白色とトポロジー   作:朝凪小夜

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 ソフィアにとって、この世界が熱狂している最新の科学は調和を欠いたひどく不格好なノイズの塊に過ぎなかった。

 王立第一大学の片隅に位置する日の当たらない薄暗い研究室。カビ臭い古書とインクの匂いが染みついた無数の紙束に囲まれたその部屋で、彼女はペンを握ったまま小さく溜息をついた。

 彼女の視線の先には大学の学者や第一線の魔導師たちが大真面目に議論を交わしている刻印文字の最新の解読報告書があった。

世間はそれを、旧文明が遺した偉大なるシステム言語であり世界を駆動するための聖なる文字の体系だと崇めている。しかし、ソフィアの脳はそれらの文字を完全に拒絶していた。

 「A」や「B」といった、角張っていて規則性も調和もない寒気がするほど美しくない記号の羅列。

 それらは彼女にとっては完全に見慣れない異世界の文字でありただの不快なインクのシミでしかなかった。報告書に並ぶ文字を1行読むだけで、視神経が強烈な拒絶を起こし、脳が情報としての入力を拒否して熱が出そうになる。言語、あるいは記号による規定。その表層のレイヤーが、彼女にはどうしようもなく苦痛だった。

 だが、その拒絶反応は、彼女の知性が劣っていることを意味しない。ただ、逆。

 彼女の指先が、別の古い数学書に並ぶ∫や∂といった記号に触れた瞬間、彼女の脳は相変化を果たす。

 それらの記号は、彼女の頭脳という超高密度なプロセッサを通した瞬間、文字としての意味を失い、多次元が滑らかにうねり、拡張し、収縮していく美しいトポロジーの肢体へと変わる。

 彼女にとって数学とは読むものではなかった。ペンと紙という断った二つの媒体を通じて、脳内に直接展開される滑らかな宇宙を、そのまま記述していくためのただ一つの純粋なツールだった。

 だからこそ彼女は苛立っていた。

 この原始的な物理学が支配する世界において、すべての天体や物体の運動は美しく整った数式で処理できるはずだった。しかし、彼女が夜ごとに望遠鏡で観測し、紙の上でシミュレートしてきた内惑星の軌道のログは、既存のいかなる理論に対して、かすかに、だが決定的にズレていた。

 近日点移動のズレ。それは、現在の世界が信奉している美しくない計算の限界を示している。ソフィアは、その理論と観測の間に生じているわずかなエラーログに、何年も一人で苛立ち続けていた。

 その日、彼女の汚れた木製の机の上に、一冊の冊子が置かれていた。

それは数学論文誌ペーパー・イーの最新号だった。記号を美しく装飾した拍子に大きく創刊何年と赤い字が躍っている。

 ソフィアは数月前、自身の孤独な天体観測とそこから導き出した独自の空間曲率の数理をこの雑誌の窓口へと匿名で送りつけていた。彼女にとって、それは挑戦ではなく、ただこの美しくない計算を誰か直してほしい、そしてその手段はこれならできるからという切実な願いに過ぎなかった。

 冊子をめくる。彼女の書いた数知れない仮定で防壁を固めた歪な論文が、そこには掲載されていた。

 だが、ソフィアの視線は自分の論文そのものではなく、そのページの最末尾に匿名の査読者が残していったコメントの欄で完全に凍りついた。

 

 非常に美しく精緻な論文です。ただし仮定が多く全体での証明が系の様な構成になってしまっている為、より抽象性を増した公理を構築し体系として作り上げた論文を見てみたいと思います。

 

「……っ」

 

 ソフィアの喉から、小さく、引き裂かれたような息が漏れた。

皮膚の奥から、ゾワリと総毛立つような、未知の熱量が全身の神経を駆け抜けていく。

 ソフィアは、インクの文字を凝視した。

 既存の世界の裏付けを持たずに、ただ近日点のズレを埋めるためだけに、強引ですらある仮定の城を築いて空間を曲げたことを、この査読者は完璧に理解している。その上で、城を壊せと言っているのではない。仮定を排した、もっと抽象的な真の公理体系を持ってこいと挑発している。

 世界はまだ文字の形を崇めて喜ぶ、刻印文字の暗号解読という、あまりにも低い程度で足踏みしている。

 だが、この紙面の裏側には、私の思考の歩幅に並ぶどころかその先で腕を組んで待っている恐るべき誰かが潜んでいる。

 

「いいわ……」

 

 ソフィアは鉛筆を握りしめ、真っ白な紙の束を引き寄せた。

 刻印への生理的な嫌悪など、その瞬間に彼女の脳内から完全に失われていた。彼女の指は、すでに狂ったような速度で、紙の上に新たなるテンソル方程式を記述し始めていた。

 要求されたのは体系だ。ならば、世界がまだ誰も想定していない、時空そのものすら記述する数理世界を、ただペンと紙だけで構築してやる。

 彼女の孤独な知性が深夜の薄暗い研究室で爆速で起動した。

 

 

 同じ頃、王立ロケット研究所のニコラス・ヴィッセンの個人執務室にも、全く同じペーパー・イーの最新号が届けられていた。

 ニコラスはデスクの背もたれに深く寄りかかり、淹れたての珈琲の湯気の向こうで、その冊子をじっと見つめていた。

 一族の誇る圧倒的な印刷技術、完璧に計算された版組、そして視覚的なノイズを極限まで削ぎ落とした洗練された独自のフォント。それらによって物質化されたソフィアの論文は、紙面の上で、周囲の他のどの凡百の論文よりも圧倒的に光を放って輝いて見えた。

ニコラスは、自分が数週間前に脳内で査読したその数式を、誌面の上でもう一度ゆっくりと読み直していた。

 だが、ページをめくる彼の指は、いつもと違って奇妙に重かった。

 

「……くそ」

 

 ニコラスの口から、低いうめき声が漏れた。

 ソフィアの記述した数式を追い始めたとたんに脳に強烈な重圧。

 彼女の提示した数理モデルの仮定そのものは、決して破綻もしておらずそして強引なものではなかった。

 真に恐ろしいのはそこから展開される、あまりにも情報を圧縮して行間をすべてすっ飛ばした定義と論理の連続だった。

 一行進むごとに通常であれば数ページ分の緻密な代数の計算が必要となるプロセスが、極限まで押し潰され一行の数式の中に格納されている。

ニコラスの知性をもってすれば、その省略された広大な失われた工程を、自力で脳内で展開し再計算して、正しいものと追うことは可能だった。

 だが、その一行と一行の間が、あまりにも重く、そして遠い。

 普段のニコラスであれば、ただのエンジニアが持ってくる設計図のミスやバグなど、画面や紙を泳がせるだけで一瞬で見抜き、脳内だけで完璧に書き直すことができた。しかし、この女の数式は、そのレベルを遥かに超越していた。

ニコラスは、たまらずデスクの引き出しから1本のペンを毟るように取り出し、インク瓶に深く浸した。

 ガリガリと、手元の雑記帳に、激しい音を立てて文字や数式をいくつか書き散らす。彼が一族の教育を受けてから、計算のために手元で物理的にペンを動かすなどという泥臭い動作を強いられたのは、これが人生で2度目の経験だった。

 

 ペンを動かし、行間を力ずくで展開していくうちにニコラスの額に微かな汗がにじむ。

 正しい。どこまで疑おうとも、彼女の論理は完璧な調和を保って繋がっている。光速不変の前提も、電磁気学の数式も持たないこの世界で、ただ天体の近日点移動という現実のエラーログだけを道標にして、彼女は自力で時空を奴隷のように扱う方程式の入り口にまで到達してしまっている。

 ニコラスはペンを置き、自分の両手を見つめた。

 2度目の計算。査読時点で同じ計算をしているはずなのにどうやってもその計算には時間がかかる。細かな修正の上での出版で本当にミスが無いかをもう一度確かめる、ただそれだけの為にこれだけの時間と労力を使うなどありえないことだった。

 ヴィッセン一族として生まれ、世界で一番進んでいるのは俺たちだ、初代からの膨大な知識を持つ俺たちがこの遅れた世界を導いてやっているんだという驕りが、自分の中に確かにあったことを、彼は今、戦慄と共に自覚していた。

 その傲慢の防壁が、この雑誌に印刷された、野生の天才の論理によって、跡形もなく粉砕されていた。

 

「まだ世界は俺たちの後塵の中にいるものと見くびっていたが……とんでもない怪物を引き込んでしまったな」

 

 ニコラスは深く息を吐き出し、すぐにデスクの通信機、あるいは内線プロトコルを起動した。

 すでに露呈した人間リソースの致命的な枯渇。あの大学卒が持ってきたクソ設計図の山。それらを思い出し、ニコラスの脳内で一つの提案が組み上がっていく。

彼はそのまま父親である所長の部屋へと向かい、ドアを開けるなり、そのペーパー・イーを突きつけた。

 

「…父さん。この論文の著者、匿名のままだが、大学の窓口を辿れば身元は割れるはずだ」

 

ニコラスの瞳には、驕りを捨て、エンジニアとして本気でターゲットを捉えた者の凶暴な光が宿っていた。

 

「今すぐ強引にでも雇用してほしい。人手が足りない、ましてや優秀なリソースならなおさらだ。第3計算室のあのクソみたいな状況を全部叩き直すために、この人間が絶対に必要だ」

 

 ケイは、息子の尋常ではない熱量と、その手元でインクで汚れた雑記帳の山を見て、すべてを察したように深く頷いた。世界が一族の秘匿領域に近づく開発レースの緊張感の中、彼らは新たな未知を研究所へと呼び入れることを決定した。

 

 

 王立ロケット研究所の第1面接室は凍りつくような厳しい空気に支配されていた。

 重々しいオークの机を挟んで、研究所の古参の主任技師たちがズラリと並び、手元の採点表を忌々しげに睨みつけている。その中央に、上席数理担当としてのニコラスもまた、冷徹な仮面を被って座っていた。

 彼らの視線の先にポツンと置かれた椅子に、ソフィアは座っていた。

 大学の古びたローブを羽織り寝癖のついた髪を雑にまとめただけの彼女の姿は、お世辞にもエリートには見えない。だが、何よりも問題だったのは、彼女がつい先程に受けた筆記試験の採点結果だった。

 

「……ありえん。こんなふざけた結果、前代未聞だ」

 

 一人の主任技師が、羊皮紙の採点表をパチパチと指で叩きながら、不快感を露わにした。

 

「数学パートは、驚くべきことに満点。それも、解答例を遥かに凌駕する記述で終わっている。……だが、刻印文字の解読・記述パートは、完全に、0だ。アルファベットの書き取りすら拒否している」

 

 技師たちの間で、軽蔑と困惑の混じった囁きが交わされる。

 

「言葉も読めない無能をなぜ我が計算室に迎えねばならないのだ」

 

「いくら高次元の数学が使えようとも、制御の基本言語である刻印が分からなければ、システムに触れさせることすらできん」

 

「これなら、まだコネで入ってきた言うことを聞く大学卒の若手の方がマシだ」

 

 冷酷な不合格の空気が室内に充満していく。ソフィアはそれを感じ取りながらもただ退屈そうに自分の爪を見つめていた。彼女にとってこの面接官たちの言葉はあの美しくない刻印文字と同じくらいに情報価値のないノイズに過ぎなかった。

 その時、これまで沈黙を守っていたニコラスが、静かに机の上の書類の束を掴んだ。

 

「言葉が読めるかどうかなど、この際どうでもいい」

 

 ニコラスの冷たい一言が、面接官たちの雑音をシャットダウンした。ニコラスは立ち上がり、ソフィアの目の前へと歩み寄ると、その手に持っていた紙の束を、彼女の膝の上にバサリと叩きつけるように突きつけた。

 それはいつかにニコラスが激怒しリジェクトしたクソ設計のレプリカだった。

 

「シンプルな試験だ」

 

 ニコラスはソフィアの瞳をまっすぐに見つめ、逃げ場のない死神の声を響かせた。

 

「その設計には、問題があるか、ないか。もし問題があるなら、君の手で直せるか。これに答えろ」

 

 周囲の技師たちが

「ニコラス上席、それはいくら何でも……」

「うちの最新の設計書を、刻印も読めない小娘に――」

と止めようとしたが、ニコラスは片手を挙げてそれを制した。

 

 ソフィアは、膝の上に落とされた紙束を、怪訝そうに一瞥した。

 やはり、図面の余白に書かれた刻印の注記や命令文には、かけらも興味を示さない。見るだけで拒絶を起こすかのように露骨に視線を逸らす。

 だが、図面の中央に並ぶ時間発展の方程式の構造が、彼女の網膜に焼き付いた瞬間。

 ニコラスは、確かに見た。彼女の「モード」が、完全に切り替わったのを。

 見た目の変化は何もない。だが、彼女の視線が数式の並びを捉えた瞬間、膝の上の紙束をなぞる指の動きの質が、それまでの退屈な少女のものから、空間を支配する女王のそれへと一変した。

 

「……ひどい、不格好な記述ね」

 

 ソフィアの口から、冷ややかな呟きが漏れた。

 

「燃料の消費という、ただの引き算だけで、中身の液体の移動を完全に無視しているわ。それに、速度が上がるにつれて変化する外側の流体の抵抗も、高度によって変わる重力の勾配も、全部ただの固定された定数で処理されている。これじゃあ、上空で、時間の進み方……いえ、制御のタイミングが完全にズレて、途中で勝手にひっくり返って落ちるわよ」

 

 面接室の主任技師たちが、一斉に息を呑んだ。

 彼女は、ニコラスが見抜き、怒号と共に論破した致命的脆弱性を、ただ数秒、紙の上をなぞっただけで、完璧に、寸分の狂いもなく看破した。

 ソフィアは、机の上のペンを無造作に引っこ抜くと、その設計図の裏側の真っ白な余白に、一切の躊躇なくペン先を走らせた。

 ガリガリとインクが刻まれていく。

 彼女が記述しているのは、世界が躍起に研究している刻印文字のコードではない。彼女独自の、抽象化された空間の方程式。一行進むごとに莫大な行間を跳躍し、しかし完璧な調和を保った論理の連続。

 流体抵抗の動的変化を空間の曲率へと変換し、高度依存の非線形を相殺する、美しい調和の数式が、みるみるうちに余白を埋めていく。

 

「これで、どんな高度でも、ズレは完全に相殺されるわ」

 

 ソフィアはペンを放り投げ、再び傲然と椅子に背を預けた。

 紙の上に描き出されたその美しい調和を前に、さっきまで彼女を無能と罵っていた主任技師たちは、口を半分開けたまま、完全に言葉を失ってフリーズしていた。

 ニコラスは、その数式を見つめ、脳内でかすかに発熱する負荷を心地よく感じながら、不敵に笑った。

 

「採点結果を修正だ。刻印の0点など関係ない。今すぐ第3計算室の上席助手として採用する」

 

 

 

 その日の夕方。

 昼間の厳しい面接と配属の手続きが終わり、一般の職員たちが帰路についた第3計算室は、オレンジ色の夕暮れの光に染め上げられていた。

 ガシャガシャ、ガシャガシャと、部屋の隅では一族が社会に流通させている最高峰の階差機関が、油の匂いをさせて高速回転し、激しいノイズを立てて稼働している。ラインプリンターが、インクの乗ったドラムで紙を叩き、折りたたまれた長い連続用紙を静かに吐き出していた。

 ニコラスは、デスクに一人で座っていた。

 その対面には今日から彼の部下となったソフィアが所在なさげに立っている。

 ニコラスは手元にあった数冊の分厚い連続用紙の束を彼女の前に置いた。

 それは一般用計算機が出力した近日点移動の方程式の動的解析結果。離散化された時間ステップごとの数値データがズラリと印字された圧倒的な情報量の塊だった。

 ニコラスは、一族の圧倒的な優位性と、数理担当としての自負をその瞳に漲らせ、彼女をまっすぐに見つめた。

 

「本当は規約違反なんだけどね。君のあのペーパー・イーの論文、世界で最初に読んで、あの査読コメントを書いたのは、俺なんだ」

 

 ニコラスは、彼女の驚く顔を想定しながら、どこか傲慢な、だが確かな尊敬を込めて告げた。

 

「あの論文の美しさを、この世界で本当に理解して、その先を要求できるのは俺しかいない。君の知性をこの研究所に引き込めたのは、この分野の人間として最高の業績だと思っているよ」

 

 だが、ソフィアは眉一つ動かさなかった。

 驚くどころか、彼女はその大きな瞳でニコラスを見下ろすように、フッと傲然とした笑みを浮かべたのだ。

 

「勘違いしないで、ニコラス上席」

 

 ソフィアはデスクに両手を突き、ニコラスの顔の至近距離まで顔を近づけた。数式を前にした時と同じ、あの女王の畏怖を抱かせる視線が、ニコラスを射抜く。

 

「その空間記述の美しさを、世界で最初に読んだのは、あなたじゃない、私よ。私はただ、誰も気づかない世界の美しくないところを、私自身の頭で思考して記述しただけ。あなたがやったのは、その後ろから轍を追いかけてきただけに過ぎないわ」

 

「……」

 

 ニコラスは一瞬、完璧に言葉を失った。

 しかし、ソフィアの追撃はそれだけでは終わらなかった。

 彼女はニコラスが誇らしげに提示した、一族製の計算機が出力した連続用紙の束へと視線を落とした。

 その指先が、インクで印字された離散データの時間ステップ、不自然に並ぶ数値の羅列を、冷徹にサラサラとなぞっていく。

 そして、ソフィアはフンと鼻で笑いその紙束を突き放して冷たく言い放った。

 

「……何よこれ。ただの近似計算じゃない。無限小を見れてないわ」

 

「な……」

 

 液晶モニターPCこそ隠したものの、この連続用紙のデータは一族がその歴史の中で磨き上げ、離散値によって現実の物理現象を極限までエミュレートした、この世界における最高峰の結晶だった。ただの人間であれば、卒倒して崇めるレベルの聖なる計算結果だ。

 それを、この女は、ただ指先でなぞっただけで、デジタル計算の本質的な弱点を、連続体である宇宙の無限小を完全には処理できず、丸め誤差で誤魔化している近似に過ぎないという限界を、一発で見破って鼻で笑ったのだ。

 一族の結晶を、完全に否定された。

 だが、ニコラスの胸の奥から湧き上がってきたのは、怒りではなかった。

 

 俺たちの200年は、まだ無限小にすら届いていなかったのか。この世界で一番進んでいるのは、俺たちの計算機じゃない。この、目の前の女の頭脳だ。

 

 へし折られた驕りの破片の隙間から、ニコラスのエゴと執着が再び燃えた。

 ニコラスはゆっくりと立ち上がった。彼の顔には、一族の看板も、上席としての肩書きもすべて脱ぎ捨てた、一人の男としての、最高に獰猛で不敵な笑みが浮かんでいた。

 

「――ああ、そうだ、その通りだ、ソフィア」

 

 ニコラスは彼女の視線を正面から受け止め、デスク越しに自分の右手を力強く差し出した。

 

「今のこの不格好な近似計算機じゃ、君の頭の中にある本物の世界を描写しきれない。だから、俺はお前を雇ったんだ」

 

 ソフィアが、微かに目を見開く。

 

「俺は、このクソだらけの世界でロケットを宇宙へ押し上げたい。そして、世界中に衛星網を張り巡らせるんだ。お前の見るその無限小の宇宙の数式を、一ミリの誤差もなく限界なく実行できる巨大なシステムを、ここから作り上げてやる」

 

 ソフィアは差し出されたニコラスの手をじっと見つめ、それから、最高に傲岸で、美しく、楽しそうな笑みを浮かべた。

「いいわ。あなたのその不格好な計算が、私にどこまで追いつけるか見てあげる」

 

 パチン、と乾いた音を立てて、二人の天才の手が、夕暮れの計算室で力強く握り合わされた。

 

 

 

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