社会を裏側から改変する機構が動き始めた。その瞬間から、エヴェレット・ヴィッセンの許には生活を限界まで圧迫するほどの爆速で、現場の進捗データが次々と届き始めていた。
「…クソが! 脳が焦げる! サボるためにシステムを組んだはずなのに、なんで毎日毎日生データが家に一斉に送信されてくるんだよ!」
実家の書斎。エヴェレットは机に突っ伏したまま、手元の羊皮紙の山を忌々しげに睨みつけていた。
10日ほど前に設立契約が交わされた鉄道運営共同会社。これによって基盤が確立したことで、一族から沿線の町工場、職人ギルド、さらにはシヴィエが率いることになった馬車ギルドもとい鉄道労働組合から測定データが容赦なく弾き出され、この家へと集約されていたのだ。
曰く、線路用合金、クロム・ニッケル混成比率12%における最大引張強度、基準クリア。
曰く、機関車用高圧シリンダー:誤差1/1000センチ以下の肉厚加工、正常終了。
曰く、沿線第三区間における泥路の掘削およびバラストの敷設状況、進捗42%。
「まだ列車本体の製造すら始まってない段階だぞ? それなのに、この低品質な鉄をどう加工しただの、レールの強度がどうだの、くだらないログをいちいち俺に見せるな。俺は全体の問題をどうにかする人間であって、現場をいちいち監視する人間じゃねえっつの」
エヴェレットは、隣の実験室から聞こえてくる、ジョセフの回しているであろう小型蒸気機関のピストン音に頭を抱えながら椅子を蹴るようにして立ち上がった。
彼の脳はデータ処理の連続によって熱暴走寸前だった。このままこの部屋に閉じこもっていれば兄の実証実験に巻き込まれ、また徹夜で数式の突き合わせをさせられるのは目に見えている。
「……ログアウトだ。俺の精神と安寧を守るために、一時的にここから離脱する」
エヴェレットは上着を無造作に羽織ると、銀の懐中時計をポケットに滑り込ませた。
向かう先は王都。
まだ鉄の道は一本も繋がっていない。辺境領から王都までは、あの最悪の拷問馬車で数日間を要する。普通であれば、怠惰を極める彼がそんな移動コストを支払うはずがなかった。だが、彼には丁度今この瞬間にしか実行できない行動という、極めて邪悪で合理的な目的があった。
「ジョセフ! 俺は王都まで現地調査に行ってくる! 探すな!」
実験室のドア越しにそれだけをまくし立てると、エヴェレットは兄の
「待て、エヴェレット、このバルブの圧力計算が――」
という鋭い制止の声を完全に無視し、実家の玄関を飛び出した。
数日後。悪路に骨を軋ませながらも、エヴェレットは王都の最果て、一般の人間からは単なる古びた倉庫街にしか見えない区画へとログインしていた。
馬車の窓から差し込む王都の煤煙混じりの光を浴びながら、彼は目的地である建物の重い扉を叩いた。
そこは、ヴィッセン一族の心臓部の一つ、中央第一蒸留所。百を超える年月で一族の圧倒的なブランドと秘匿技術の粋を集めて最高級の液体を静かに生み出し続けているブラックボックスだった。
蒸留所の内部へと足を踏み入れた瞬間、外界の煤煙と馬糞の悪臭は完璧にシャットダウンされた。
そこに満ちていたのは、ひんやりとした清浄な空気と、大麦が発酵していく、微かに甘い香気の層だった。
薄暗い天井の奥深く、巨大な蒸留器が不気味なほど静かに佇んでいる。その巨大な銅の怪物の前で、樽の木肌を愛おしそうに撫でていた老人が、ゆっくりと振り返った。
ポール・ヴィッセン。
一族の中でも蒸留の家系の頂点に君臨する長であり、常識を遥かに置き去りにした不純物ゼロの聖なる液体を管理する、偏執的職人だった。彼の瞳は、熟成の時間を監視し続けてきた底知れない静けさと頑固さを宿している。
「……辺境の片割れか。しかもその怠惰な方ときた。今度は何の用だ、エヴェレット」
ポールは、その硬く節くれ立った指をバレルから離し、テーブルの上に透き通ったグラスを置きながら、冷徹な声を響かせた。
「貴様が何やら、沿線の貴族どもや馬車の荒くれ者を巻き込んで、鉄の怪物の事業を立ち上げたと、聞いたがな」
「挨拶が辛辣だね、ポール爺さん。俺はただ、これから世界にぶちこむ予定の鉄道とそこに居れる特等列車の仕様を完成させるために一族の至宝を使う契約の結びに来たんだよ」
エヴェレットは、案内もされぬまま部屋の革張りの椅子に腰掛け、ポールが置いたウイスキーのボトルを眺めた。
「断る」
ポールは、一寸の躊躇もなく、冷たく言い放った。その瞳が、エヴェレットを鋭く射抜く。
「貴様がやろうとしていることは、ただの物流のスケールアップだろう。我々の一族が百余年、一滴の妥協もなく守り続けてきたこの液体を、あんな煤煙を吐き散らす鉄の怪物の腹に詰め込んで運ぶなど、最大の冒涜以外の何物でもない。そんな真似、この儂が、ポール・ヴィッセンが許すと思うか?」
ポールはふん、と鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「線路を敷くための利権まみれの貴族、そして王都にのさばる、ただ金を持っただけのバカどもの喉に、この酒を流し込むだと? 片腹痛いわ。あいつらは、酒の価値など何も分かっていない。ただ高価なものを、もてはやされるものを消費して見栄を張りたいだけの、頭が空っぽの木偶の坊どもだ。そんなバカどものコモディティとして、傑作を切り売りする? 職人のプライドが絶対に認めるものか」
拒絶。
並の者であれば、この偏屈な長の頑ななプライドの前に沈黙するしかなかっただろう。だが、エヴェレットは顔色一つ変えず、むしろそのポールのお高くとまった拒絶の姿勢にただ笑った。
「貴様、何を笑っている」
「いや、ポール爺さん。あんたの言う通りだと思ってさ。確かに、王都の、いや王国のどこの金を持っただけのバカどもに、この酒の価値なんて分かりっこない。それは確かだ……だが、爺さん」
エヴェレットは、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「あんた、この酒の本当の美しさを、あのバカどもに隠したまま、ただ樽ごと死蔵させて満足するつもりか?」
「……何だと?」
ポールの声が、一段と低く、刃のような鋭さを帯びた。
「語ってやろうか? ポール爺さん」
エヴェレットは上体を起こし、脳内の知識から、目の前の魔導蒸留技術のスペックを正確にまくしたて始めた。
「まず、魔石と刻印を利用して、水の分子構造レベルで不純物を完全に除去したピュア・ウォーターの生成。次に、発酵液の中に含まれる余分な酸味やエステル類を、あるいは水を徹底的に弾き出す発酵液の純化プロセス。そして、どこぞの猿真似がやろうような煤煙で誤魔化すんじゃなく、寸分の狂いもない一定の温度管理と、プロペラによる均一な攪拌によって出力される、雑味ゼロの純粋魔導蒸留。……これだけでも頭のおかしい工程の連続だ」
ポールの瞳が、驚きと不気味さでわずかに揺れる。エヴェレットが、一族でも一部の人間の知識となった蒸留の全工程を、完璧に暗唱していたからだ。
「さらに極めつけは、その液体を仕込む樽の多重構造だ」
エヴェレットは、貯蔵庫の奥へと視線を向け、指を一本立てた。
「ただの木樽じゃない。同じ工程を利用して、事前に別の酒を十年間仕込んで木肌にその糖分とアロマを完全に定着させた、専用の10年物セカンド・フィル。そこにこの純化された原酒を流し込み、数十万時間もの間熟成のために眠らせる。……そして何より、あの最奥の棚に眠る、俺たちと同じ時間を、この蒸留所の空気と共に呼吸し、生き続けている古樽。これが、あんたの仕事の、この場所のすべてだろ?」
「……フン。ヴィッセンの教育を伊達に修めてはおらんようだな、エヴェレット。だが、その工程の美しさと、厳しさを知っているからこそ、私は貴様の安っぽい商業主義に、この酒を巻き込むわけにはいかんと言っているのだ」
ポールは、なおも頑なな態度を崩さず、エヴェレットを睨みつけた。
「じゃあ、ポール爺さん、あえて聞くが…」
エヴェレットは、トーンを落とし、職人の魂の最深部へと、冷徹な問いを突き刺した。
「今、その酒の本当の味と素晴らしさを完全に理解して飲んでる人間が、この世界に、王都だろうと王国の市場だろうと、一体どれだけいるんだよ?」
「……何?」
「樽ごと買うのはさ、味なんか二の次で、ただヴィッセンの最高級品を独占しているって権威だけを欲しがる、金を持っただけのバカな大貴族や成金商人だけだ。あいつらは、この歴史が詰まった古樽の呼吸の音も、魔石による純化の美しさも、何一つ分かっちゃいねえ。ただの、金貨の量を見せびらかすための道具として、この液体を消費してやがるんだ」
エヴェレットは、ポールの試飲用グラスを指差した。
「あんた、自分で言ったじゃないかよ。…自分の時間を削って作った傑作が、そんなバカどもの見栄の燃料として浪費されている現状を、職人として、ヴィッセンとして本当に受け入れられんのか?」
「貴様……!」
ポールの顔が、初めて屈辱と、そして図星を突かれた怒りで歪んだ。
そうなのだ。ポールもまた、自らの作った最高級酒が、ただの高い買い物として、味の分からぬバカどもに樽ごと買い占められていく現状に、長年、暗い思いを抱え続けていた。
「だからこそ、このシステムだよ、ポール爺さん」
エヴェレットは、悪魔のような甘い笑みを浮かべ、椅子に深く寄りかかった。
「俺の敷くレールの上の最高峰、誰も見たことがないほど豪華な特等列車を一台作り上げる。全面を覆う美しいガラス張りの窓、身体を柔らかく、それでいて完璧にホールドする総革張りの最高級の椅子。望めば新鮮な果実に、魔石でよく冷えた水さえも瞬時に手に入る、世界の最上位空間だ」
エヴェレットは、ポールの目をまっすぐに見つめ、指を三本立てた。
「その最高の環境のバーカウンターで、樽売りの千分の一という、大粒の銀貨数枚という絶妙なラインで、一杯30mLでバラ売りしてやるんだ。……これならどうなる?」
「千分の一、だと……?」
「そう。バカ貴族は、移動の退屈さを紛らわせるために喜んで金を払う。だが、本当に重要なのはそこじゃない。樽の千分の一の価格になれば、これまで樽買いなんて絶対に不可能だった、地方の埋もれた知識人、本物の舌を持った貧しい職人、あるいはカール爺さんのところの筋肉男どもまで、世界中の本当に味の分かる人間が、誰でもこの美酒に触れることができるようになる。間口を極限まで広げて、本物の知性を、一族のファンとしてシステムに巻き込むんだ」
エヴェレットの言葉の波形が、ポールの思考を根底から書き換えていく。
「金は、バカどもから、6000杯の大半で、樽売りの数十倍、数百倍の暴利として徹底的に毟り取る。だがこの鉄道の稼働によって、この酒は初めて本当に価値の分かる人間に、正しく伝わる。……ポール爺さん、職人として、これ以上の幸福が、他に存在すると思うか?」
中央蒸留所の薄暗い静寂の中、ポールの荒い息遣いだけが響いていた。
彼は、グラスに注がれた琥珀色の液体を見つめ、それから、目の前にいる、サボるために世界をハックしようとしている恐るべき若造の顔を凝視した。
ポールの職人としてのプライドは、エヴェレットの提示した新たな世界の構造の前に、完全に陥落していた。
「……フン」
ポールは、自嘲気味に、しかしどこか満足そうにニヤリと笑った。
「貴様という男は……本当に、底の知れぬ最悪だな、エヴェレット。……分かった。お前の言うその特等列車のための専用樽、この蒸留所と熟成庫の中から最高品質のものを出してやろう」
「素晴らしい。取引成立だ、ポール爺さん。最高の酒をありがとうよ」
エヴェレットは、満足げに立ち上がると、ポールの机の上の書類に、一族の印章をパチンと叩きつけた。
だが、ポールはドアへと向かうエヴェレットの背中に向けて、もう一言、不敵な追記を投げかけた。
「ところで、エヴェレット。貴様がここから持ち出したブランデーだが……」
「あぁ?」
「あの馬車組合の長、シヴィエという男の出身が、王都の南、あの梨の広大な生産地のすぐ近くだと知っていてあれを用意したのだろう? あいつは郷里の果実の香りに、ボトルを机に用意された時点で負けていたわけだ。貴様、そこまで計算して、私の蒸留所を利用したな?」
エヴェレットは振り返らず、ただ泥のついた上着の襟を立てながら、気だるげに手を振ってみせた。
「さあね。俺はただ、最もコストの低いルートを演算しただけだよ。じゃあな、爺さん。線路が繋がったら、特等列車のカウンターでヴィッセンの血を引く人間が直接その手で樽から直に杯に注ぐという、二重証明を組み込んでやるから、楽しみにしてな」
復路。馬車の激しい揺れに再び耐え抜きながらも、エヴェレットの脳内キャンバスは、かつてないほどの高解像度で満たされていた。
全ての準備が今完全に揃った。
クリストフ卿やバルタザール辺境伯から勝ち取った沿線の土地の支配。
シヴィエが率いる運行管理のプロフェッショナルとしての労働力。
ポール爺様が承認した一族の百余年の歴史が染み込んだ琥珀色の液体宝石。
そして、実家でジョセフが職人と共に実証を続けている、鋼鉄の心臓。
エヴェレットの頭の中にしかなかった、一生働かずにサボるための永久機関の設計図が、今、物理的な形として現実の世界へと輪郭を描き始めた。
数週間後。辺境領の広大な敷地内に、地図に載らない秘密の実験線が数キロにわたって敷設され、その上を、ついに形となった特等列車のプロトタイプが、不気味なほどの威容を誇って佇んでいた。
全面を覆う、歪みのない美しい大容量ガラス張りの窓。車内に入れば、身体を柔らかく包み込み、それでいてあの悪路の振動をサスペンションと共に完璧に吸収して支える、総革張りの特等椅子。その中央には、一族の鍛え上げた、どれほど列車が速度を上げようとも一滴の液体も揺らさない精密なグラススタンドと、蒸留所から直送された古樽が鎮座している。
それは異世界の移動宮殿そのものだった。
カチ、カチ、カチ、カチ。
エヴェレットは、特等列車の革椅子に深く身を沈め、懐から銀の時計を取り出して、その完璧な同期の律動を確認した。この時間が世界中に配給され、すべての列車が秒単位で衝突を回避しながら走り出す日は、もうすぐそこまで迫っている。
「……これで俺の所有権は完成だ。あとはバカどもが勝手に線路の上で金を流し、勝手に世界が加速していくだけだ。俺は二度と、あのクソ職場に戻る必要はねえ。一生、この椅子の上で寝て過ごしてやる」
完璧なサボり環境の構築を確信し、エヴェレットは、実家の、自室のベッドへと夜の闇の中を気だるげな足取りで実家へと戻っていった。
だが、その静寂の裏側で。
ジョセフの実験室では、未だ凄まじい熱量を持った別のプロセスが駆動を続けていた。
蒸気機関の実証をし終えたジョセフは、エヴェレットが外の世界を完全にハックしてくれたおかげで、自らの研究を誰も到達したことのない次世代深層へと突入させていた。
機械の油と、魔石の残熱が立ち込める薄暗い実験室。
ジョセフの鋭い瞳は、机の上に置かれた、一本の奇妙な透明なガラス管へと釘付けになっていた。真空管。抵抗、増幅、安定電流という、電気そのものを飼い慣らすための絶対的な基礎素子の構築実験の過程で、彼は、別の一つのハードウェアを現実世界に出力していた。
静かに実験机の脇に設置された微弱な魔力を流すためのスイッチへと手を伸ばした。
ジョセフがスイッチを押し下げた、その瞬間。
ガラス管の中に張られた微細な金属線が、激しい熱とともに、純白の圧倒的な光を放って白熱した。
炎の揺らめきでも、魔石の怪しい燐光でもない。人間の知性が、電気の流れを完全に制御して生み出した、この世界での人類初の純粋な電気の光。
まばゆい白光が実験室の壁を、机の上を、そしてジョセフの冷徹な顔を鮮烈に照らし出した。