あのコンロの課題提出から数週。
講義は、少しずつ、確実にその難易度を上げていた。
「……今日の魔力流束の理論と制約は、ちょっと面倒な感じだな」
講義室を出て、教科書を小脇に抱えながら独白する。
二年生、三年生と進むにつれて、刻印の記述量そのものが増えていく。同時に刻印そのものの記述はわからなくても測定やその利用での理論化も普通に存在する。
周囲の学生、特に同じ平民出身の連中は暗記量が多すぎると悲鳴を上げているが、俺にとっては前世のちょっと難しくなったオブジェクト指向の講義程度のものでしかない。
これでも前世では大学まで行った身、高校数学程度の話なら不自由を覚えはしない。定義さえ覚えておけばどうにかなるものであった。
それでも表面上は、今まで通り。要領はいいが、実技は人並み以下の不器用な平民。俺の頭の中にある認識も、そして周囲から見られている評価も、ちょっと優秀に見えて総合的にはそうでもない、その程度の存在として、擬態を綺麗に維持できているはずだった。
彼女を除いては。
最近、アリアの様子がどうもおかしいと感じることがある。
食堂で顔を合わせる度、彼女はどこか上の空で。
話を聞けば、実技の課題はこれまでと変わらずすべて最高評価。だが、彼女の灰色の瞳は、授業で扱う型通りの古い刻印にはこれっぽっちの興味も示していなかった。
いや、知ってしまった。
濁りのない合理的なコアとその隠蔽領域という、自由と制約の重ねの愉悦を。
嫌な予感がなかったわけではない。事実彼女は、あの実験と提出の以降で、俺の書いたコードの構造をベースにして、自室と実習室に引きこもり色々と実験を繰り返していたらしい。売り物にして表に出せば即座に刻印の新たな可能性として広まってしまうため、それらは全て彼女の部屋のクローゼットや床下に、ある種の隠し資産として保管されている、らしい。
そして、それらの手持ちのコンロ用の刻印の書き換えにも、そろそろ飽きが来ている。
今の彼女は、次なる新しい玩具を欲している。少なくとも、俺の目にはそうとしか見えない、またあの狼に似た、飢えた獣のような行動を取り始めていた。
話してもその言葉には違和感はない。だが、時折、彫刻刀を指先で狂ったように回しているのだ。その時に視線がぶつかることもままある。
気配を消しながら、その視線を躱そうとし続けた。
おそらくだが幸いにして、彼女は俺が偶然のひらめきで一回だけ刻印を直せたものと思っている。それもコンロ用の刻印こそ解読こそしているが、まさか英語そのものがほぼ完全に読めて、かつ前世のプログラミング知識が山ほどあることまでは察していない。他の全ての刻印にすら可読の可能性があることも。
だから今回も、ただの偶然、ラッキーの産物として押し通すつもりだった。
だが、潜伏できたのは、違和感ですんでいたのはそこまでだった。
幾度目かの休日。男子寮の自室で、次講義の予習をしていた時だ。
ノックの音すら鳴らさず、勢いよく扉が開け放たれた。
「やあ、相棒。休みの日に邪魔するよ」
現れたのは、暗めの赤髪を少し乱したアリアだった。
記名をどうしたのか、少なくとも倫理風紀の網を突破してきた彼女の手には、一枚の羊皮紙。そこに書かれているのは、研究室からか、あるいは実家の秘蔵品か、今までに見たこともない、随分と大掛かりな刻印の写しだった。
彼女は有無を言わせぬ速度で机に突進すると、俺の教科書の上にその羊皮紙を叩きつけた。
「……おい、何だよ。ノックくらいしろ。それに、これ、何の刻印だ?」
「うちで使っている、照明用の魔道具の記述だよ。部屋全体、ちょっと調整すれば大通りでも照らすために使える可変出力のやつ。……多分だけど、これもほとんど要らないことが書いてある気がする、違うかい?」
アリアは机に両手を突き、俺の顔を覗き込んできた。瞳の奥の沼が、ギラギラと妖しく波打っている。
「君なら、これが読めるだろう? ほら、前みたいに、この汚い文字の集合を綺麗に並べ替えてみてよ」
「……嫌だね。何で俺がそんなリスクを冒さなきゃいけない。大体、女子が男子寮の個室に入り込んで、こんなもんを突きつけて……完全に脅迫じゃないか」
椅子の背もたれに体を預けながら、精一杯の拒絶の視線を。
しかし、彼女は一瞬だけ呆気に取られたような顔をした後、またくつくつと喉を鳴らして、あの小悪魔の笑みを浮かべた。
「人聞きの悪いことを…。…脅迫、だって? 違うよ、私はただ、探求の徒に協力しているだけだよ?」
協力。その言葉の響きが、どれほど強制的で逃げ場のないものか。
ここで断れば、彼女はまたじゃあ一人で適当に彫って爆発させるねと笑うだろう。そして、彼女の部屋に隠されているという改造の痕跡をこれでもかと残した刻印と魔石の山が万が一見つかった時、共犯者である俺が無傷でいられるはずがなかった。
それにここにいる時点で叫んでしまえば俺そのものの終わりだってありえる。
その警戒すらわかっているのだろう。どうやっても、避けられない。
俺は深いため息をつき、両手で顔を覆って天を仰いだ。また、胃の奥が灼けるように痛みだす。
「……分かった、分かったよ。ただし、今回も条件はほぼ同じだ。本体のロジックは綺麗にするが、周りはバラバラにした元の不要部分で難読化して、分量を増やす。だが、今回は出力の向上は一切しない。いいな?」
ペンを握り直す俺の横で、彼女は嬉々として手持ちの彫刻刀を取り出し、指先で回し始めた。
平穏を維持したいという俺の願いは、彼女の手によって、またしても開発の沼へと引きずり込まれていく。