ブレイクハンド 〜創れない兄は、壊す力で世界を救う〜   作:鳩夜(HATOYA)

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よい世界

「お前、本当に行くのか?」

 

 村長の声が、背中にかかった。

 クラウシュは荷物袋の紐をきつく結び直しながら、振り返った。

 

「行くよ」

 

 朝の村は、いつもより静かだった。

 

 潮風が吹いている。

 空は曇っている。

 港へ続く坂道の先には、灰色の海が見えた。

 

 今日、クラウシュは島を出る。

 

 十五歳になった者は、島の外へ出ることを許される。

 外の町へ学びに行く者もいれば、職人の弟子入りをする者もいる。

 中には、そのまま大都会ファーストウッドを目指す者もいる。

 

 クラウシュも、その一人になるはずだった。

 

 いや。

 

 本当は、二人で行くはずだった。

 

「一人でだいじょうぶかい?」

 

 近所の老婆が、心配そうに尋ねた。

 

 彼女は小さい頃からクラウシュとビセをよく知っている。

 いつも元気に走り回る兄と、その少し後ろを静かについていく弟。

 二人は、村のどこにいてもだいたい一緒だった。

 

 だからこそ、老婆の目には不安が浮かんでいた。

 

 クラウシュは笑った。

 

「大丈夫。ビセを探さないと」

 

 言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。

 

 本当は今日、二人で島を出る予定だった。

 

 クラウシュとビセ。

 双子の兄弟。

 白いボードを持たない兄と、真っ白なビルドスキルボードを持つ弟。

 

 十五歳になったら、一緒にファーストウッドへ行く。

 ゴッドハンドに会う。

 クラウシュの右手に、なぜビルドスキルボードが現れなかったのかを聞く。

 

 そう約束していた。

 

 だけど、ビセはクラウシュの隣にいない。

 彼は一年前、先に島を出てしまった。

 

 自らのビルドスキルで作った船に乗って。

 クラウシュに、一通の手紙だけを残して。

 

『一年後に島を出た時に会いましょう。よい世界になってるはずです』

 

 何度読んでも、意味の分からない言葉だった。

 

 よい世界。

 

 ビセがそう言うなら、きっと何か理由がある。

 そう思いたかった。

 

 でも、クラウシュは知っている。

 

 ビセは優しい。

 誰よりも兄を大切にしてくれる。

 けれど、その優しさは時々、ひどく冷たい形になる。

 

 兄を馬鹿にした子供が、翌日から誰にも気づかれない程度に困ることがあった。

 椅子の脚が少しだけ低くなって転ぶ。

 弁当箱の留め具が妙に固くなる。

 靴紐がほどけないほど複雑に結ばれる。

 

 クラウシュが気づいて怒ると、ビセは決まってこう言った。

 

『僕は何もしていません』

 

 その顔が、本当に何もしていないように見えるから余計に怖かった。

 

 クラウシュは荷物袋を背負った。

 

 中身は多くない。

 保存食。

 水筒。

 着替え。

 古い地図。

 そして、ビセが残していった小さな工具箱。

 

 クラウシュ自身はビルドスキルを使えない。

 工具箱があっても、ビセのように何かを作れるわけではない。

 

 それでも、持っていきたかった。

 

 弟の手が触れていたものを。

 

「村長」

 

「なんじゃ?」

 

「船、もう来てる?」

 

 村長は港の方を見た。

 

 港と言っても、大都会のような立派なものではない。

 木製の桟橋が一つ。

 潮避けの小屋が一つ。

 それだけの小さな港だ。

 

 島には船は基本的には来ない。

 

 外海から離れた小島で、用がなければ寄る者はいない。

 だが、祝福や成人、交易品の受け渡しなどで外へ出る必要がある時は、港の信号塔から魔力信号を送る。

 

 そうすれば、ファーストウッド方面の定期便が進路を変え、島へ寄ってくれる。

 

 いつもなら、信号を送ってから三時間ほどで船が来る。

 

 だが。

 

「船、来ないな」

 

 クラウシュは海を見ながら呟いた。

 

「そうだね……いつもの通り信号は送ったんじゃが……」

 

 村長の声にも、困惑が混じっていた。

 

 朝早くに信号は送っている。

 今はもう昼前だ。

 普段なら、とっくに船影が見えている頃だった。

 

 だが、水平線には何もない。

 

 海だけがある。

 

 灰色の海。

 波は普段より少し高い。

 風も強い。

 

 それに、空が暗かった。

 

 昼だというのに、太陽が雲の向こうで弱々しく滲んでいる。

 雨が降りそうな暗さではない。

 もっと別の、空そのものが薄く汚れてしまったような暗さだった。

 

 クラウシュは、数日前の光景を思い出した。

 

 大地震。

 島全体を揺らした、今まで経験したことのないほどの震え。

 そして、遠くの空が裂けたように見えた瞬間。

 

 そこから無数の黒い何かが降り注いでいた。

 

 かなり遠い場所だった。

 けれど、方角だけなら分かる。

 

 あれは、ファーストウッドの方角だった。

 

「……まさかな」

 

 クラウシュは首を振った。

 

 考えても仕方ない。

 ここで待っていても、船は来ない。

 

 ビセは一年も前に島を出ている。

 今、どこにいるのか。

 何をしているのか。

 あの言葉の意味は何なのか。

 

 聞かなければならない。

 

 会って、直接、問いたださなければならない。

 

 クラウシュは港の端にある小屋へ向かった。

 

「これ以上待ってられないな。村長、ビセが作った船があるから、それで行くよ」

 

 村長が目を丸くした。

 

「あの船か?」

 

「うん」

 

 港の裏手、岩場に隠れるように一隻の小船が置かれていた。

 

 ビセが島を出る前に作っていたものだ。

 最初は模型だと思っていた。

 だが、いつの間にか人が乗れる大きさになり、いつの間にか帆が張られ、いつの間にか海に出られる船になっていた。

 

 ビセはその船を使って島を出た。

 

 ただし、一隻だけではなかった。

 

 クラウシュのために、もう一隻残していたのだ。

 

『兄さん用です。僕ほど細かく調整は出来ないと思うので、ほとんど自動で進むようにしてあります』

 

 手紙にはそう書かれていた。

 

 クラウシュはその時、少し怒った。

 

 置いていくくらいなら、一緒に行けばいいだろ。

 そう思った。

 

 でも今は、その船があることに感謝するしかなかった。

 

 村長は船を見つめ、ゆっくり頷いた。

 

「ビセが作った船なら安心だな」

 

「だろ?」

 

 クラウシュは少しだけ笑った。

 

 ビセのビルドスキルは本物だ。

 島にいた頃から、誰よりも正確で、誰よりも頑丈なものを作れた。

 彼の作った船なら、多少海が荒れていても沈むことはない。

 

 そう信じられる。

 

 ただ一つ、不安があるとすれば。

 

 その船を作ったビセ本人が、今どこで何をしているのか分からないことだけだった。

 

 村人たちが港に集まってきた。

 

 かつてクラウシュを馬鹿にしていた者もいる。

 ビルドボードを出せないと笑った者もいる。

 それでも今は、多くが心配そうな顔をしていた。

 

「クラウシュ、無茶するなよ」

 

「ファーストウッドに着いたら、すぐに便りをよこすんだぞ」

 

「ビセを見つけたら、一度島へ戻ってこい」

 

「外は島とは違う。気をつけるんだよ」

 

 クラウシュは一人一人の顔を見た。

 

 嫌な思い出がないわけではない。

 悔しかったことも、腹が立ったことも、数えきれないほどある。

 

 けれど、それでもここは生まれ育った島だった。

 

 クラウシュは大きく息を吸った。

 

「行ってくる!」

 

 船に乗り込む。

 

 小さな船だった。

 だが、不思議と安定している。

 足元の床板には、ビセらしい細かな接合補強の跡が見えた。

 帆柱には白い魔力線が刻まれ、船首には小さな文字が彫られている。

 

『兄さんへ』

 

 クラウシュは指でその文字に触れた。

 

「……だったら、一緒に行けよ」

 

 小さく呟く。

 

 返事はない。

 

 クラウシュは帆を張った。

 

 白い線が淡く光り、船がゆっくりと動き出す。

 まるで見えない手に押されるように、船は港を離れていく。

 

 村人たちが手を振る。

 

 クラウシュも大きく手を振り返した。

 そうして、ビセの船で俺は島を出た。

 

 海に出てすぐ、違和感は強くなった。

 いつもより海が荒れている気がする。

 

 波が高い。

 風が重い。

 潮の匂いに、焦げた木のような匂いが混じっている。

 

 空もお昼だというのに薄暗い。

 

 船はビセの言葉通り、ほとんど勝手に進んだ。

 帆は風を読み、船体は波を受け流し、クラウシュが大きく舵を取らなくても、ファーストウッドの方角へ進んでいく。

 

 さすがビセだ。

 

 そう思うたび、胸がざわつく。

 

 この船を作れるほどの弟が。

 天才と呼ばれるほどの弟が。

 一年前、何を考えて一人で島を出たのか。

 

『よい世界になってるはずです』

 

 あの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 

 よい世界。

 

 ビセにとっての、よい世界とは何だ。

 

 兄を馬鹿にしない世界。

 ビルドスキルだけで人を判断しない世界。

 誰もクラウシュを笑わない世界。

 

 もし、そういう世界を作ろうとしたのなら。

 

 クラウシュは唇を噛んだ。

 

「馬鹿だろ、ビセ……」

 

 もし本当にそんなことをしようとしているなら。

 世界を作り直すなんてことを考えているなら。

 

 止めなければならない。

 

 弟だから。

 大切だから。

 誰よりも、自分のことを思ってくれた弟だから。

 

 クラウシュが止めなければならない。

 

 船は進む。

 

 ファーストウッドに近づくにつれ、雰囲気はさらに重くなっていった。

 

 空の色が濃くなる。

 雲の形がおかしい。

 まるで誰かが空の上に黒い墨をこぼし、それがゆっくり広がっているようだった。

 

 海面には、木材や石材が浮かんでいた。

 

 最初は流木だと思った。

 だが、違う。

 

 窓枠。

 看板。

 扉。

 机の脚。

 鉄の柵。

 歯車。

 壁の一部。

 

 家や建物を構成していたものが、ばらばらになって海を漂っている。

 

 クラウシュは船縁から身を乗り出した。

 

「なんだ……? どうなってる?」

 

 やがて、遠くにファーストウッドが見えた。

 

 クラウシュは息を呑んだ。

 

 大都会ファーストウッド。

 

 島の子供たちが憧れる、創作師の都。

 巨大な木造建築が幾重にも重なり、空へ向かって伸びる街。

 ビルドスキルによって作られた塔、橋、船着き場、工房、広場。

 数えきれない創作物が並ぶ、夢のような場所。

 

 そのはずだった。

 

 だが、今見えているものは、クラウシュが想像していた街とは違った。

 

 遠目にも分かるほど、街の形が歪んでいる。

 

 建物の上に建物が乗っている。

 橋が空中で途切れている。

 塔の側面から別の塔が生えている。

 壁が道を塞ぎ、道の上に階段が伸び、階段の先に扉だけが浮かんでいる。

 

 壊れている。

 

 そう言おうとして、クラウシュは違和感を覚えた。

 

 違う。

 

 ただ壊れているのとは、何かが違う。

 

 ファーストウッドの港は荒れていた。

 

 桟橋は残っている。

 倉庫もある。

 船も何隻か停泊している。

 

 だが、その全てが異常だった。

 

 桟橋の横から、無意味な柱が何本も突き出している。

 倉庫の壁には、用途の分からない窓がびっしりと増えている。

 停泊している船の甲板には、小さな家が建ち、その家の屋根からまた別の小舟が生えている。

 

 壊れている……とはまた違う。

 

 無造作にいろいろなものが建築されて、結果、混沌と化している。

 

 そんな感じだった。

 

「なんだよ、これ……」

 

 クラウシュの船が、港の端にゆっくりと接岸する。

 

 自動で船体が桟橋に寄り、縄が勝手に杭へ絡みついた。

 ビセの仕組みだ。

 

 クラウシュは荷物袋を背負い直し、桟橋へ降りた。

 

 足元が軋む。

 

 古い木の音ではない。

 何かが内側で増殖しているような、不気味な軋みだった。

 

 港には人影がない。

 

 大都会なら、本来は船員や商人、職人、旅人で賑わっているはずだ。

 少なくとも島の村長は、そう話していた。

 

 だが、今は誰もいない。

 

 風が吹く。

 どこかで扉が勝手に開いたり閉じたりしている。

 遠くから、木材が擦れる音が聞こえる。

 

 ぎしり。

 ぎしり。

 ぎしり。

 

 まるで街そのものが、生きているようだった。

 

「誰か、いないのか?」

 

 クラウシュは声を張った。

 

 返事はない。

 

 もう一度叫ぶ。

 

「誰か! いたら返事してくれ!」

 

 声は港に響き、無数の建築物に跳ね返り、歪んだ反響になって戻ってきた。

 

 ――だれか。

 

 ――いないのか。

 

 ――返事してくれ。

 

 自分の声なのに、誰か別のものが真似しているように聞こえた。

 

 クラウシュは左手を握った。

 

 漆黒のブレイクスキルボードを出す準備をする。

 

 ここはおかしい。

 

 ファーストウッドで何かが起きた。

 そして、おそらくそれは、ビセの失踪と無関係ではない。

 

 クラウシュは港を歩き始めた。

 

 足元には木片、石片、金属片が散らばっている。

 その中には、まだ新しいものもあった。

 最近作られたばかりの創作物が、途中で投げ出されたように転がっている。

 

 港の奥へ進むと、道が三つに分かれていた。

 

 いや、正確には三つに分かれているように見えただけだ。

 

 左の道は途中から壁に埋もれている。

 右の道は階段になって空へ伸び、途中でねじれている。

 中央の道には、巨大な扉が立っていた。

 

 扉だけが。

 

 壁もない。

 建物もない。

 ただ、道の真ん中に扉だけが立っている。

 

「……ファーストウッドって、こういう街なのか?」

 

 クラウシュは呟いた。

 そんなはずはない。

 いくら大都会でも、道の真ん中に意味のない扉を作るほど馬鹿ではないだろう。

 クラウシュは扉に近づいた。

 

 その時。

 

 扉の向こう側から、かすかな声がした。

 

「……けて」

 

 クラウシュは足を止めた。

 

「今、誰か……」

 

「助けて……!」

 

 確かに聞こえた。

 子供の声だ。

 クラウシュは扉に手をかけた。

 

 だが、開かない。

 ただの扉に見える。

 壁もないのだから、横を通ればいいはずだ。

 

 そう思い、クラウシュは扉の横へ回ろうとした。

 瞬間、見えない壁にぶつかった。

 

「痛っ!?」

 

 鼻を押さえながら、クラウシュは目を見開いた。

 

 何もない。

 なのに、通れない。

 

 扉だけが入口になっている。

 しかも、その扉は開かない。

 

 ビルドスキルで作られた、閉じ込めるための創作物。

 

 クラウシュは左手を開いた。

 

「ブレイクボード」

 

 漆黒のボードが現れる。

 港の薄暗い空気の中で、その黒はいつもより深く見えた。

 ボードに刻まれた文字が浮かぶ。

 

『継ぎ目崩し』

 

 クラウシュは扉を見た。

 

 蝶番。

 枠。

 取っ手。

 魔力の流れ。

 

 普通の扉ではない。

 見えない壁と扉が一体化している。

 なら、壊すべき場所は扉そのものではない。

 

 扉と見えない壁を繋ぐ、魔力の継ぎ目。

 

「そこか」

 

 クラウシュは左手を扉の端に当てた。

 

「ブレイクスキル――継ぎ目崩し!」

 

 黒い光が走った。

 ばきん、と音がする。

 

 扉の枠に亀裂が入る。

 見えない壁が水面のように揺れた。

 

 もう一度。

 

「壊れろ!」

 

 扉が砕けた。

 

 同時に、何もなかった空間が割れるように開く。

 その奥には、小さな子供がうずくまっていた。

 周囲を木の壁と鉄の格子に囲まれ、身動きが取れなくなっている。

 

 子供は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

 

「お兄ちゃん……誰?」

 

 クラウシュは息を吐き、笑った。

 

「通りすがりの、ブレイクスキル使いだ」

 

 子供はその言葉を聞いて、目を丸くした。

 

「ブレイク……?」

 

「ああ。壊すことしか出来ないけどな」

 

 クラウシュは子供に手を差し伸べた。

 

「でも、こういう時には役に立つだろ?」

 

 子供は震える手で、その手を掴んだ。

 その瞬間、港の奥から大きな音が響いた。

 

 ぎしり。

 

 ぎしり。

 

 ぎしり。

 

 木材が組み上がる音。

 石材が擦れる音。

 釘が勝手に打ち込まれる音。

 

 クラウシュは顔を上げた。

 

 街の奥で、何かが動いている。

 

 建物のようで。

 魔物のようで。

 創作物のようで。

 

 そして、どこか人の悪意に似た気配を持つ何かが。

 ゆっくりと、こちらへ近づいてきていた。

 クラウシュは子供を背に庇い、左手の黒いボードを構えた。

 

「ビセ」

 

 遠くにいるはずの弟の名を、クラウシュは小さく呼んだ。

 

「お前、何をしたんだよ」

 

 答えはない。

 ただ、混沌と化したファーストウッドの街が、軋みながら蠢いていた。

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