2020年6月19日、午前11時。
煌々とした太陽が、白い漆喰の壁と俺の肌を焼いている。
「
対照的に、冷湿で埃や黴の匂いが漂う蔵の中から、犬飼が骨董品の山の影から現れた。
彼は丁度一辺三十センチメートルほどの、酷く乾いて萎びた木箱を抱えている。
「それは……」
その箱は、一見すると古びた木箱にすぎないだろう。
だが、力ある者が視たならば、一目見て呪物であるとわかる代物。
鎮めるにも、破壊するにも、"この手"でしっかりと検める必要がある。
などと考えた拍子に、嫌な予感が背筋を冷ややかに撫で上げた。
何事かと思考の水底から浮上して犬飼を見れば、蓋を開けようと爪で箱の四方を引っ掻いている最中であった。
「犬飼、止まれ」
様子のおかしい犬飼に向けて、やや強めの語気で命令する。
俺の言葉に反応して即座に停止する犬飼。
「……ふむ、"訓練"は受けているみたいだな」
だが、迂闊というほかないだろう。或いは危機感不足か。
「そうだ。そのままこっちに持ってきなさい」
無表情を保ったまま、慎重に犬飼が此方へ歩を進める。
流石に落ちこぼれとはいえ、犬飼家の出。
こういったときの対処法はしっかりと"教育"されているようだ。
感情や思考を押し殺すこと、それは呪詛から身を守る手っ取り早い防衛手段である。
「そのままこっちに。そう、そうだ」
虚ろに立ち尽くす犬飼を横目に木箱を受け取り、そっと机の上に置く。
「よし、もういいぞ」
立ち尽くす犬飼に向けて柏手を打つ。
「はっ! ……私今なにしてました?」
間抜けな顔で辺りを見渡し、最後に俺の目を見て尋ねる犬飼。
「未遂だよ」
犬飼がどこまで記憶していたのかも怪しい。特に説明するのも面倒だ
「もう、しっかりしてくださいよ~!」
などと暢気に文句を垂れている犬飼に「お前にそんな余裕があるのか」と説教しようとしたが、ふと彼の首元がぐっしょりと汗で濡れていることに気づいたのでやめておく。
「なんですか、じっと見つめて。穴が開いちゃいますぅ」
胸元を押さえて非難がましく俺を責める犬飼。
一度殴ってみてもいいかもしれない。
「あ、怒ってます? ごめんなさぁいね?」
大人をからかうのもいい加減にしたほうがいい。
「……いいから。離れていなさい」
「はいはーい」
上着を脱いで箱に被せる。呪術的な防爆マットである。
……不発弾の処理に例えたのは我ながら的確かもしれない。
通常呪物は適切な運用、保管方法が存在する。呪詛の内容にもよるが、それを守らずに運用される、或いは一切何も施さずに放置された呪物は文字通りの不発弾となって何時、どこで、何の刺激で呪いが発動するかを予期できないものとなる。
「ふーむ、これは」
ジャケットの下に手を滑り込ませて木箱に触れる。
否、実際には木箱が纏う呪詛を
こうすることで呪物、呪詛の性質や仕組み大まかに知ることができる。
たとえ左手がグローブに覆われていたとしても。
「……中身に呪詛がぎっしりだな」
その上組み木の隙間から呪詛の本体が手を伸ばして獲物を探している。
イソギンチャクかフジツボの蔓脚みたいで気持ちが悪い。
皮膚。肉と骨を包む人間の輪郭。その下には肉体とは別に、霊的な体が存在している。
血と肉によって構成されたそれを肉体と呼ぶなら、霊魂と気魄で構成されるものは霊体と呼ぶのが相応しい。
主に人格や精神、そして気力を司るもう一つの人体である。
普段はぴったりと肉体に重なって存在し追従するばかりなのだが、何かの拍子に抜け出てしまうことがある。これが世間一般で言うところの幽体離脱である。
そして力ある存在はそこへ侵入することができ、影響を与え、肉体を操作することができる。
丁度この箱から漏れる呪詛もそれを狙っているらしい。先ほどから俺の霊体に入り込む隙場が無いか探り続けている。
おそらく先ほど木箱を手にした犬飼はこれにやられて箱を開けようとしてしまっていたのだろう。
俺にはこういった類いのものに対する特別の免疫があるので問題は無いが、これは犬飼には耐えられまい。
「これが今回のターゲットだろうな。犬飼、
「……それ大丈夫なんですか?」
記憶が無くとも自分に何かされたことはわかるらしい。
恐怖の色が視線に混じっている。
「ああ、被せてる間はな。ほら、早く」
疲れに俺は身を任せて、そばに設置された椅子に腰掛けた。
「わかりました~」
犬飼が向かう先、蔵の出口右方に広げられたブルーシートの上には多くの骨董品が陳列している。
作業着姿の人々が集まって、乱雑に積まれた木箱や剥き出しの陶器の仕分けをしているのだ。
運搬、整理のために右へ左へ往来する人々の中に、一人だけ動かない人物がいた。
「あのー、すみません。五十棲さんが呼んでて――――」
丁度犬飼が声をかけた女性。
犬飼よりも少し高い背丈と、クラシカルな紺のジャンパースカートが和風の民家を背景によく映える。
ウェーブのかかった髪型と相まって、典型的なお嬢さまって感じの見た目だ。
「あら、何かご用?」
彼女の名は近十
「連れてきましたよ」
たいしたことでもないのに、妙に偉そうだ。
「ありがとう、犬飼。……近十さん、改めて今回の依頼の内容を聞かせてもらえますか」
「えぇ、構いませんよ」
近十は小さく息を整えてから、話し始めた。
「名目は遺品整理です。私の祖父、近十
自分の父や祖父の顔を見たのは中学ぶりだった、という近十さんの表情は複雑で、読み取りがたい。
「なんとか折り合いをつけられる、という段階になって、今度は資産目録に詳細不明の品が多数記載されていることが問題になったんですの。特にここ、私の生家であるこの屋敷の蔵には素性の知れない物品が数多く残されておりました」
「祖父は晩年、曰く付きの物品を片っ端から、それこそ何かに取り憑かれたかのような必死さでかき集めていたと、お手伝いさんから聞きました。父は当初、すべて検めた上で立候補制により配分し、余剰分は売却する方針でした。ほとんどが骨董品として相続税の対象になりかねない上に、そんな不気味なものを側に置いておきたくは無かったのでしょうね」
「そうして整理のために蔵へ人を遣わしたところ――」
「蔵の中で不審死、或いは行方不明になった、と」
「はい」
まぁ、それも仕方ないことかもしれない。なぜなら……
「へぇ、おじいさんのコレクションなんですか。うーん、にしてもちょっと多すぎません?」
犬飼が空気を読まずに口を挟む。だが質問の内容は至極当然のものであった。
俺が先ほど木箱を置いた長机、その奥には蔵の右側に展開されたものと同様に、ブルーシートが敷かれ、丁寧に壺や木細工、果ては立派な甲冑や着物までが陳列されていた。
素人目に見ても異様な気配を漂わせているに違いない。
すべて一人前の呪物であり、
この俺でさえ奇妙な冷気が足下へ這い寄るのを感じる。
ざっと今日昨日で呪物であると認めたものの総数は三百を超える。
これほどの呪物が並ぶ光景はなかなかお目にかかれないだろう。
実際この業界が長い俺でも、見たことはない。別蔵を抜いては。
俺は抜き身の日本刀を指して、
「一件目の、真宮努さんの惨殺事件はこれで――」
に大衣桁に掛かる着物へ指線を移した。外は純白、内は深紅。
「たぶんこれが三件目と十一件目、あと八件目の、川田悟さん・鮎川大悟・末永明子さん失踪の原因ですね」
「失踪の原因が、この着物……?」
「貴女、呪いというものをご存じですか」
「えぇ、まぁ」
「架空、創作の類い。或いは民俗学的な文化の一種にすぎないとお思いでしょうが、それは実在します。単なる言葉で相手を苛む技術や暗示の類いではありません」
「わら人形に釘を打って人を死に至らしめ、或いは恨み辛みを利用して家を没落させ、または己を貶めた人物に落雷を招くことも出来る。そんな
「――これは、よくないよなぁ」
「これ、なんです? 素人が見様見真似でそれっぽく呪ってみました感がありますけど」
先ほど犬飼が持ってきた箱の中に収められていたものである。
「まあ、あながち間違いじゃ無いかな」
左手のグローブを外して、覧る準備をする。
「ちょっと前にさ、こういう組み木細工を利用した呪物の噂がネットで流行ったんだよね」
素手となった左手で立方体に触れる。
あぁ、なるほど。そうか。
「うーん、これは残念ながら本物みたいだ」
「残念?」
「元々ネット発祥の架空の呪いだからさ、何か被害が発生さえしなければ単なる怪談話にすぎないんだけど、今回ちゃんと効果のあるのが発見されちゃったからね」
「呪術的に再現性が発生しうる、ってことですか?」
「そうだね。偶然だろうと架空の存在が原因で何かが起きたと見做せてしまえば、逆説的に架空の存在は形を得てしまうから」
「へぇ。
別蔵。忌部氏、その現代表である弓削家が管理する呪物を収容する専門機関のことだ。
あまりいい印象は無い。
「五十棲さん、顔色悪くないですか?
……こういう"箱"も、嫌いだ。
「もうおじさんだからね。水分補給は犬飼もこまめにね? 水飲んだらラストスパート、行ってきなさい」
札や箱、書物などを不用意に剥がす/開く/読むことのないよう言い含めて、犬飼を蔵の奥へ再び送り出す。
「こんな物まであるなんて、聞いてないぞ……」
高草木とはもう一度話す必要がありそうだ
2020年6月14日午前3時51分。
T都S宿藪木町。その深奥にひっそり佇む雑居ビルの四階。そこに私の城がある。
「はい、もしもし。こちら五十棲探偵事務所、代表の五十棲です。ご用件を――」
探偵事務所とはいっても実績はあまりない。
犬猫や人捜しの依頼が最も多く、ごくごく希に浮気や素行の調査が舞い込む程度。それより"裏"の割合と評判ばかり高くなってしまい、最近はどちらかというと心霊何でも鑑定団と言う方が相応しいかもしれない。
或いは心霊専門の便利屋、だろうか。
「あー、イズミ?」
電話口からはよく聞きなじみのある声が。
「……はぁ、
「おいおい、開口一番溜息かよ!」
「お前から電話が来ていいことがあった試しがない」
「巧いもうけ話をさぁ、教えてあげてるだけだろう?」
「儲けはあるっていってもその分グンと面倒じゃん」
「それはお前が上手くやれるか次第、あってるよな?」
「あー、もう。いいから本題は?」
「すまん、すまん。弓削さん案件だ」
「弓削、か。お嬢、今は使い物にならないんだっけか」
「そうそう。だから、お前に」
「それじゃあ、仕方ないよなぁ。いいよ。詳しくはメールしておいて」
「え~。もう少しおしゃべりしようよぉ」
「お前な、今朝4時だぜ? 眠いんだよ。急ぎじゃないなら切るぞ」
「はいはい。わかったよ。じゃあ、おやすみ~」
「……はあ。疲れた」
さっきまで寝ていたソファから身を起こし、水を飲む。一口、二口。
息を吸う。深く、深く。吐き出す。吸ったときの二倍の時間をかけて。吐く。
鼓動を感じる。心臓が脈を打つ。呼吸を繰り返すごとに、遅くなる。
続けて丹田の辺りに意識を移す。
蠢いている。アイツらが。
火のついたコールタール様の何かが、マントルの如く対流するように、胎動している。
ゆっくりと、力強く。
今はまだ、噴火の気配はない。それを確認して、息を吐き出す。
「――寝よ」