鉄のレバーが下がっていく。
指先から微量の魔力が鉄枠を伝い、基盤である4級魔石へと入力される。
シュ、と小気味良い音がして、鉄枠の中央から手のひらサイズの火が熾った。
中心に青を、外縁に赤とオレンジの配置。
見た目は至って普通の火だ。通常の魔導コンロと同じように不規則な揺らぎを持って燃えている。外見に異常性が出るような派手なバグも起きていない。
ただ、動いている。
そう、つまりこれは
「……動いた。動いたよ!」
アリアが弾かれたように声を上げ、コンロに顔を近づけた。灰色の瞳が、まるで宝物を見つけた子供のように輝いている。
「ああ、動いたな。とりあえず一発でコンパイル……いや、定着してくれて安心した」
俺は安堵の息を漏らしながら、あらかじめ用意していた測定用の水瓶をコンロの上に載せた。
ここからが本番だ。
プログラムにおいて動くことと、正しく動くことは似ているようで全く別だ。動くというのはただプログラムが文法的に正しく書けていて変な条件付けはしていないというだけに過ぎない。
この刻印は難読化のために、元のクソコードをバラバラに引き裂いてコメントアウトとして周囲に肉付けした。全体の文字数はむしろ増えている。改善ではなく、むしろ全体的には改悪とも言える。
計算上は、これで最適化された3割の恩恵が相殺され、せいぜい1割程度の性能向上にデチューンされているはずだった。
だが、数分が経過し、水が沸騰し始めても、何かがおかしかった。
「……ねえ。これ、魔石の輝きが全然衰えてないよ?」
アリアの指摘に、心臓が跳ねた。
所詮4級の安物魔石だ。本当なら着火だけに使って安定稼働には3級の魔石を使う。
4級魔石だけでこの火力で湯を沸かせば、通常なら目に見えて魔石の光が濁り、魔力が消費されていくのが分かる。しかし、クランプに固定された魔石は、まるで今起動したばかりのように澄んだ青白さを保っていた。
消費魔石が、思っているよりも遥かに少ない。
「おい、嘘だろ……。なんで減らないんだ?」
冷や汗がでてきた。
脳内のソースコードを必死に逆引きした。
だが、分からない。動くコアは3割。残りの7割はただバラバラにした英語の愚痴だ。ロジックとしては絶対に干渉し合わないように隔離されているはず。それなのに、なぜか全体の燃費が異様に向上している。
前世でもよくあった。
なぜ動くのかはよく分からないが、何となく良い感じに動いているシステムという不気味なそれが、今この異世界の魔道具の上で起きている。
「……どうする? これ、このまま出したら流石にバレるんじゃ……」
アリアが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。彼女の狂気的な瞳にも、流石に国家の影を察したのか僅かな躊躇が混じっている。
チリチリと疼く胃を片手で押さえながら、激しく思考を巡らせた。
書き直すか。
いや、理由が、バグの原因が分からない以上、下手に弄れば今度は不発を起こしてもおかしくはない。
最悪は暴走による過熱と暴走。休日も残り少ない。もう一度設計をやり直して、彼女にこの微細な刻印を彫り直させる時間はなかった。
デスマーチでもするか?
……待てよ。
俺はコンロと、手元の羊皮紙を交互に見つめ、小しばかりの妥協の計算を始めた。
「……いや、大丈夫だ。多分、誰も気が付かない」
「えっ? 本当に?」
「ああ。外見は普通のコンロと全く同じだ。火が変な形をしているわけでもない。それに、提出する相手はあの教授だぞ?」
あの小太りの教授の顔を思い浮かべる。どうせ生徒たちが解けるとは思っておらず、期末の実習までの暇つぶし、あるいは何か面白いひらめきがあればラッキー程度で出した課題だ。まさか平民の学生が、旧文明の刻印を文字レベルで解読し偽装の為に難読化して組み替えたなどと疑うはずがない。
「文字数は元のコンロよりも増えて、見た目もただの不格好なもんだ。教授がこれを見ても熱意だけはある平民の生徒が、運良く奇跡的なバランスで彫り上げて、ちょっとだけ燃費が良くなったくらいで済ませてくれるはずだ。ラッキーな偶然、というやつだ。
それに教授だってそう暇なもんじゃない。解読できてないが適当に並べ替えていたら成功した程度の話でまともに試料として扱って研究しようなんてそう思えるようなもんじゃない」
そう自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。理由が分からないというは不気味だが、外見が擬態できている以上、これ以上の偽装を施すリスクの方が高い。
「触れてはいけない部分と、弄れる部分……。アリアに言った通りの、面白いクソコードが出来上がったよ。まあ、あんまり気分が良いわけじゃないが」
俺の言葉に、アリアは一瞬目を丸くした後、すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻した。
「あは、君がそう言うなら、信じるよ。じゃあ、このちょっと運が良かっただけの最高に不格好な刻印を持って、実習免除の単位取得と行こうじゃないか」
彼女の晴れやかな笑顔とは裏腹に、俺の胃はかつてないほどの不協和音を奏でていた。本当にこれで押し通せるのか。明日、あの教授の前にこの魔道具を差し出す瞬間を想像するだけで、胃液の酸が増した気がした。