶられている。
「だが、彼らは土を神と呼んだのだぞ? それは主の唯一性を侵す暴論だ」
「そこです、司祭様。それこそが、主の深遠なる御業なのです」
エヴェレットは一歩、マルセルに近づき、熱弁を振るう。
「この土という存在を御覧ください。毎日、何千、何万という人間に踏みつけられ、家畜の糞尿を注がれ、最も卑しく、最も低い場所に配置されている。……にもかかわらず、何ら怒りを持つことなく、ただただ沈黙し、謙遜と忍耐をもって、我らに豊穣という無償の祝福を与え続けている。司祭様、この踏みつけられながらも、人間に愛を与え続ける姿……これこそ、まさに主が我らに示された謙遜と自己犠牲の美徳の完全なる写し鏡だとは思いませんか?」
「謙遜、と、自己犠牲……」
マルセル司祭の目が大きく見開かれた。人生を信仰に捧げてきた真面目な彼にとって、この愛や謙遜というキーワードは、最も強烈に突き刺さる概念だった。
「そうです。彼らは、最も低い場所でありながら我々を支えてくれる土の中に、主の神聖の輝きを見たのです。無学ゆえにそれを神そのものと呼んでしまった彼らの無作法は、確かに修正されるべきでしょう。しかし、その根底にあるのは、主の創造物に対する、涙が出るほどに純粋な畏敬の念なのです。これほどの奇跡的な豊作を前にして、悪魔の業を疑うことこそ、主がこの大地に授けたまうた恩寵を拒絶する、最大の不敬であり不信仰ではありませんか?」
エヴェレットは、完璧なタイミングでカール爺様を振り返り、鋭い視線を送った。
「なあ、カール爺さん。貴方が言いたかったのは、土が神そのものということじゃなくて、土は主の最も尊き創造物である、ということだったよな? そうでしょ?」
エヴェレットの目に宿る圧迫感に押され、カール爺様は思わず唾を飲み込んだ。
「お、おお、そうじゃ! まさにその通り! ワシは、神様が作ったこの土のシステムが凄すぎて、つい言葉が滑っただけじゃ! 土は神様の最高傑作じゃあ!」
カール爺様が両手を天に掲げると、後ろの筋肉男たちも慌てて神様の最高傑作と、丸太のような腕を突き上げて大合唱を始めた。
マルセル司祭は、しばらくの間、呆然とエヴェレットの顔と、筋肉男たちの合唱を見つめていた。彼の脳内にある神学の論理は、エヴェレットがデプロイした謙遜からの土壌論という最新かつ曲解された解釈によって完全に上書きされていた。
「……おお」
マルセル司祭の目から、一筋の涙が溢れ、頬を伝った。
「なんという……なんという深遠なる解釈。最も低い場所にありながら、踏みつけられながらも豊穣を与える土に、主の謙遜と愛を見るか。私は、…自らの心の狭さを恥じるばかりだ。この村は、異端の村などではない。主の摂理を最も深く体現した、奇跡の証明であったのだな……!」
「ご理解いただけて光栄です、マルセル司祭様」
エヴェレットは、内心でよしっとガッツポーズをしながら微笑んだ。マルセル司祭は、兵たちに剣を収めさせ、深く祈りを捧げながら、満足しきった様子で王都へと引き返していった。
「……あー、疲れた。頭の回転上げすぎて頭痛がしてきた」
漆黒の集団が村から完全にログアウトしたのを確認し、エヴェレットは地面にへたり込んだ。
「エヴェレット、お前、いつの間にあんな神学のクソコードを覚えたんじゃ? ワシはてっきり、処刑されるかと思ったぞ」
カール爺様が、感心したようにエヴェレットの肩を叩く。その手についた泥がエヴェレットの服を汚したが、今の彼にはそれを咎める気力すら残っていなかった。
「クソコード言うなや。随分前に嫌々暗唱させられた論理学の内容を、ちょっと神学風にアレンジしただけだよ。で、爺さん、このジャガイモの山、どうするんだよ」
エヴェレットは立ち上がり、再び周囲に積まれた、発酵しつつあるジャガイモの山を見つめた。
マルセル司祭を煙に巻くことには成功したが、馬車物流という致命的な問題は何一つ解決していない。この膨大なエネルギーが、悪路のせいで市場に届かず腐っていく。この現実の前で、エヴェレットの脳内で、ジョセフの言葉と初代の鉄道の景色が結合を始めた。
待てよ。この超過供給を、もし鉄道という最大輸送手段で王都へ一気に流し込んだら、どうなるだろうか。
既存の馬車ギルドが1回の往復で運べる量はせいぜい数百キログラム程度だ。それに対して魔石の力で走る鉄の怪物なら、一度に数十トン、数百トンの物資を悪路にスタックすることなく、馬の体力の限界も無視して王都へダイレクトに高速で輸送できる。
利益が爆跳ねする。俺が最上位の所有権だけを握れば、それだけで一生遊んで暮らせる不労所得のバグが完成する。いや、それだけじゃない。
エヴェレットの脳内ソロバンが、もの凄い速度で回転を始めた。
彼は、実家のベッドサイドに置いてあった一族の酒の琥珀色の輝きを思い出した。
一族が誇るあのウイスキー。今は樽単位で貴族なり商人に卸しているが、もし、その鉄道の中に、誰もが見たこともないほど豪華な特等列車を一台連結したらどうだ。
計算が、走る。
一般的な樽から、一杯30mLのショット単位で売れば、単純計算で6000という杯数が取れる。
樽ごと売れば金貨程度、それでも異常ではあるが、にしかならないウイスキーを、鉄道の特等列車という、王都の貴族たちが移動の退屈さを紛らわせるための最高に贅沢で優雅な空間で一杯ずつ提供すれば、そこに景色と速度を交えた移動の快楽という莫大な付加価値を上乗せできる。
しかも中間マージンはゼロ。ヴィッセンが製造し、ヴィッセンが運び、ヴィッセンが売るのだ。
顧客への販売価格を、あえて通常の樽売りの1/1000で、大粒の銀貨数枚という絶妙なラインに設定する。これなら、金を持っていればどんな荒れ果てた村の成り上がりでも、王都のバカ貴族でも、一瞬で手の届く最高級としてイメージできる。……だが、すべてを捌き切れば、総利益は樽売りの数十倍、いや数百倍に跳ね上がる。それどころかそこで知った、知ってしまったに人間はもうその喜悦から逃れられない。
完璧な経済ハック。完璧な自動不労所得のアーキテクチャ。
エヴェレットの目が、初めてギラリと鋭い光を放った。
「おい、旦那!もう行くのか? まだろくに見てねえんじゃねえか?」
馬車の御者が、踵を返して馬車に飛び乗ろうとするエヴェレットを見て、驚いた声を上げた。
「記録なんざ、このクソみたいなジャガイモの山を見ただけで十分だ! データはすべて俺の頭に入った!」
エヴェレットは馬車のドアを激しく閉め、車内に転がり込んだ。
「おい、実家まで最速で戻れ! 手紙なんか書いて送るより、俺のこの頭脳を直接ジョセフの元へ持っていった方がずっと確実で早い!」
手紙という遅延の多い通信プロトコルを使うのは無駄だ。最速で実家に帰り、ジョセフに鉄道をぶち上げるぞと言い放ち、自分の快適なベッドで泥のように眠りたい。その強い欲望が、エヴェレットの行動を極限まで最適化させていた。
「ジョセフ……お前の言う通りだ。条件は完全に揃った。あのニート部屋からちょっとだけ出て、一生サボれる俺のシステムを駆動してやる」
ガタゴトと、再び拷問のような揺れを伴って、馬車が王都近郊の村を離れ、辺境領へと爆走し始める。
エヴェレットは目を閉じ、激しい振動の中で脳内のキャンバスにこの大地を貫く一本の美しく冷徹な鉄のレールの路をより強固に描き始めていた。