白色とトポロジー   作:朝凪小夜

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 窓の向こうで、鉄の怪物が垂直の空を睨んでいた。

 王立ロケット研究所の第3計算室。その最前列の窓から見えるそれには、近代の建築物が持つような調和も、かつての職人たちが凝らした装飾の粋も一切存在しなかった。ただ無骨。その二文字だけが、巨大な円筒形の質量を定義している。

 表面を覆うのは均一とは言い難い厚みの鉄板だ。何箇所もの溶接痕が、まるでどす黒い傷瘡のように鋼の皮膚を這い回り、リベットの頭が不揃いな間隔で打ち込まれている。その姿は、ただただ内側に詰め込まれた魔導燃料の爆発を受け止め、その破壊的な指向性のみによって垂直方向の高度を毟り取るためだけにビルドされた、冷徹な物理層の塊だった。

 一般社会の人間たち。この研究所に国家の予算と期待を背負って送り込まれてくる凡百の技師たちにとって、あれは隣国を威嚇し、地上のあらゆる防壁を無効化するための究極の高高度兵器に過ぎない。

 だが、ニコラス・ヴィッセンにとって、あの醜悪な鉄の筒は別の意味を持っていた。

 

 いずれ、これの仕様は書き換わる

 

 ニコラスは窓ガラスに映る自分の、ヴィッセン一族に共通する輪郭を見つめながら、脳内で静かに思考のログを走らせた。

 今はまだ剥き出しの破壊衝動だが、材料工学がもう少しだけアップデートされれば、内側は完全にカプセル化される。その時あれは、爆弾ではなく、人と物、そして情報を上空へと運び出すための、純然たる運搬物体へと転換されるはずだ。

 窓の下に目を向けると、そこには一族がこの六十年の間に書き換えてきた世界が広がっていた。

 かつてこの王都の道路はただの悪路であり、移動手段といえば内臓を破壊しにくる最悪のサスペンションの馬車しかなかったという。暗唱で叩き込まれたその歴史は、今のニコラスにとってはもはや御伽話に近い。

 現在の王都は美しく敷き詰められた石畳の領域が日ごとに拡大し馬車はその姿を消しつつある。代わりに大通りを、そして都市と地方の境界を支配しているのは、ヴィッセン一族がこの世界にデプロイした鉄の道、鉄道網だ。

 遠くの駅舎から定期的に蒸気の排気音が響いてくる。規則正しい鉄の接地音が、石畳の地鳴りとなって計算室の床まで微かに届いていた。世界は着実に、一族の敷いたロードマップに沿ってクロックを上げている。

 そしてこの王立ロケット研究所という巨大な国家プロジェクト自体が、一族の仕掛けた壮大なインジェクションの結果だった。

 数年前、ニコラスの父親を含めた一族は、国家の枢密顧問官たちの前で、あるデモを行った。一族が秘密裏に開発した最初期の小型ロケットを打ち上げ、それに搭載した最新の光学写真技術によって、上空数万という単位の果てから見下ろした大地を撮影し、その現像紙を大臣たちの机に叩きつけたのだ。

 それは、世界の統治者たちが生まれて初めて目にする生々しい世界の輪郭だった。

 雲の切れ間から、微かに湾曲した地平線が見える。彼らが絶対の防衛線を誇っていた巨大な城壁も、万の軍隊が駐屯する要塞も、上空からの視点においてはただの小さな歪んだシミに過ぎなかった。

 天に陣取られたら、すべての防壁が無意味になる。垂直方向の絶対的な支配権を握られた瞬間、我が国は生殺与奪の権を完全に失う。

 国家上層部は、写真が示した残酷なまでの視覚的結果に文字通りの意味で骨の芯まで恐怖した。そして一族が裏から誘導するまでもなく、狂気的なまでの国家予算とリソースを、このロケット開発へと一気に投じることを決定したのだ。

 すべては、狙い通り。

 国家の肥大化した防衛本能をリソースの回収先として利用し、ロケットという運搬手段を限界まで発達させる。そしてその先端に、世界の目を欺いて一族の秘密、人工衛星、を相乗りさせ、世界中の重力兵器コードを永続的に監視・ハックするためのバックドアを天空に構築する。それが一族の最大目標だった。

 

「…ニコラス上席。ここ、物理魔石の並列供給ラインの減衰率なんですけれど……」

 

 背後からかけられた、ひどく間の抜けた声に、ニコラスの脳内シミュレーションは強制的に中断された。

 思考のプロセスを引き裂かれた不快感を、ニコラスは一切隠そうともせずに振り返った。

 

 

 計算室の中は、独特の熱気とノイズで満ちていた。

 一族が社会にばら撒いた階差機関のレプリカが、キンキン、キンキンと澄んだ高い金属音を立てて真鍮の歯車を回し、計算結果を細長い紙テープに穿孔して吐き出している。壁一面には、一族が導入した通信制御機器のプロトタイプが据え付けられ、手作業で編み込まれた磁気コアメモリのモジュールが、チカチカと鈍いステータスランプを明滅させていた。

 一般のエンジニアたちは、そのランプの点滅や、吐き出される紙テープの穴を必死にノートに書き写し、さも最先端の科学を操っているかのような熱狂の中にいる。ニコラスから見れば、彼らはまだアセンブラの構文ルールを暗記して喜んでいる見習いに過ぎなかった。

 ニコラスの研究所における公式の肩書きは、第3計算室・上席数理担当。

 実質的に、この研究所全体の軌道計算と制御コードの精査を一手に引き受ける総責任者のポジションだ。

 このポジション、所内の一般エンジニアたちにとって、ニコラス・ヴィッセンという男は死神と同義だった。

 

「ニコラス上席の前に仕様書を持っていく時は、自分の遺書も用意しろ」

 

 それが、若手たちの間での共通プロトコルになっている。

 ニコラスはミスを絶対に逃さない。文字のタイポから、数式の丸め誤差に至るまで、彼の前を通過できるバグは存在しなかった。もし、持ってきた仕様書が思考の足りていない手抜きであった場合、そこから地獄のような追及が始まる。逃げ場のない論理のパッチで脳内を徹底的に逆コンパイルされ、再起動不能になるまでプライドを粉砕されるのだ。

 ただし、ニコラスは単なる暴君ではない。

 自分の頭で極限まで考えてその上で間違えた時には、どれほど初歩的なミスであっても絶対に怒らなかった。むしろ、手元の椅子を引き寄せ、ここがバグの原因だ。一緒にスタックを追いかけようと、相手の知性のレベルに合わせて、粘り強くデバッグに付き合ってくれる。エンジニアとしての絶対的な矜持と誠実さを、彼は基底クラスとして持っていた。だからこそ、恐れられながらも、この研究所の誰もが彼を信奉していた。

 

 だが、いまニコラスの目の前に立っている男は、そのどちらのカテゴリにも属していなかった。

 男は、王立第一大学を最優秀の成績で卒業したという名目で、数日前にこの研究所に配属されてきたばかりの若手だった。その採用プロセスに、ニコラスも彼の父親も一切関わっていない。おそらく、国家の上層部かどこかの貴族のコネクションが割り込みをかけてねじ込んできたのだろう。

 ニコラスは冷徹に男の顔を見つめた。

 こいつの名前は何だったか。いや、覚える必要すら無いな。年次が何年目かも忘れたし、そもそもそんな社会的な変数に、数理的な意味があるとも思えない。

 

「……これが、僕の大学の最新の魔導幾何学をベースに記述した、次期ロケットの軌道・姿勢制御仕様書です」

 

 男は、上質な羊皮紙で綴じられた分厚い報告書を、誇らしげにニコラスの机に置いた。

 

「今までの計算は、古いパラダイムに囚われすぎていて非効率です。僕のこの新しい仕様なら、より少ない物理魔石のエネルギーで、計算上は現行の1.5倍の高度にまで到達できます」

 

「ほう」

 

 ニコラスは感情の失せた声で応じ、仕様書をめくった。

 彼の脳内コンパイラが、爆速で起動する。

 ヴィッセン一族の教育により鍛え上げられた数理処理能力が、羊皮紙に書かれたインクの羅列を、動的な三次元のシステム挙動へとトランスパイルしていく。

 ページをめくるごとに、ニコラスの脳内のシミュレータが、真っ赤なログを吐き出し始めた。

 

 1ページ、2ページ、3ページ。

 

 ニコラスの指が止まる。彼の周囲の空気が、急激に冷え込んでいくのを、近くのデスクにいた他のエンジニアたちが敏感に察知した。逃げようか、いや、音を立てるのも怖い。計算室の中の、階差機関の駆動音だけが、やけに大きく響き始める。

 男はそれに気づかず、なおも自信満々に胸を張っていた。

 

「どうです? 完璧な時間発展でしょう。燃料の消費に伴う、機体全体の全質量の減少も、きっちり変数として盛り込んであります。教授陣だって、これ以上の最適化はないと太鼓判を…」

 

「おい」

 

 ニコラスの、低く、押し殺した声が、計算室のすべての音をシャットダウンした。階差機関のオペレーターの手が止まる。

 ニコラスは仕様書を、バチン、と音を立てて机に叩きつけた。その冷たい視線が、若手エンジニアの顔面に真っ直ぐ突き刺さる。

 

 

「この設計でロケットが動くと、お前は本気で思ってんのか」

 

 ニコラスの声には、怒りよりもむしろ、純粋な絶望と呆れが混じっていた。

 若手エンジニアは一瞬、言葉に詰まり、それから不満そうに眉をひそめた。

 

「な、何をおっしゃるんですか。質量減少の計算式は完璧です。高度に対する初期推力の比率だって…」

 

「…製作の精度以前に、こんなんじゃ動き始めて数秒で、振動と重心ずれを起こして制御不能だろが!」

 

 ニコラスの怒号が、計算室の天井を揺らした。一般のエンジニアたちが一斉に肩をすくめ、自分の端末の画面に目を逸らす。ニコラスの追及フェーズが開始されたのだ。

 

「お前のこの、自慢の時間発展の方程式のバグを今から一つずつ教えてやる。耳の穴をかっ穿いてきっちり記憶しろ」

 

 ニコラスは仕様書の数式を指先で激しく叩いた。

 

「確かに燃料の時間依存での減少は盛り込まれている。だが、それは単なる全体の質量の引き算だ。ロケットの内部で、燃料が消費され、液体や魔石の配置が物理的に動いていくことによる、リアルタイムでの重心移動が完全に計算から抜け落ちている!」

 

「それは……微小な誤差の範囲で――」

 

「誤差だと?」

 

 ニコラスの目が、獰猛な肉食獣のように細まった。

 

「ロケットが加速し、大気圏外へ向かって速度を上げる時、機体が受ける流体抵抗がどう変化するか分かっているのか? 速度の上昇に伴う流体抵抗の動的変化の関数が、お前の設計ではただの一定値として処理されている。高度が上がれば大気は薄くなり、今度は惑星の重力勾配も非線形に減少していく。その高度依存の重力計算も、あまりにも雑で話にならない!」

 

 ニコラスは立ち上がり、男の胸元に人差し指を突きつけた。

 

「いいか。地上の制御室と、ロケット側の自動姿勢制御マトリクスは、多重化された電信プロトコルで結ばれている。地上からのフィードバックループが、1秒間にどれだけのパケットを処理しているか知っているか? お前のこのバグだらけの仕様書を機体にデプロイしてみろ。重心に重力と抵抗の計算がズレているせいで、地上側の予測値と機体側の実測値の間で、決定的な同期ズレが発生する」

 

 若手エンジニアの顔から、急速に血の気が引いていく。ニコラスの脳内コンパイルが提示するファクトは、あまりにも具体的で、反論の余地がなかった。

 

「同期がズレた瞬間、自動での姿勢制御は使い物にならない。機体は上空でわずかに傾き、その傾きを補正しようとして、お前の雑な数式が異常な出力を命令する。結果はどうなる?」

 

 ニコラスは吐き捨てるように言った。

「上空で綺麗に爆発してくれればまだいい方だ。最悪の場合、制御を完全に失い、出力最大のまま反転して、この王都か、あるいはどこかの主要都市へそのまま突っ込んでいくぞ。お前は自分のクソコードで、何万人もの人間を巻き添えにクラッシュを起こす気か!」

 

「僕は……そんなつもりでは……大学の教科書には、そんな動的変化の補正なんて載っていなくて……」

 

 男の膝が、ガクガクと震え始める。大学でのプライドも、最優秀の肩書きも、ニコラスの圧倒的な数理的現実の前には、ただの未コンパイルのテキストゴミに過ぎなかった。

 

「載っていないなら、自分の頭でゼロから構築しろ。教科書じゃない、…ここが文字通り最先端なんだからな」

 

 ニコラスは冷たく言い放ち、手元の椅子を引いた。

 

「お前の致命的なバグは、能力の不足じゃない。思考の怠慢だ。この程度で動くだろうとサボったその甘えが、システム全体を崩壊させる脆弱性になる。……今回は、何が間違っているかを理解しようとした形跡すら無い。不合格だ。そのクソ設計図を持って、今すぐ部屋の隅で仕様定義からやり直せ」

 

 男は、涙目を浮かべながら羊皮紙の束をひったくるように抱え、計算室の最も暗い角の席へと這うように退散していった。

 ニコラスは深くため息をつき、乱暴に髪を掻き揚げた。

 周囲のエンジニアたちが、怯えたように彼を見ている。ニコラスはその視線のすべてに、言いようのない苛立ちを感じていた。

 

 人が足りない。あまりにも、足りない。

 

 世界は一族のデモに踊らされ、莫大な資金を投じてロケットを作っているが、それを実際に動かすための人間の知性が、あまりにも低純度すぎる。技術の土台である通信システムも計算機も完璧に稼働しているというのに、それを使いこなすフロントエンドのリソースが絶望的に枯渇している。

 この世界の限界を、俺一人でいつまでデバッグし続ければいいんだ。

 

 窓の外を見れば、無骨な鉄の怪物が、何も知らずにただ夕暮れの空に佇んでいた。その垂直の空が、ニコラスにはひどく遠く、そして途方もなく重い鎧のように感じられた。

 

 

 深夜。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った第3計算室で、ニコラスは一人、液晶のごく初期型である試作モニターの前に座っていた。

 画面のドットが、荒い緑色の光を放ちながら、ロケットの次期高度上昇ミッションの弾道シミュレーションのログを淡々とスクロールさせている。手元には、冷めきったエールのグラスが置かれていたが、口をつける気にはなれなかった。

 

「相変わらず、容赦がないな、ニコラス」

 

 背後の自動ドアが開き、聞き慣れた足音が近づいてきた。

振り返ると、この王立ロケット研究所の最高責任者であり、ヴィッセン一族の現世代の長でもある男、ケイ・ヴィッセンが立っていた。その手には酒ではなく、別のルートから届いたと思しき何枚かの書類の束が握られている。

 

「ただの事実指摘です、父さん」

 

 ニコラスはモニターから目を離さずに応じた。

 

「大学出の天才様が持ってきた設計書は、高度依存の重力勾配すらまともに処理していなかった。あのままデプロイしていれば、次の高度上昇実験は確実に失敗し、機体は制御を失ってロストしていましたよ」

 

「分かっている。人事の割り込みを完全に拒絶できないのはこちらの落ち度だ」

 

 父親はニコラスのデスクの端に腰掛け、窓の外の射点を、険しい目で見つめた。

 

「だが、世界側の技術加速の熱量は、我々の想定を遥かに超え始めている。彼らは上空からの写真一枚で、天の支配権という恐怖に勝手にたどり着いた。今や国家は、隣国よりも一歩でも先へ、より高く、より強力なロケットを実戦に放り込むことに狂奔している」

 

 ケイの声には、独特のヒリついた緊張感が融けていた。それは、一族全体を覆っている納期の逼迫そのものだった。

 

「一族が2世代は先の水準の通信制御や自動姿勢制御のパッチをどれだけ裏から仕込もうとも、一般のエンジニアたちのレベルがこれでは、いつか世界の目の前でシステムが破綻する。世界が一族の秘匿領域のギリギリまで近づいているんだ。彼らが刻印の真の正体に気づく前に、我々は3基の衛星を軌道上に配置し、惑星内のセキュリティ網を完成させなければならない」

 

「…わかっています」

 

 ニコラスは緑色の液晶画面を見つめ、静かに、だが執着に満ちた声で呟いた。

 

「じいさんが言っていた、計算式の中だけでしか存在しなかった本物の宇宙の景色。太陽の光を浴びて動いていく大地や海を、俺はこの網膜で確かめたい。そのためなら、一般人のクソコードだろうが何だろうが、俺が全部トランスパイルしてでもロケットを宇宙へ押し上げてみせますよ」

 

 父親は、息子の横顔を少しだけ眩しそうに見つめ、それから手元に持っていた書類の束を、ニコラスのキーボードの横にそっと置いた。

 

「…割り込みもそう悪いものばかりではない。少しばかり面白いものが届いている」

 

 ニコラスは不審げに眉をひそめ、その書類を手に取った。

 

「これは……?」

 

「一般学会窓口から、お前のところに回せと要請があった査読依頼だ」

 

 父親は不敵な笑みを浮かべた。

 

「社会では最近、刻印をただの文字の体系として捉える刻印文字なんていう学術派閥がのさばっているが……そのゴミのような言語解読のノイズとは、全く一線を画す原稿だ」

 

 ニコラスは、手元の羊皮紙の最初の数行に目を落とした。

 その瞬間、彼の脳内コンパイラが、昼間のクソ設計図を読んだ時とは全く異なる、強烈な電気信号を感知した。

 書類に書かれているのは、言語としての刻印のハックではない。分野すら異なる。純粋な数学的仮定の積み重ねだけで、空間そのものを自由自在に記述し、歪め、再構築していく、圧倒的な幾何学トポロジーの数式群だった。

 光速度の実験も、電磁気学の精緻化も未到達なこの世界において、あまりにも多くのifに依存した歪な城。

 しかし、その仮定の枠内においては、一ミリの破綻もなく完璧な美しさで空間のうねりを支配する女王が、確かにそこに君臨していた。

 ニコラスの指が、かすかに震えた。

 昼間、世界の低さに絶望していた彼の脳内に、冷徹で、かつ凶暴なまでのエンジニアとしての興奮が洪水となって流れ込んでくる。

 

「……面白い」

 

 液晶モニターの緑色の光に照らされたニコラスの顔に極めて不敵で傲慢な笑みが浮かび上がった。

 

 

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