白色とトポロジー   作:朝凪小夜

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System; A_Star_3

 ソフィアが第3計算室に助手として配属されてからというもの、研究所の効率は目に見えて跳ね上がっていた。

 しかしそれはシステムが最適化されたことを意味しない。むしろ、全く異なる設計を持つ二つの回路が、一つの筐体の中で凄まじい摩擦熱を上げながら同期を試みている状態に近かった。

 

「…ソフィア。ここで記述を飛ばすなと言ったはずだ」

 

 夕暮れの光が差し込むデスクで、ニコラスはインクの乾ききらない数式の束を指先で激しく叩いた。彼の思考は、朝からフル稼働のままオーバーフローに近い熱を帯びている。

 ソフィアが大気境界の流体曲率を処理できると平然と差し出してくる数式は、相変わらずあまりにも情報を圧縮しすぎたネスト構造だった。彼女の頭脳という連続体の中では滑らかに繋がっている論理であっても、それをそのまま、真鍮の歯車と手編みの磁気コアメモリで動いている計算機へ落とし込めば、処理能力の限界を迎えて熱と共にストップしてしまう。

 

「なによ。論理の整合性は完璧。どこも破綻していない」

 

 ソフィアは椅子の背もたれに深く寄りかかり、不満げに尖らせた唇をペン先で突きながらニコラスを睨み返した。

 見た目には、ただの不機嫌な少女の態度にしか見えない。しかし、ニコラスは知っている。彼女がそうして傲然と言い返す時、その大きな瞳の奥では目まぐるしい計算が海の様に列をなしている。

 

「論理が正しくとも、物理の方にはスペックというものがあるんだ」

 

 ニコラスはこめかみを指先で押さえ、彼女のすっ飛ばした広大な行間を、自らの異常な脳内計算速度で一枚一枚展開し始めた。

 

「お前がたった一行で済ませているこの空間変形を、現在の地上の階差機関で実演算させようとすれば、何万回ものループ処理が発生する。ロケットが大気圏外へと急上昇していくあのわずかな秒数の中で、そんな重い計算タスクを実行してみろ。地上からの導通が追いつかなくなって、その瞬間に姿勢制御のハンドシェイクが切れるぞ」

 

「じゃあ、地上からの通信なんて最初から信じなければいいじゃない」

 

 ソフィアは鉛筆を机に転がし、鼻で笑った。

 

「遅延があるなら、ズレを最初から予測して、一回の通信パケットの中に必要な数理を限界まで圧縮して送り込めばいい。そうすれば、細い通信でもロケットは勝手に自分の位置を修正するわ」

 

「……先読みでの姿勢制御アルゴリズム、か」

 

 ニコラスの手が止まった。

 彼の脳内で、ソフィアの傲慢にも似た直感が、現実世界の摩擦や減衰、そして通信プロトコルの仕様へと波及していく。

 確かに、彼女の言う通りだ。地上と機体の間でリアルタイムな同期を求めるから、通信帯域の細さはそのままボトルネックになる。ならば、彼女の数理を予測マトリクスとして機体側に事前に置いておき、地上からは最小限の補正パケットだけを送り込む仕様に変更すれば、動的変化はすべて超低帯域でリアルタイムに相殺できる。

 

「…ソフィア。ここの第4項の曲率を、この通信でマージできる形式に書き換えるぞ。お前の計算を通信の規格に合わせる」

 

「勝手にすれば。その不格好な計算に合わせるの、すごく骨が折れるけれど」

 

 ソフィアはそっぽを向いて吐き捨てたが、その指先はすでに、ニコラスが提示した通信仕様の数式をなぞり始めていた。

 ニコラスが鉛筆を動かし、彼女のすっ飛ばした思考の歩幅に完璧な速度で並走し、時にはその暴走を冷徹に押し戻すバッファとなるたび、ソフィアのペン先は微かに震えた。

 世界で初めて、自分の世界に置いていかれず、それどころか完璧に並走してくる知性が、目の前にいる。

 ソフィアは口には絶対に出さなかったが、自分の孤独だった知性が、世界で初めて強固な回線で接続されたかのような、安らかな安堵感を、胸の奥底で確かに覚え始めていた。

 

 

「…以上の解読ファクトに基づき、我々は、次期ロケットの主推進部における刻印の配列を、古語文法規約に従って再配置すべきであると具申する!」

 

 研究所の大会議室には、大真面目な顔をした言語学者や古参の主任魔導師たちの、不毛極まりない大激論が響き渡っていた。

 高度を大気圏外まで飛ばすという次フェーズの過酷なミッションを前に、システム全体の仕様定義を固めるための全体会議。しかし、それら秀才たちの議論は、ニコラスから見れば、クソコードの押し付け合いに過ぎなかった。

 会議室の最も隅の席。ソフィアは完全に虚無の表情で、自分のノートの端に、ぐちゃぐちゃとしたインクの落書きを書き殴っていた。

 

「…なんであんなゴミみたいな文字の並びに、みんなで拝んでいるのよ」

 

 ソフィアが蚊の鳴くような声でノートの端に愚痴のデバッグログを零した瞬間、すぐ隣に座っていたニコラスが、手元の資料に目を落としたまま、周囲に聞こえないほどの低い声で囁いた。

 

「…意味不明なのは当然だ。あれは、…言語、じゃないからな」

 

 ソフィアがハッとして隣を見ると、ニコラスは冷徹な横顔のまま、ペンを動かしていた。

 

「…あの文字の並びはシステムを動かすための命令の概念そのものなんだ。あの学者たちは、その一つ一つの単語の意味を、辞書を引いて無理やり別の言葉に書き換えて喜んでいるだけだよ。構造を見ずに、ただのテキストとして崇めているから、いつまで経ってもその先にたどり着けない」

 

「え……?」

 

 ソフィアの大きな瞳が、驚愕に丸くなった。

 プログラム。命令の記述形式。

 言語という意思伝達ではなく、規則性を持った文字を正しく並べることで、物理層への命令をする構造として提示された瞬間、彼女の脳内にある防壁が、音を立てて崩れ去った。文字への嫌悪が、一瞬にして凶暴な好奇心へと翻訳されていく。

 

「…命令の、構造……。だったら、あの黒板に書かれている刻印の並びって、要するに……」

 

「ああ、そうなれば、お前の得意な領域だ」

 

 ニコラスは不敵に微悶(ほほえ)み、黒板の不毛な議論を指し示した。

 

「あの学者たちが大揉めしている刻印の命令文の本質を、君の頭が直感できる形式に翻訳しよう。……あれは、ロケットが加速した瞬間に発生する外側の流体のうねりを、どういうベクトルで相殺するかという、ただの三次元の境界条件の記述だ」

 

 ニコラスの耳元での言葉が、ソフィアの脳内へと侵入する。

 文字の影は消え、彼女の脳内に計算構造が浮かんでくる。

 ソフィアは、ガタ、と激しい音を立てて椅子を引いて立ち上がった。

 会議室の視線が一斉に隅の少女へと集まる。彼女はノートの落書きなど意にも介さず、傲然とした足取りで黒板の前へと歩み寄ると、大激論を交わしていた学者の手からチョークを毟り取った。

 

「そこ、退いて。その美しくないテキストを並べ替えるの、時間の無駄よ」

 

「な、何だね君は……!」

 

 ソフィアは一般人たちのノイズを完全に無視し、黒板に並んでいた刻印文字の羅列を、自らの方程式へと書き換え始めた。

 

「あなたがたが聖なる文法とか呼んでいるその並びは、ただ無駄に計算して時間を使うだけ…。…むしろ、こっちの計算そのものを刻印に置き換える方が良い。…これで、どんな高度に達しても」

 

 ソフィアはチョークを放り投げ、顎を引いて面々を見下ろした。

 黒板に描き出された圧倒的な世界。誰もが声を失ってただ見上げている。

 ニコラスだけが、顎に手を当てて最高に不敵で傲慢な笑みを浮かべていた。

 

 

 深夜。

 ニコラスは、大気圏外到達用の姿勢制御システムの最終仕様書を前に疲労を抱えていた。計算速度、通信帯域、制御精度、どれだけ修正してもまだ綻びの一端が視界から消えてくれない。

 ふと、隣のデスクを見ると、ソフィアが椅子の背もたれに小さく丸まって座っていた。自分の膝を抱え込むようにして、連続用紙の数値を睨みつけている。その姿は、昼間の傲然たる女王の佇まいとは一転して、まるで暗闇に取り残された孤独な子供のよう。

 ニコラスは、深くため息をつき、デスクの引き出しの最奥に手を伸ばした。

 静かな音を立てて、二つのガラスグラスに琥珀色の酒を注ぐ。

 ニコラスは、そのうちの一つのグラスを、ソフィアの目の前へと滑らせた。

 

「……なによ、これ」

 

 ソフィアは膝を抱えたまま、怪訝そうにグラスを見つめ、それからボトルのラベルへと視線を移した。

 

「これ……ヴィッセンのブランデーじゃない。…高いんじゃないの?」

 

 ソフィアが大きな目を丸くして、本気で戸惑ったように問いかけてくる。

 ニコラスは、その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた肩の力を抜き、心の底からおかしそうに低く笑い声を上げた。

 

「くく……、はははは!」

 

「な、何よ。私が貧乏人だからって笑ったの?」

 

 ソフィアは顔を真っ赤にして、椅子の上の体をさらに縮こまらせた。

 

「違う、そうじゃないんだ、ソフィア」

 

 ニコラスは目元を拭い、琥珀色のグラスを揺らした。

 

「君は、俺の名前と、この酒のブランドが、一致していることに……今まで気づかなかったのか?」

 

「え……」

 

 ソフィアは凍りついた。

 ニコラス・ヴィッセン。

 瓶の側面にかかれているのもヴィッセン。

 論文誌ペーパー・イーに綴られた発行者もヴィッセン。

これまでの違和感が一斉にガチガチと音を立てて繋がっていく。

 なぜ、この研究所が存在しこれだけの計算機があるのか。なぜ、あの出版社がいくつのも論文雑誌を抱え出版できるのか。なぜ、このニコラスという男は、自分が何年も一人で孤独に見つめてきた空間の歪みを、一瞬で理解して並走できるのか。

 

「あなた、たち……って、一体……」

 

「言ったろう。今のこの不格好な近似計算機じゃ、君の見る景色を描写しきれない。……俺たちの200年の結晶すら、君の知性には届いていないんだ」

 

 ニコラスは静かにグラスを口に運んだ。

「だから、俺は君のその本物の知性に、俺たちの機械を、俺自身の知性を、どうしても追いつかせたい。俺自身が、君の見るその綺麗な世界を見てみたいんだ」

 

 ニコラスの偽りのない独白が、計算室の静寂に融けていく。

 ソフィアは、膝を抱えていた力をゆっくりと緩め、手渡されたグラスを小さな両手で包み込むように持った。冷たい琥珀色の液体をそっと口に含む。梨の芳醇な甘みと、熟成の深い熱量が、彼女の喉を滑り落ちていった。

 

「……バカじゃないの」

 

 ソフィアはグラスの縁に唇を隠したまま、ぽつり、と呟いた。その声は昼間のものではなかった。

 

「…ずっと苛立っていたわ。夜に望遠鏡を覗いて、近日点のズレを計算して、世界はなんて美しくない計算で満ちているんだろうって。教授たちに見せても、ただの観測誤差だ、気にするなって。…私だけが異物みたいで……すごく、寒かった」

 

 夜明けはまだ遠く、窓からの月と星の明かりが部屋を照らしていた。

 

 

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