地鳴りは足元の石畳を伝ってニコラスの骨の髄へと送り込んでくるように響いていた。
王立ロケット研究所、制御室。
分厚い防護ガラスの向こう、射点に直立する鉄の怪物は、もはや夕暮れの佇む無機質な筒ではなかった。主推進部から噴き出す凄まじい魔導燃料の白煙が、地を這う嵐となって周囲を白く染め上げている。
技師たちが点火のレバーを引き絞った瞬間、気圧が急激に下がったかのような錯覚をニコラスは覚えた。
ズ、と。巨大な質量が、ついに重力を破って垂直方向へと上昇を開始する。
真鍮の歯車が噛み合う階差機関が狂ったようにノイズを立て、磁気コアメモリのステータスランプが激しく赤と緑に明滅を始めた。
「高度四千! 流体抵抗、予測値を上回る速度で上昇中! 機体に傾き検出!」
「階差機関、補正の算出を急げ! 通信が追いつかなくなるぞ!」
オペレーターたちの悲鳴が響く。ロケットが大気圏を突き抜けるべく加速するにつれ、機体表面が受ける空気抵抗は激変し重心の変化も相まって機体を激しく震わせていた。
失敗。その2文字が頭をよぎる。緊張と怒号の中で嫌に冷えた言葉だけがそこにある。
しかし
「…平気だ」
たった2人だけがその喧噪の中で静かにたたずんでいた。
赤く染まりかけたステータスランプはいつの間にか緑の点灯、正常稼働の証左へと引き戻された。
「……ブレない。機体が、自分で傾きを修正している…」
主任技師が、吐き出される紙テープを凝視したまま呆然と呟いた。
ニコラスは、隣に立つソフィアを見た。彼女はいつものように顎を引き、他者を見下ろすような姿勢のまま、窓外の鉄の怪物が描く白い軌跡をじっと見つめていた。
轟音は次第に遠ざかり、垂直の空へと消えていった。
誰もが高高度弾道ミサイルの実験成功だと抱き合って歓喜の声を上げていたが、ニコラスにとって、それはただの通過点でしかない事を理解していた。
大気圏の果て、第一宇宙速度の暗黒の宙域でロケットの先端が静かに射出される。
内側にカプセル化されていた、一族の最高技術の結晶、1基目の人工衛星が、静かに軌道上へと撃ち出された。それは後続とのリンクを獲得するための待機状態へと問題なく移行し、地上へ向けて、誰も見たことのない未知のデータの送信を開始した。
深夜。研究所の最奥。
そこは、研究所の誰であっても立ち入ることを許されない、ただケイとニコラスしかアクセス権を持たない秘密の部屋。
ニコラスはその秘匿を破り、ソフィアの手を引いてその重い扉を開けた。
「……なによ、ここ。不気味…」
ソフィアは周囲を見回し、怪訝そうに眉をひそめた。
昼間の第3計算室にあったような、油の匂いも、巨大な真鍮の歯車にその音もここには一切存在しない。ただ、いくつかの金属製の筐体が、まるで無言の墓標のように暗闇の中に並んでいるだけだった。
「ここから先は、一族の秘中の秘だ」
ニコラスは冷徹な手付きで、中央の筐体のレバーを倒し、いくつかのスイッチを弾いた。
かすかな低周波の駆動音が室内に満ちる。真鍮の歯車ではなく、純然たる電子の移動によって演算を行うこの世界における完全なる異物が目を覚ました。
次の瞬間、ソフィアの目の前にある黒かった板が、荒い緑色の光を放った。
表示されたのは文字列の並ぶ味気ない帳票ではない。線と記号が画面上を蠢くウィンドウシステムだった。スクロールするたびに緑色の残像が尾を引くその画面を前に、ソフィアの指先がピクリと跳ねた。
「…これは、空間の構造をそのまま、直接画面に描画しているの……?」
「ああ。…デジタル計算機によるグラフィカル・インターフェースだ」
ニコラスはモニターの光に顔を照らされながら、どこか誇らしげに言った。
画面の中央には、昼間に打ち上げられた1基目の衛星から、通信を介して送られてきた最新のデータが展開されつつあった。行単位でゆっくりと、極めて遅いクロックでピクセルが上から塗り潰されていく。
そこに描かれようとしていたのは、湾曲した大地の輪郭。宇宙から見下ろした、この惑星の本当の姿だった。
初代カイが知識として遺し、祖父ジョセフが真空管の熱の中で夢見ながらも、ついにその網膜に映すことのできなかった、世界。
ニコラスはソフィアの横顔を見つめた。
「世界でも、そして一族以外の人間が、この画面を見るのは君が初めてだ。どうだ、ソフィア。これで、いま初めて本物の世界の姿を…」
「……でも、まだずっと粗い」
ソフィアの静かな呟きが、ニコラスの言葉を遮った。
ニコラスは息を呑んだ。
ソフィアは緑色の光を放つ液晶画面に、顔が触れそうなほどに近づいていた。その大きな瞳は、宇宙からのデータが描く地球の姿に完全に魅了され、激しい感動に揺れ動いていた。
画面に映し出されている青い惑星の姿はまだ半分程度の描画。人工衛星側で保持した莫大な画像データを転送するには地上の受信アンテナとを結ぶ通信のパイプがあまりにも細く、画面の下半分は不気味な暗黒の空白のまま停止している。
それだけではない。描画されている地球の美しい曲線も、滑らかな連続線ではなかった。ソフィアがその指先で液晶の表面をなぞる。そこにあったのは、階段状にカクカクとした四角いドットの連なりであり、極限の円とは違っていた。
「……本当に、すごく綺麗。でも、まだずっと粗いわ」
ソフィアは画面に触れた指先を見つめ、ひどく静かに、口惜しそうな声音で呟いた。
「私の頭の中にある世界も、本当の世界も、もっと、ずっと滑らかで綺麗なのに。…でも、まだこれだけしか見えない…」
それは他者を蔑むための傲慢さではなかった。
初めて見る世界の真実に魂を揺さぶられながらも、己の信じる世界に対して妥協することを拒絶した純粋すぎる渇望が融け込んだ言葉。
200年の結晶、その物理的な限界を、彼女はただ一言で切り捨ててみせた。
「…ああ、その通りだ。今はまだ粗い。通信も細いし、この空も海も半分だって描けない」
ニコラスは隣に立ち、緑色のドットが明滅する画面の数値を指差した。
「だが、これはまだ、ただの1基目だ。これから残りの衛星を打ち上げ、リンクを確立したその通信を利用して、俺たちは天空から直接に空間の曲率測定を実行する」
ソフィアが、ハッとしてニコラスを振り返った。
「空間の曲率、そしてそこから必然として導き出される時間の遅れだ」
ニコラスはソフィアの瞳をまっすぐに見つめ、一族の歴史の最奥に眠る、最大の知識を言葉にして叩きつけた。
「この世界は、時間さえ絶対じゃない。衛星の時計と、重力の底にあるこの地上の時計とでは、時間の進み方そのものが歪んでズレていく。……ソフィア、君の書いたあの方程式は、このネットワークによって、その時間の遅れとして完全に実証されるんだ」
「時間の……遅れ……?」
ソフィアは息を呑んだ。
彼女は空間についての幾何学までは自力で記述していたが、その結果として時間そのものの進み方までがグロテスクに歪むという現実の変化には、まだ明確な数式を与えきれていなかった。それが、単なる紙の上の数数パズルではなく、現実に、この物理層にやってくるという予測と真実。
「数式と論理だけの美しく閉じた世界じゃない。現実に、それが俺たちの目の前にやってくるんだよ。……実は俺たちも遺産によって、時間さえ歪む空間曲率の方程式の存在を、知識としては知っていた。だが、それを証明する手段を誰も持たなかったんだ」
ニコラスは液晶モニターの放つ荒い緑色の光の中で不敵な笑みを浮かべた。
「俺たちが200年かけても陽の目を見せられなかった未完が、君の知性と、この衛星によって、ようやく現実になる。時間さえ絶対ではないという世界の夜明けが、もう、すぐそこに来ているんだ」
ソフィアは、液晶の緑色の白光に照らされながら、言葉を失って画面の数値を凝視していた。
自分が一人きりの薄暗い研究室で、世界が美しくないと苛立ちながら記述してきた近日点移動の方程式。それが、一族の歴史の最奥と接続し、世界の絶対すらも崩壊させる真実へと繋がり、いま上空の鉄の怪物によって現実に形を得ようとしている。
画面にはまだ半分程度しか描画されていない星の姿。粗いドットの階段。しかし、その画面を見つめる二人の瞳にはその先の世界の新しい姿が、像を作り始めていた。