第二話「修行の始まり」
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【シーン1:博麗神社・朝】
鳥の声で目が覚めた。
障子の向こうが白んでいる。歩向タカはしばらくぼんやりと天井を眺めてから、布団の上でゆっくり身を起こした。とたんに、体のあちこちが鈍く痛んだ。腕、足、背中。昨日あれだけ森の中を走り回ったのだから、当然といえば当然だった。
縁側の戸を開けると、ひんやりした空気が顔に当たった。日はまだ低く、石畳の上を朝の斜めな光が伸びている。夜のうちに落ちたらしい葉が、あちこちに散らばっていた。
箒を手に外へ出て、黙って掃き始める。葉を集めれば風が吹き、また散っていく。集めては散らされ、集めては散らされ――その繰り返しの合間に、タカはふと空を見上げた。
「ふぅ……良い天気だ」
雲ひとつない青空だった。視界の果てまで青が続いて、向こうの山の稜線がくっきりと浮かんでいる。幻想郷の空は、なんというか、色が妙に濃い。外の世界でこんな青空を見た記憶がない。――というより、その「外の世界」の記憶自体が、まだ霞の向こうにあって、うまく掴めないのだけれど。
「幻想郷に来て、二日目か……」
昨日は森で妖怪に追いかけられて、気づいたらここの布団の上で寝ていた。あれが夢でないのなら、自分は今、本当にとんでもない場所にいることになる。
「変な夢じゃ、ないよね……妖怪に食べられそうになったし……」
「何ぶつぶつ言ってるの」
「うわっ!?食べないでください!」
振り返ると、霊夢がすぐ後ろに立っていた。湯呑みを両手で包み、あくびをかみ殺したような顔をしている。いつ来たのか、足音のひとつも聞こえなかった。
「失礼ね!食べないわよ。掃除、終わった?」
「まだです……」
「掃除が終わったら洗濯ね」
「はい……」
「その後は昼ご飯の準備よ」
「はい!」
「返事だけは元気ね」
「居候なので……」
「分かってるならよろしい」
霊夢は縁側へ戻り、腰を下ろした。お茶をすする音がして、湯気が朝の空気の中でゆらりと揺れる。タカはその背中を眺めながら、声を落として呟いた。
「巫女って、もっと神秘的なものだと思ってた……」
「タカ〜、聞こえてるわよ」
「すみません!」
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【シーン2:紫の来訪】
昼前。
タカは霊夢に井戸の水汲みを頼まれ、桶を提げて坂を下りていった。
境内はしんと静かになった。木々の間を風が抜けて、葉のさわさわと揺れる音だけが残る。
霊夢は縁側で、ぼんやりと空を眺めていた。石畳に木漏れ日がまだらに落ちる、穏やかな昼下がり――
そのど真ん中で、空間が、ぱっくりと口を開けた。
前触れは何もなかった。空気をそのまま引き裂いたような黒い裂け目が、縁側の目の前に生まれる。裂け目の縁には黄色い目玉がびっしりと並び、ぎょろり、ぎょろりと、あたりを見回していた。その隙間から、紫色のドレスをまとった女が、ゆったりと姿を現す。
「あらあら〜」
「……何しに来たのよ、紫」
霊夢は湯呑みも置かず、視線だけを向けた。
「ちょっと霊夢ちゃんの顔を見に来ただけよ〜」
「嘘!あんたが来る時はなんかあるから」
「失礼ねぇ〜霊夢ちゃん」
八雲紫は扇子を口元に当て、くすくすと笑った。スキマの目玉たちが、その笑いに合わせるようにぐるぐると回る。
「なんか、変なの拾ってきたじゃない〜」
「人をそういう言い方しないでちょうだい!」
「でも、気になるでしょう?私は、すご〜く気になるわ♪」
「紫……あんた、何か知ってるの?」
紫の笑みが、ほんの少しだけ変わった。口元の形はそのまま。目の奥だけ、温度が下がる。
「それがね」
扇子が、ぱちんと閉じられた。
「あの子、私のスキマをすり抜けてきたのよ。――私が、気づかないまま」
「……は?そんなことあり得るの?」
「外から来る子は、大抵どこかで引っかかるものなのだけど。あの子だけ、全然わからないの。どこから来たのかも。何者なのかも」
霊夢は少し黙った。境内の葉が、さわさわと鳴る。
「何それ、本当に面倒ごとじゃない」
「だから霊夢ちゃん、ちゃんと見ていてね」
「はあ?なんで私が!」
「私にもよくわからないし――」
ふっと、いつもの食えない笑みが戻ってくる。
「それに……なんだか、面白そうだから♪」
「本当に最低ね、あんたは」
「ありがとう、褒め言葉として受け取るわ」
紫はくすくす笑いながら、スキマの中へ沈んでいった。目玉だらけの裂け目がゆっくりと閉じ、最後に残った目玉がひとつ、ぱちりとまばたきをして――ぷつり、と消えた。
境内に、元の静けさが戻る。
霊夢は湯呑みを口に運んだ。お茶は、すっかり冷めていた。
「はあ……面倒事の匂いしかしないわ」
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【シーン3:決意】
夕方。
洗濯物を干し終えたタカは、へたり込むように縁側へ腰を下ろした。夕風が汗ばんだ背中に当たる。それだけが、今日一日でいちばん気持ちよかった。
「疲れた……もう動けません!」
「まだ一日よ。それだけ喋れるなら元気じゃない」
霊夢は御祓い棒を膝に横たえたまま、夕焼けの空を眺めていた。赤と橙が混ざり合い、境内の石畳も木の葉も、ぜんぶ同じ色に染まっている。遠くで鳥が一声鳴いて、そのまま声が遠ざかっていった。
「幻想郷って、大変なんですね」
「慣れれば普通よ」
「でも僕、昨日ルーミアに食べられそうになりましたよ」
「弱いから当然よ、何言ってんのよ」
「ですよね……」
それきり、二人とも黙った。夕焼けが少しずつ色を変え、空の端から暗い青が滲んでくる。霊夢はお茶をすすったまま、何も言わない。蝉でも鳴いていればまだ間が持つのに、静かすぎて、自分の息の音まで聞こえる気がした。
タカは膝の上で、ゆっくりと拳を握った。
「霊夢さん!」
「何よ?」
「僕、強くなりたいです!」
「本気なのかしら?」
「本気です。次に妖怪に会ったとき、逃げるだけは――嫌なんです」
霊夢は夕空を見たまま、少しの間、黙っていた。それから御祓い棒の端をくるっと回し、縁側から腰を上げる。
「なら、一人いるから紹介するわね。――私より厳しいから、覚悟しなさいね」
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【シーン4:華扇登場】
翌朝、神社に女性が一人やってきた。
石段を上がってくる足音がほとんどしなかったせいで、タカは、彼女が境内に入ってくるまで気づかなかった。水色の着物に、ゆるく結い上げた黒髪。すっきりとした顔立ちで、見た目は若い。それなのに、石畳をすたすたと歩いてくるその足取りには、この神社に来るのが当たり前――そういう馴染み方があった。
「霊夢、来たわよ」
「ありがとう、華扇」
タカは首を傾けた。霊夢がこちらを向く。
「茨木華扇。仙人よ。今日から、あんたに稽古をつけてもらう」
「稽古!?」
華扇はタカを見て、にっこりと笑った。穏やかで、柔らかい笑顔だった。
「よろしくね、タカちゃん」
「よ、よろしくお願いします!」
「じゃあ、とりあえずこの山を十周よ」
「え? 今、何て言いました?」
「早く走りなさい」
「え?状況が……」
「早く走る!」
「は、はい!」
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【シーン5:地獄】
一時間後。
山の斜面は、タカが思っていたよりずっと急だった。木の根が露出した獣道を、もつれる足で駆け上がる。息が上がって、喉の奥が焼けるように痛い。
「もう……無理です……」
「まだ終わってないわよ!立ちなさい!」
声そのものは穏やかだった。でも、タカが膝をつくたびに、その「立ちなさい!」は必ず飛んでくる。一拍の間も置かずに。
二時間後。
足が上がらなくなってきた。走っているのか歩いているのか、もう自分でも分からない。視界が狭くなって、目の前の地面だけが見えている。
「足が……もう……」
「立ちなさい。まず、息を整えて」
三時間後。
「ダメです……はぁ、はぁ……し……死にます……」
「死なないわよ、それくらいじゃ」
タカは両手を地面についたまま、肩で息をした。土がやけに近い。草の一本一本まではっきり見えるくらい、顔が地面に近い。夕方が近づいて、木の根元を虫が這っていくのが見えた。
「鬼だ……」
「失礼ね、私は仙人よ」
華扇は涼しい顔でタカを見下ろしていた。息は、まったく乱れていない。着物の裾すら、乱れていない。
走り込みが終わると、今度は華扇がタカの正面に静かに立った。
「次は体の使い方ね。――ここ、突いてみて」
掌が差し出される。タカはへとへとの体から残った力を振り絞り、その掌めがけて突いた。
ぱしん、と乾いた音がした。
次の瞬間、視界いっぱいに空があった。背中が草に叩きつけられる感触が遅れてやってきて、しばらく、何が起きたのか分からなかった。
「……え?」
「重心が高いのよ。だから、力が全部逃げちゃうの」
「い、いつの間に」
「力任せに来るから、自分では見えなくなるの。はい、もう一回」
「まだやるんですか!?」
「始まったばかりでしょ」
それから、何十回も同じことが続いた。構えるたびに崩され、踏み込むたびにいなされ、そのたびに背中が草の上へ落ちる。華扇はその一回一回、どこが悪かったのかをさらりと告げた。にこにこしたまま。迷いなく。――そして、容赦なく。
日が山の向こうへ沈みかける頃、タカはもう起き上がる気力もなく、大の字で空を見上げていた。夕焼けが山の稜線を赤く縁取っている。綺麗だと思う余裕すら、残っていなかった。
「やっぱり、鬼だ……」
「だから私は仙人よ!」
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【シーン6:霊夢の説教】
夜になって、タカは神社へ戻ってきた。
石段が、地獄だった。一段足を持ち上げるたびに太ももが悲鳴を上げる。腕を振るだけで肩が痛い。境内に入ったところで一度足がもつれ、石畳に手をついた。冷たかった。その冷たさだけが、今日一日で妙にはっきりとした感触だった。
どうにか玄関をくぐり、声を絞り出す。
「ただいま、です……」
「おかえり、タカ」
霊夢は縁側でお茶を飲んでいた。行灯の明かりが、縁側をぼんやりと照らしている。涼しい顔だった。
「もうダメ……動けません……」
「そう」
「今日はもう、寝ます……」
「掃除は?」
「え?」
「洗濯は?」
「え?」
「晩ご飯は?」
「えぇぇ!?」
「霊夢さぁぁん!今日だけはご勘弁を〜!」
「あぁー!!あんたここの居候でしょ!!」
「ひっ!?ごめんなさい!!」
霊夢が御祓い棒を掴んで立ち上がった。行灯の光の中で、その顔が、とても怖い。
「甘えるんじゃないわよ!強くなりたいんでしょ!?だったらやる!!」
「でも、今回ばかりは……」
「でもじゃない!私なんて三歳から修行してたのよ!!」
「三歳!?」
「修行して!掃除して!洗濯して!神社の仕事もして!毎日よ毎日!……今思い返しても嫌になるわ」
「それは、さすがにブラックでは……」
「うるさい!!タカもやりなさい!!」
「はいぃぃぃ!!」
縁側の端で、華扇がそっと目をそらした。軒先にはいつの間にか魔理沙が腰かけていて、帽子のつばを押さえながら、肩を震わせている。
「相変わらずだな、霊夢のやつ」
泣きそうな顔のまま、タカは箒を手に取った。霊夢は御祓い棒をくるりと回して、頷く。
「それでよし!」
「うぅ〜……よくないです〜……」
夜の博麗神社に、歩向タカの叫びが響いた。
読んでいただきありがとうございました!
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