白色とトポロジー   作:朝凪小夜

67 / 68
System; Acceleration_3

 ようやく自宅へ帰還し、自室のベッドに復権した瞬間、エヴェレット・ヴィッセンの肉体は完全に休息モードに入った。

 

「あー……クソ。マジで死ぬ。物理移動のコストが高すぎる。骨が、腰椎が、ミシミシ言ってる……」

 

 泥まみれの衣服を脱ぎ捨てる気力すらなく、マットレスに顔を埋めたまま、エヴェレットは消え入るような声で呪詛を吐いた。

 王都近郊の農村から辺境領の実家までの復路。あのサスペンションが息をしていない拷問器具に再び揺られた時間は、彼の精神を根こそぎ削り取っていた。脳頭蓋の中でシェイクされ続けた脳髄が、未だに不快な信号を痛みとして脳裏に送り続けている。一生サボるためのシステムを作るとはいえこれ以上の重労働は存在しなかった。

 

「おい、エヴェレット。戻ったんなら突合せだ」

 

 部屋のドアが、いつものように遠慮という概念を完全に欠落させた速度で蹴開けられた。

 現れたのは淹れたてのコーヒーが注がれたマグカップを二つ抱えた双子の兄ジョセフ・ヴィッセンだった。その首元と目には、さらに増殖したインクのシミと深い隈が刻まれている。

 

「ノックを……しろと……何度言えば……」

 

「お前が生きているか死んでいるかのチェックだよ。ほら、カフェインだ。早く体を起こしてお前の見てきたことを教えろ」

 

 ジョセフはマグカップをエヴェレットの枕元に置くと、自らもベッドの端に腰掛け鋭い目を向けた。エヴェレットは芋虫のように這い回りながら、なんとか上体を起こし、温かい黒い液体を口に含んだ。強烈な苦味と覚醒成分が、泥のように眠っていたニューロンを強引に再起動させていく。

 

「……最悪だった」

 

 エヴェレットは、カップを握ったまま、忌々しげに吐き捨てた。

 

「王都の、あのへんの農村は、もうとっくにジャガイモでオーバーフローを起こしてる。あの土大好きなカール爺さん、生産レベルをぶっ壊してやがる。広場も街道も背丈を超えるジャガイモの山だ。それが、クソ泥道と馬車の限界のせいで、王都へ送れずにドロドロに溶けて発酵してやがる」

 

 ジョセフは、エヴェレットの言葉を一つも聞き漏らすまいと、脳内で高速にデータを処理していく。

 

「現場のボトルネックは、完全に輸送にあるというわけか。私の手元の人口・通貨流動統計のグラフが画いていた、あの異様なスパイクの正体が完全に証明されたな」

 

「…ジョセフ。お前の仮説と、初代の残した鉄道の予言は、完全にあの肥溜めの中で噛み合ったよ」

 

 エヴェレットは、グラスに半分残っていた三十年熟成ウイスキーのボトルを見やって、その瞳にギラリとした強欲な光を宿らせた。

 

「それだけじゃない。俺は最強のビジネスを閃いた。一族が誇るこのウイスキー。今は樽単位でバカ貴族どもに売ってるだろうが、もし、俺たちがこれから敷く鉄道の中に、誰も見たことがないほど豪華な特等列車を一台連結したらどうだ?」

 

「特等列車……? わざわざ輸送インフラの中に、環境を追加するということか?」

 

「そうだ。計算してみろよ。単純だぜ? 樽から一杯30mLのショット単位で売れば、単純計算で6000杯取れる。移動の退屈さを紛らわせるための最高に贅沢で優雅な空間。そこに、窓外を流れる景色と速度を交えた、移動の快楽という、それこそ天文学的付加価値を上乗せして一杯ずつ売るんだ。しかも中間マージンは完全にゼロ。ヴィッセンが製造し、ヴィッセンが運び、ヴィッセンが売る。最高の完全独占市場だ」

 

 エヴェレットは、コーヒーカップを机に置き、指を一本立てた。

 

「移動中の列車で、車内販売価格は、樽売りの千分の一に設定する。大粒の銀貨数枚、金を持っていればどんな荒れ果てた村の成り上がりでも、どこのバカ貴族でも、一瞬で手の届く最高級としてイメージできる絶妙なラインだ。……だが、6000杯すべてを捌き切れば、総利益は樽売りの数十倍、いや数百倍にだって跳ね上がる。それどころか、そこで最高速度の移動と最高の美酒を同時に知ってしまった人間は、もうその喜悦の依存性から二度と離れられない」

 

 ジョセフは、しばらくの間、言葉を失って双子の弟の顔を見つめていた。

 理論の厳密化に命を懸けているジョセフからすれば、エヴェレットのこの思考の跳躍は、もはや悪魔の組み上げた塔にしか見えなかった。

 

「……エヴェレット。お前は本当に、働くのが嫌だ、ベッドで寝ていたいと言いながら、人から効率よく金を毟り取る構造を組む時だけは、信じられないほどの最高速で演算を回すな。恐怖すら覚えるよ」

 

「褒め言葉だな。不労所得のためだ。そのために、お前の言う通り列車を衝突させないために、すべての駅と車両の時間を同期させるネットワーク・クロック、俺の懐中時計の規格を世界にばら撒く必要がある」

 

「分かった。お前が鉄道を最前線で構築するなら、俺がその裏側を保証してやる」

 

 ジョセフは、抱えていた数枚の図面をベッドの上に広げた。

 

「次のマイルストーンだ。実際の設計と実証実験だ。一族の中でも職人家系にはすでに連絡済。高圧に耐えうる鋼鉄シリンダーの鋳造を頼んでる。理論値の計算は終わってる。あとは、線路を敷くための大地の利権、そしてお前の一番嫌いな政治の世界だな」

 

「ああ……それだよ」

 

 エヴェレットは、再びマットレスに顔を沈め、深い泥のような溜め息を吐いた。

 

「線路を敷くには、ここ辺境領から王都近郊までのいくつもの領地を貫通させなきゃいけない。土地持ち貴族どもとの交渉、境界線、利権……。あー、ダルい。想像なんかしたくねえ。俺は面倒なんか抱えねえぞ、三つ巴にしてバラバラにした権利構造を作り上げてやるよ」

 

 

 数日後、辺境領と王都の中間に位置する由緒ある古城の一室。

 そこに、国家の権力構造を体現する4つの家、3つの階級が集結していた。

 長円形の重厚なマホガニーのテーブルの最上席に鎮座するのは、現国王の直系にあたる男、王族代表のクリストフ卿。若いながらも、王都の最先端の政治学と法学を修め、ヴィッセン一族の持つ財力と技術を国家への潜在的な脅威として最も強く警戒している知性十分な男だった。

 その対面に座るのはこのエリア一帯の武力と広大な領地を統べる辺境の雄、バルタザール辺境伯。数々の国境紛争を処理してきた彼の目は、老練な鷹のように鋭く、ヴィッセンが持ち込もうとしている未知の技術が、自らの優位性を書き換えてしまうのではないかと、冷徹にその仕様を値踏みしていた。

 そして、その二人の間に挟まれるようにして、二人の貴族が席を占めていた。

 一方は、それなりの領地規模を持ち、常に王族と辺境伯の顔色を伺いながら、損得勘定の風向きを慎重に見極めようとしている中間貴族、エドモン子爵。

 もう一方は、今回の会議における、ヴィッセン側から見れば最も与しやすい国家の巨大な脆弱性、ポンコツと名高いアンリ男爵であった。アンリ男爵は、豪奢なベルベットの衣装にこれでもかと宝石を散りばめ、会議が始まる前から、領地が近代化するという見栄えと、懐に入ってくるであろう金貨の妄想で、鼻息を荒くしていた。

 

「…お集まりいただき、光栄の至りでございます。諸公」

 

 テーブルの末席から一寸の淀みもない美しい発声で声をかけたのは、エヴェレット・ヴィッセンだった。彼の横には、一切の感情を排した目で書類を整理するジョセフが控えている。

 

「ヴィッセンの若造。挨拶は省いて、早く本題を提示してもらおうか」

 

 バルタザール辺境伯が、低く地響きのような声で机を叩いた。

 

「お前たちが我が領地を縦断し辺境から王都まで鉄の道を走る怪物を通したがっているという話は聞いている。だが、我が領土は先祖代々守ってきた神聖なる土地だ。どこの馬の骨とも知れぬ集まりに、一本の釘すら打たせるわけにはいかん」

 

その通りと、王族クリストフ卿も冷ややかに追随する。

 

「国家の許可なく複数の領地を跨ぐ大規模な輸送手段を民間の手で敷設するなど、王法の根底を揺るがす暴挙。その怪物、鉄道なるものがもたらす利便性がどれほどのものであれ、物流の中枢を一族で独占しようという思想そのものが、王室に対する不敬であり、看過できぬ」

 

 国家中枢の二人からの、容赦のない先制拒絶。

 普通の実業家であればこの時点で圧力に圧殺され交渉は没として終える。だが、エヴェレットは、むしろその警戒心の強さこそが、自らの想定したその通りであることに、内心で深く満足していた。

 

「ご懸念は至極当然でございます、クリストフ卿、辺境伯様。ですから、私どもヴィッセンは、その独占という問題を完全に排除し、皆様と利益を共有するための全く新しい共同会社の設立をご提案に参ったのです」

 

「共同会社だと……?」

 

 子爵が目を細めながら身を乗り出した。

 

「はい。具体的には、この鉄道網を運営、管理するための組織を私ども単独ではなく、沿線領主の皆様との合同出資による合同会社として設立します。そして…」

 

 エヴェレットは、ジョセフに目配せをし、手書きの収支計画書を四人の前に滑らせた。

 

「鉄道から得られる運賃収入、および駅周辺での商業利権。それらから発生する利益の実に七割を、皆様の領地通過比率に応じて、直接、皆様へ配当金として還流いたします」

 

「な、な…!? な、七割!?」

 

 その瞬間、沈黙を破って叫んだのはアンリ男爵だった。

 彼の脳は、七割の配当という圧倒的な数字の前に完全にキャパシティを超えて熱暴走を起こしていた。

 

「おい、ヴィッセンの! それは本当か!? 我が男爵領をあの鉄の道とやらが通るだけで、毎年、現在の税収の数倍に匹敵する金貨が、何もしなくても勝手に入ってくるというのか!?」

 

「…男爵、静粛に。まだ交渉の最中だ」

 

 クリストフ卿が、嫌悪感を露わにしてアンリ男爵を睨みつけたが、一度火の付いた物欲は止まらない。

 

「クリストフ卿! 辺境伯様も、何をそんなに難しい顔をしておられる! ヴィッセンが金を出すと言っておるのですぞ! ただ土地を貸すだけで領の財政は爆発的に潤う! これを拒否する理由がどこにあるというのですか!」

 

 アンリ男爵の暴走によって、会議室の空気がじわじわと同調の方向へと引っ張られていく。子爵も、計画書の数字を凝視しながら、これほどの利潤が保証されるのであれば体裁への言い訳も立つと、内心の天秤を傾け始めていた。

 しかし、辺境伯はまだ騙されなかった。彼は鋭い目をエヴェレットに向け、本質的な脆弱性を突いてきた。

 

「甘い。甘すぎる言葉だな、エヴェレット・ヴィッセン。世の中にそんな都合の良いものは存在せん。莫大な配当、その代わりに何を要求するつもりだ? 用地の買収、線路の敷設工事におけるトラブル、隣接する領地同士での駅の配置権の奪い合い……。それらの雑務を我々に押し付ける気だろう」

 

「さすがは辺境伯様、見抜くのがお早い」

 

 エヴェレットは、わざとらしく苦笑してみせた。

 

「その通りです。私どもヴィッセンは、ただの脆弱な技術者集団に過ぎません。各領地内の駅の治安維持や、日常の運営、そして領地境界線での揉め事や調整といった実務を行うための力を保持しておりません。ですから、それらの日常の業務に関しては、各領主の皆様の自律的な動きにお任せしたいのです。つまり、ヴィッセンは実務における支配権を、皆様に全面的にお譲りいたします」

 

「ほう……。実務の支配権を、我々に譲渡する、と」

 

 クリストフ卿が、その言葉の響きにピクリと反応した。

 知性十分な人間からすれば、実務の支配権を握るということは、すなわち鉄道という新しいインフラを自らのコントロール下に置くことができる、という意味に聞こえた。自分たちは現場を支配し、ヴィッセンは下請けに退く。これならば、国家の安全保障上のリスクも大幅に軽減されるのではないか、そんなロジック。

 

「アンリ男爵の言う通り、この条件であれば、我が領としても前向きに検討せざるを得んな」

 エドモン子爵が、ついに賛成のフラグを立てた。

 

「素晴らしいご決断です、諸公」

 

 エヴェレットは、深々と一礼しながら、契約書の羊皮紙をテーブルの中央に置いた。

 アンリ男爵は、クリストフ卿の制止を無視して、真っ先に自分の指輪の印章をインクに浸し、狂ったように契約書にスタンプを叩きつけた。それに引きずられるようにして、エドモン子爵、そしてバルタザール辺境伯とクリストフ卿も、極めて慎重に法的な文言を精査した上で、渋々と自らの血判と印章を刻んでいった。

 

「…これにて、共同会社の設立規約は完全に締結されました。ありがとうございます」

 

会議室を出た瞬間、廊下の陰で、エヴェレットは壁に寄りかかり、声を出さずに邪悪な爆笑を漏らした。その横で、ジョセフが冷ややかに書類を鞄に仕舞いながら、呆れた声をかける。

 

「…詐欺だな、エヴェレット。クリストフ卿や辺境伯ですら、お前の仕掛けた罠に全く気づいていない」

 

「これはハックじゃないよ、正当なデザインさ」

 

 エヴェレットは懐中時計を取り出し、カチカチと刻まれる正確な一秒を見つめながら、冷徹に微笑んだ。

 

「支配権を握った。そう誤認して喜んでるが、その実、契約書には、鉄道のコア技術それに会社の絶対的な意思決定権はヴィッセンが永続的に独占、掌握するという文言が仕込んである。彼らには、目先の金を、配当金をたっぷり与えてお利口な奴隷にしておけばいい。これから敷かれるレールの上の泥臭い境界線争いや、駅のクソ面倒な管理なんて雑務は、あの貴族どもが自分たちで勝手に処理し続けるんだ。俺のところには何一つそんな面倒は届かない」

 

 しかし、貴族階級という上位構造をハックしただけで安心しているほど、エヴェレットの脳は甘くはなかった。

 鉄道という巨大なアイデアを現実の世界に降ろす中で、もう一つ確実に暴動を引き起こすことが確定している致命的な問題が存在していた。

 既存の物流ネットワークを牛耳る最大の既得権益団体、馬車ギルドである。

 鉄道が走れば、辺境から王都までの物資の輸送スピードと容量はそれこそ天文学的に跳ね上がる。それはすなわち、これまで馬車を走らせることで生活の粮を得ていた数万人の御者や労働者たちが、一瞬にして不要として社会から排出されることを意味していた。今は見ぬ歴史の法則から追うに、彼らが線路を破壊し、機関車を焼き討ちするような動きを起こすのは必然だった。

 エヴェレットは、その懸念を事前に処理するため、王都の場末、馬の糞尿の悪臭と荒くれ者たちの怒号が飛び交う馬車ギルドの本部に単身で乗り込んでいた。

 

「…二度と、そのツラをこのギルドに近づけるんじゃねえよ。ヴィッセンのガキが」

 

 風圧すら伴う怒号とともに、エヴェレットの身体は、ギルド本部の重い木製のドアから、外の泥路へと乱暴に叩き出された。

 

「あー……、マジで痛いぜ、クソが」

 

 受け身すらまともに取れず、自慢の高級な上着の袖が泥まみれになる。エヴェレットは呟きながら、這うようにして立ち上がった。

 ドアの奥から姿を見せるのは、熊のような巨体を持ち、数え切れないほどの鞭の傷跡が腕に刻まれた大男。馬車ギルドの頂点に君臨する長、シヴィエだった。

 彼は常に怒りっぽく、語気が強く、周囲の荒くれ者たちを恐れと力で支配しているように見える。だが、エヴェレットは、そのシヴィエのギラついた濁りのない瞳の奥に、ヴィッセンに似たシビアな計算能力が常駐していることを見抜いていた。

 

「お前たちがやろうとしている計画は、とっくに耳に入ってんだよ!」

 

 シヴィエは、泥を踏み鳴らしながらエヴェレットを見下ろし、その太い指を突きつけた。

 

「鉄の道が、一度に馬車数百台分の荷を運ぶ? ふざけるな! そんなものが走ってみろ、俺たちの仲間の数千人、その家族の数万人が、明日から路頭に迷って飢え死にするんだ! これ以上、俺たちのシマを荒らすつもりなら、次はお前のその出来損ないの脳頭蓋を、蹄で叩き割ってやる!」

 

 周囲のギルド員たちが、一斉に鍬や鞭を握りしめ、エヴェレットを包囲する。圧倒的な物理的抵抗。

 しかし、エヴェレットは、泥を払いながら、フッと冷ややかな笑みを漏らした。

なるほど。ぶん殴られて追い出されたのは心底ムカつくが、確信が持てた。このシヴィエという男、ただの無知な荒くれ者じゃない。俺たちの持ち込もうとしている鉄道という未来の圧倒的な力に本能的に気づいて恐怖したんだ。自分のギルドの数千人の生活を裏側ちゃんと計算できているからこそ、これほど過剰に拒絶を起こしている。

 思考の差は広くない。ならば、アプローチを変えるまでだ。

 エヴェレットは、一度引き返し、数時間後、今度は最高の手土産を積んだ小型の馬車を伴って、再びギルドの本部へと赴いた。

 シヴィエが再び怒号を上げようとドアを開けた瞬間、エヴェレットはその鼻先に、一本の陶器ボトルを突きつけた。

 

「……あぁ? 何だそれは。俺をガキの小遣いで買収するつもりか?」

 

「買収じゃないよ、シヴィエギルド長。一族の作り出した最高級のウイスキー。そして、その製造工程で生成される、最高のブランデーにワインのセットだ。こんな揃え、どこにもないよ」

 

 エヴェレットは、ボトルの栓をわずかに緩めてみせた。その瞬間、ギルドのむっとする馬糞の臭いを一瞬でかき消すような、芳醇な麦と、凝縮された果物の濃厚な甘い香りが場に満ちた。

 シヴィエの鼻腔が、不随意にピクリと動いた。計算ができる男は、同時に本能的に本物を見抜くセンサーも超一流だった。

 

「……中に入れ。話だけは聞いてやる」

 

 シヴィエは語気を強めたままだったが、その目はボトルにロックインされていた。

 

 ギルド長室、古びた机の上。ブランデーの注がれたグラスを揺らしながら、シヴィエは深い、陶酔の溜め息を吐いた。その喜悦体験は彼の常識を完全に破壊していた。

 

「……クソが。美味すぎる。これが、お前らの力か」

 

「気に入ってもらえて光栄だね。さて、本題に移ろう」

 

 エヴェレットは、泥のついた上着のままで対面に腰掛け、冷徹な目で切り出した。

 

「あんたはシビアに計算ができる男だ。だから単刀直入に言う。鉄道の出現は必然だ。あんたらがどれほど線路を壊そうがこの動きを止めることは絶対に無理だ。このまま失業者になるか、鉄道の波に組み込まれるか、二つに一つだ」

 

「あぁ……? 俺たちを奴隷にでもする気か?」

 

「逆だ。あんたらの持つ、そう、強さは何だ?どの馬が、どれだけの荷を、どのルートで運べば最短で届くか。そんな蓄積されてきた物流の経験そのものだろ。鉄を走らせることはできても、俺たちヴィッセンには、その運行スケジュールに、物資の配給を現場で制御できる人間が致命的に不足している」

 

 エヴェレットは、シヴィエのグラスにブランデーを注ぎ足した。

 

「だから、馬車ギルドは解体するんじゃない、その数千人の人員をそのまま鉄道会社の管理者、実務者として送り込む。馬を鞭で叩く仕事から、鉄の怪物を時計通りに動かす専門職への変化だ。生活はこれまで以上に保証される」

 

 シヴィエの喉が、ゴクリと鳴った。

 

「……本気、か?貴族どもが、俺たちのような人間を、そんな重要な役職に就けるのを許すか?」

 

「そこだよ、シヴィエ。最後の仕上げだ」

 

 エヴェレットは不気味に、そして最高に邪悪な笑みをその端正な顔に浮かべた。

 

「運営側につく貴族どもは、お前たちを、現場の人間を舐めている。いずれ、あいつらは金を渋り、お前たちの給与を削ったり、過酷な労働を強いる。……だから、シヴィエ。お前たちは今から、ギルドの結束をさらに強固にし、世界初の労働団体として組織化しておけ」

 

「労働組合……? 組織だって?貴族と戦うための武器を持て、と? お前は鉄道会社の社長になるんだろう?エヴェレット、何で、労働者に自分を脅かす武器を授ける?」

 

「俺を? ちげーよ。貴族を脅かすんだよ」

 

 エヴェレットは立ち上がり、懐中時計をシヴィエに見せつけた。

 

「これで防盾が配置される。実務の管理を握る貴族。権利と適正な給与を叫び、現場を独占する労働組合。この二つの巨大な力が、現場の最前線で直接殴り合い、陳情をぶつけ合い、労働争議を処理し続ける構造が完成するんだ」

 

 エヴェレットは、懐中時計の蓋をパチンと閉めた。

 

「貴族も、労働者も、お互いがどれほど憎み合おうが線路と時計、そして列車そのものが無ければ一歩も動けない。そして一回でも動けばそれはもう止まらない。人が、ものが、お前らも、俺も、永久に駆動させ続ける」

 

 シヴィエは、背筋に冷たい戦慄が走るのを感じながらも、目の前の気だるげな人間が提示した、あまりにも完璧な設計に、ただ圧倒されるしかなかった。彼は無言でグラスの中身を飲み干した。

 

 

 深夜、辺境領のヴィッセン実家。

 エヴェレットは、自室のベッドに完全に潜り込み、ようやく誰の視線も届かない安眠へと落ちていた。彼の口元には、完璧なサボり環境を構築し終えた達成感ゆえの、安らかな寝息が漏れている。

 だが、その静寂の裏側で。

 ジョセフの実験室では、未だに凄まじい熱量を持った知性が稼働を続けていた。

 加工一族の職人たちが鍛え上げた、肉厚の鋼鉄シリンダー。そこへ、魔石の高負荷駆動から得られた超高圧の蒸気が送り込まれ、巨大なピストンが、激しい蒸気音とともに脅威の速度で往復運動を繰り返していた。

 

「……ふむ。ピストン駆動についての実証は完了だな」

 

 ジョセフは、蒸気と油の匂いが立ち込める室内で、手元の羊皮紙にいくつかのメモを入れた。

 エヴェレットが泥にまみれ、酒をばら撒き、貴族と労働者の泥臭い政治をハックしてくれたおかげで、ジョセフ側の実験は、信じられないほどの高速で結果を上げていた。鉄道開業のための足場は、今や完全に固まった。

 だが、ジョセフの鋭い瞳は、すでにその先にある、より深いどこかを見据えていた。

 

「時計を世界中に同期させ、これから敷かれる膨大な鉄道網の運行をリアルタイムで制御する。……そのためには、いずれ歯車という機械、アナログな演算の処理速度では、秒間の補正に追いつかなくなる日が必ず来る」

 

 ジョセフは、実験机の上に置かれた一本の奇妙なガラス管へと手を伸ばした。

 それは、一族の脳内知識の最深部に格納されていた秘宝。まだ計算機という巨大なシステムには程遠い、しかし、電気というエネルギーを自らの手で飼い慣らすための絶対的な基礎素子。

 

「必要なのは、機械的な歯車ではなく、電気信号そのものの流れをハックする構造、だな」

 

 ジョセフは、ガラス管の中に張られた微細な金属線の回路を見つめた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。