汚泥の花   作:ゆゆみみ

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第29話 重なり合う時

 

 ──そして数ヶ月が過ぎ。

 

『えと、エレナさん。ぼ、僕と、付き合って、ください……』

 

 僕らは恋人同士となった。

 

 エレナの根気に、そして健気さに負けたともいえる。毎日声を掛けられて、ある時からは毎日お弁当を持ってきて。その繰り返し。

 僕は罪悪感とのせめぎあいの中で、結局は安寧を、癒しを取った。やはりそれは妹への裏切りになるのだろうか。その想いが、後悔が、消えない。

 

「蓮、今は何も考えずにゆっくりと休むといい。何を考えるにも休息が必要だよ、今は」

 

 そんな時、決まってエレナは僕の頭を撫でる。愛おしそうに、優しげな手付きで。休息、それが今の僕に必要なものなのだろうか。僕はそれほどまでに疲弊しているのだろうか。

 

 自分では、何もしていないのに?

 

 分からない。

 

 付き合ってからも僕らは変わることなく、放課後に寄り道をしていた。主にエレナが喋っていたが、少しずつ僕も笑顔が増えてきたように思う。恋人らしいことはしていなかったが、その距離感が今の僕にとってはありがたかった。

 

 そうして交際してから一ヶ月半ほどたった頃だろうか。六月も半ばに差し掛かる頃、遊園地に行こう、という話になった。僕にも、エレナにとっても、初めての場所。いつもの放課後の寄り道とは違う、デートらしいデート。僕は緊張すると共に少し、いや、随分と浮き足立っていた。

 

 

 

 その日は、朝から強い雨が降り続いていた。

 

 折角のデートなのに、と肩を落としつつ駅前に三十分ほど前に着く。待ち合わせのモニュメントの前には、まだエレナの姿は無かった。

 

 改めて自分の服装を見る。黒のスラックスに紺色のシャツ、比較的地味な服装だがエレナに先日選んでもらったものだ。金銭的には余裕があるわけではなかったが、エレナがプレゼントと称して幾つかの服を選んでくれた。当然僕は抗ったが、結局はエレナに押し切られてしまった。遊園地代まで出そうとしていたから、さすがにそこはそれぞれで支払おうということにしてもらった。その交渉すら、なかなかに難儀したのだが。

 

 そんなことを考えていると、ふと、背後から雨の香に混じって花の匂いがした。振り返ってみると、モニュメントの根元の露出した地面に、小さな黄色く丸い花があった。しゃがみこんで眺めてみる。匂いの元はこれのようだ、なんという花なのだろう。

 

「──それはヨモギギクだね。本来は夏に咲く花だから時期が少し早い。最近暖かいからかな?」

 

 背後からの声に振り向くと、エレナがその金髪を耳に掛けて上半身を屈めていた。

 

 水色のワンピース姿、同色の傘。シンプルな白色のバッグを肩から提げている。胸元にはアクセントとして、ハート型のアクセサリーの着いた細い銀のネックレス。そして、爽やかな香りが花の香りを打ち消す。エレナの、清楚な面を押し出した服装だった。きっと何を着ても似合うのだろうが、いつもとは違った雰囲気につい見蕩れてしまっていた。

 

「ああ、見蕩れているのかい? ま、気合いを入れてきたから、そうでないとね」

 

 身を上げたエレナは毛先をかきあげ、不敵な笑みを浮かべる。謙遜をしない辺りがエレナらしくもあり、僕は小さく笑みを浮かべて立ち上がる。

 

「……よ、よく似合ってるよ」

 

「だろうね。さて、早速で済まないが、やはり遊園地ではなく水族館にしないかい? この天気だろう? ……それに、遊園地はやはり二人だけで行きたいからね」

 

 最後の方は雨音でよく聞こえなかったが、突然の計画変更も僕には異論はなかった。

 

「水族館なら二駅で着くよ。さぁ、行こうか」

 

 そう言ってエレナが片手を差し出す。その意味は直ぐに分かった。どうせ僕が動かなくても無理矢理手を取られるのだろうが、今日は自分から握った。エレナが満足気に頷く。その手の温かさは、やはり僕に安心を与えるものだった。

 

 電車に乗り、二つ先の駅で降りて、水族館までは十五分ほど歩いた先にある。その間も、普段と同じように積極的にエレナが話題を振ってくる。

 

「ねえねえ、蓮は犬と猫どっちが好きだい?」

 

 犬と猫、どうだろうか。どちらも飼ったことはなく、よく分からなかった。

 

「んー……どっちも可愛いと思うかな」

 

「そっか。私は犬が好きだよ、従順だから。犬を飼ったことがあるわけじゃないけど。反対に猫はあんまり好きじゃないかな、きまぐれだから」

 

 にっこりとエレナは笑う。確かに猫は気まぐれなイメージがある。

 

「ねえねえ、蓮はロボットとお人形遊びどっちをしてた?」

 

「えっ……あぁ、プラモデルとか、少し作ってたかな」

 

 過去を思い出して、ちくりと胸が痛んだ。

 

「そっか、男の子だもんね。私はお人形遊びが好きだよ。人形って綺麗な顔をしてるでしょ? それを自分の好きなように着せ替えられるから」

 

 エレナは満面の笑みを浮かべる。細められた目。全身を舐め回すような視線が這ったような気がして、ぞくりとした感覚を覚える。

 

 

 

 そんな会話をしているうちに水族館へと辿り着く。ここに来て、エレナが再び僕の分のチケットを買おうとしていたのを慌てて止めた。

 

 入口を抜けた先は、透明なトンネルになっていた。頭上と左右で、キラキラと光を反射させながら、様々な魚達が自由に泳いでいる。今、目の前を集団で泳いでいったのはイワシの群れだろうか。

 

「わぁ……」

 

 以前に水族館に行ったのは、それこそ十年は前のことだ。記憶にもほとんど残っていないために、新鮮味のある感動の方が大きかった。何かに心を動かされるのは久々のことだった。

 

 水族館は広い。

 様々な魚類に加えて、ペンギンやラッコやアシカなど普段は目にすることの無い生き物たちに、僕は目を輝かせていた。そんな僕を、エレナは一歩引いたところから眺めていた。生き物、というよりも、それを見る僕も含めた景色を見ているようだった。

 

「見てみなよ、蓮。タコって裏側からだと結構気持ち悪いね」

 

 エレナに袖を引かれて水槽の中を覗くと、張り付いた吸盤と真ん中に位置する口が見えた。普段は食卓で足の部分しか見ることがないからか、それは化け物といっても過言では無い見た目だ。火星人がタコのように描かれるのも、分からない話では無い気がする。

 

「うんうん、段々と表情が増えてきたね。良い事だよ」

 

 微笑ましげに見つめられ、僕はなんとも言えない恥ずかしさに襲われた。表情が増えてきたのは間違いなくエレナのお陰だ。少しずつ、僕は癒されているのかもしれない。

 

「それにしても残念だったね、イルカショーは」

 

 そう、イルカショーは雨天のために中止となってしまっていた。予め分かっていたことではあったが、水族館と言えば、というものであったためにどうしても落胆は残る。ただ、()に来た時だっていい。

 

「ちょっと、御手洗に行ってくるね」

 

 そう言ってエレナは僕の元を離れていった。僕は何をするでも無く、その場に立ったまま周囲をぼんやりと見ていた。周囲の喧騒が、先程までよりも大きく聞こえる。カップル、家族連れの姿が見え、その話し声が聞こえてくる。

 何となく、迷子になってしまった子供のような気持ちになった。

 

 ──拠り所のない、孤独。

 

 僕は前よりも更に弱くなったような気がする。元々からして、そう強くはなかったというのに。これ以上弱くなったらどうなってしまうのか。

 そう考えた時、不意に視界が真っ暗になった。誰かに背後から目を塞がれたらしい。爽やかな柑橘系の匂いがした。

 

「だーれだ?」

 

「……エレナも、そんなことやるんだね」

 

「まあまあ、やってみたくなったんだよ」

 

 声を聞くまでもなく、エレナだと分かった。途端に周囲の喧騒が小さくなり、僕とエレナの二人だけの世界に戻る。しかしまだ、目を覆う手は離れない。

 

「ねぇ、蓮。私の作る暗闇は心地良いかい?」

 

「えっ?」

 

 不思議なことを、聞かれた。

 どうなのだろう。暗闇は本来怖がるべきものだ。しかし今はどうだ。周りが見えている時よりも寧ろ、安心している。それはエレナだけを感じているからだろうか。

 

「心地良いよね? 蓮は私を信頼している。何も見えない闇の中でも、私が手を引いていれば迷いなく着いてきてくれる」

 

 耳元への囁き声(ウィスパーボイス)

 

「……うん」

 

 想像した。その通りだ。エレナのことは、それだけ信頼している。

 

「……あのさ、知ってる? チョウチンアンコウってさ。オスは交尾した後にメスと同化するんだって。栄養補給とか全部メスに依存するらしいよ」

 

 突然話題が変わる。想像した。徐々に吸われて、一体化して、無くなっていく。自分が、消滅していく。

 

「それはちょっと怖──」

 

「幸せの一つの形だと思わない? メスがオスを全部支配するって。メスの全てがオスを生かしてるんだよ? まぁ、最後には生殖器以外は全部吸収しちゃうらしいから、それは頂けないけどね」

 

 僕の言葉を、エレナは可憐な笑みを浮かべて遮った。

 

「……それは置いといてさ、蓮。君は自分から何か行動することを怖がるよね? そして、思考を止める癖があるよね?」

 

「そっ、それは……」

 

 僕の本質を射抜く言葉に、身が強ばり言葉が詰まる。

 僕が僕を嫌いな理由。この後には、一体どんな言葉が続くのだろう。

 僕はただ、それを待つことしか出来ない。

 

いいんだよ(・・・・・)、それで。前にも言ったろう? 蓮は何も考える必要は無い。私が導いて、幸せにするから」

 

「でも、それは……」

 

 それが、あの悲劇に繋がったのではないだろうか。

 また、同じことの繰り返しなのではないだろうか。

 

「そもそもね? 元々の性格もあるかもしれないけれど、蓮がそうなったのは妹さんのせいだ。彼女が、君の心身の自由を奪った。……君はドメスティック・バイオレンス、そしてモラル・ハラスメントの被害者だ。される側の人間は、行動を、思考を、抑制されやすい。何故か。それは、自発的に行動すると罰せられる可能性があるから。何もしなければ、余計なことをしなければ、言うことを聞いていれば、苦痛は最小限で済む。そうだろう?」

 

 確かに一理あるのかもしれない。

 僕は妹が怖かった。家族だけど、怖かった。おかしいとは思った。けれど、指摘なんて出来なかった。ただ震えることしか出来なかった。

 

「そして、蓮は受動的な人間になった。自ら動けない人間になった。だからさ、あの時警察を呼んでくれたのは嬉しかったんだよ」

 

 確かにあの時、僕は必死だった。

 必死で、必死で、自ら警察を呼んだ。

 

 ──呼んだ? 呼ぶしかなかった(・・・・・・・・)のではなく?

 

 あの時、僕は真っ先に動いたか?

 違う。周囲の人々に頼って、それでも駄目で、だから、それで。でも、それなら、僕は──

 

「……でも、もう何も考えなくていい。どんな暗闇のなかでも私が手を引いていく。私が決める。蓮は私についてくればいいんだ。苦しませることなんて、絶対にしない。幸せにする。安らげる場所になる。私になら、それができる。私にしか、それは出来ない」

 

 それは天使の囁きか。

 それとも悪魔の甘言か。

 

 いずれにせよ、エレナの言葉は僕の求めているものであることは確かだった。何度も繰り返されてきた言葉。

 

 僕はもう、何かを考えることに、何かをすることに、疲れていた。怯えきってしまっていた。そんな自分を嫌だと思いながらも、もう、何も考えたく無かった。

 

「さぁ、蓮。最後に一つだけ、自らの手で選択を。……この手を取って。君を幸せにする、この手を」

 

 視界が、開ける。

 僕の前方に回ったエレナが、僕に手を差し伸べる。

 僕はその手を取ろうと手を伸ばし──

 

 

 

 

 ──「兄さん」という妹の声が脳内に響いた。

 

 

 

 

 僕の手が、止まる。

 

 そうだ、陽向(ひなた)。僕の大切な家族。怖くとも、たった一人の家族。彼女を放って、僕だけが一人救われようというのか。

 

「……そう、そうか。やっぱり、優しいね。君は」

 

 まるで初めからそれが分かっていたかのように、エレナは微笑んだ。

 

「うんうん。やっぱり順番なあるもんね。まずは陽向(ひなた)ちゃんを救わないと」

 

 エレナの目が細められ、口元が薄く弧を描く。

 前にも話していた、『陽向(ひなた)への救い』。それは一体何なのだろう。

 

 僕には、それが分からない。どうしたら妹を救えるのか、僕には分からない。考えてすら、いないのかもしれないが。

 

「どうやって、救うの……?」

 

「そんなの、一つしかないさ。その機会(チャンス)は、間もなくやってくる。きっと、もう、直ぐにでも」

 

 僕は首を傾げるしか無かった。既に考えることを放棄していたのかもしれない。ただ、エレナの言う通りにしていれば、全てが上手くいくような気がしていた。エレナは、そういう存在なのだ。いつだって、そうだった。きっと、今も。

 

「さて、そろそろ出ようか。行こう、蓮」

 

 僕の返事を聞かずにエレナは歩み始める。僕はその背中を追いかけた。その表情は、当然見えない。しかし、何か薄ら寒いような感覚がした。

 

 

 

 

 

 雨は、変わらず強いままだった。寧ろ、より強まったような気がする。エレナの横に並んで駅への道を共に歩く。

 

 ふと、背中に視線を感じた。

 

「振り向かないで。次の角、ビルの間に入るよ」

 

 正面を向いて歩みを止めないまま、談笑をするかのようにエレナが言った。ただならぬ気配を感じて緊張にじんわりと汗が滲むが、挙動不審に見えないように気をつけながら、言われた通りに曲がってビルとビルとの間に入る。コンクリートで舗装されておらず、足元には泥水が溜まっていた。泥が跳ねる。奥は行き止まりになっている。袋小路。隣から舌打ちが響いた。

 

 背後から聞こえていた足音が、僕らの後ろで止まる。

 

 エレナと共に後ろを振り向くと、そこには見知らぬ長身の女が、黒い傘を差して立っていた。

 

 軽くウェーブのかかった亜麻色のショートヘア。ワイン色のシャツに黒のタイトスカート。細身の体で顔立ちは綺麗だが、そこには薄気味悪い笑みが張り付けられていた。

 

「こんにちは、蓮くん、エレナちゃん。……嗚呼、こうして近くで見ると、どちらも実に可愛らしい。うんうん、眼福だねえ」

 

 こちらは初対面にも関わらず、向こうは一方的にこちらのことを知っているようだった。エレナが流れるような動作で肩から掛けたバッグから何かを取り出す。黒いリモコンのようなもの。

 

「おや? 今どきの女子高生はそんな物(スタンガン)なんて持ち歩いているのかい? いやはや、物騒な世の中になったものだねえ。怖い怖い」

 

 女は飄々とした態度を崩さず、笑みは歪んだものとなり、その瞳には好奇と愉悦の光が浮かんでいる。

 エレナと僕は無言のまま、徐々に後ろへと下がっていく。背後が行き止まりだと分かっていても、得体の知れない相手から少しでも距離を取っておきたかった。

 

「そんなに怖がらないでくれよ。おねーさんの役目はここで終わりさ」

 

 女は腕で傘を挟んで支えると、今日にシャツの胸ポケットからくしゃくしゃの煙草のパックを取り出し、取り出した一本に火を付けてゆっくりと煙を吐き出した。

 

「……さて。後は若い者同士で、ってね。じゃ、そゆことで。ばいばーい」

 

 最後まで飄々とした態度を崩すことなく、最後まで愉しげに口角を吊り上げながら、煙草を挟んだ手を軽く振ってから去っていった。

 一体、何だったのだろうか。

 

「共謀者ってところかな。さて……」

 

 エレナだけは一人納得したように呟いてからスタンガンをバッグへしまう。しかし、警戒はまだ解いていないようだった。

 

 不意に、雷が鳴った。轟音と稲光に目を細める。

 

 その後。

 

 

 

 

 ──先ほどまで女が立っていた場所に、誰かが立っていた。

 

 黒いレインコート。フードを被っていてその顔は見えない。けれど、その姿を見た瞬間に僕には分かった。見間違えるわけがない。大切な、家族なのだから。

 

「ひな、た……?」

 

「はい、兄さん。会いたかったです」

 

 レインコートのフードが外される、雨に濡れるのは気にしないようだった。その下から現れたのは、紛れもなく僕の妹。あの日から、その姿は全く変わっていない。僕に向けて、どこか恥ずかしそうな笑みを浮かべている。

 

 何故。という疑問の前に、再び妹に会えた嬉しさが勝った。やはり、家族なのだ。やはり、大切な存在であることに変わりはない。

 

「駄目」

 

 僕が何もしない内から、エレナは一歩前に出て、片腕を僕の前に出して制止する。

 

「東雲っ、エレナぁッ……!」

 

 妹の形相が変わっていく。怒りの表情、睨みつけるその眼差しには、溢れんばかりの憎悪が篭っている。そのあまりの気迫に、僕は無意識に一歩距離を取る。

 

「あっ、兄さん……」

 

 妹が片手を伸ばして悲しげな表情を浮かべた。僕は、妹にそんな表情をさせたい訳では無かった。

 

「駄目」

 

 再び一歩前に出ようとするのを、エレナの怜悧な声が止める。僕の体は命じられるまま動かなくなる。

 

 再び、稲光が周囲を照らした。近くに落ちたのか、耳朶を叩く轟音と眩しさに体を跳ねさせて目をぎゅっと閉じる。そして、ゆっくりと目を開く。

 

 二人とも先程の場所から一ミリとも動いておらず、雷に動揺した様子など欠片も見られなかった。

 

「……兄さんを、取り戻しに来ました」

 

 妹が淡々と言い放つ。

 

「あれぇ? 取り戻す、ってことは、蓮は私の物だってことだよねぇ? 妹公認かな?」

 

 エレナは愉しげに言い返した。

 

 ──僕はただ、二人を見つめていることしか出来なかった。

 





次回が最終話となります。

『主人公』とは物語の中心人物であり、動的(・・)な存在。窮地に陥っても、その問題を打破できる存在だと思っています。
そして、この歪な物語の中心にいるのは、間違いなく『蓮』です。
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