第八話「静かな館」
## 【シーン1:白玉楼・朝】
白玉楼の庭に、木刀の音が響いていた。
カン。カン。カン。
朝露を含んだ石畳が朝の光を受けてほんのり光っている。桜の花びらが風に押されるたびに一枚ずつ落ちてきて、庭の隅に薄く積もっていく。その静けさの中で、歩向タカと妖夢が向かい合っていた。
一ヶ月前とは違う。あの頃のタカは妖夢の一撃を受けるだけで倒れていた。足を見る余裕も、目線を読む余裕も、間合いを測る余裕もなかった。
でも今は違う。
妖夢の足を見る。膝の沈みを見る。目を見る。
妖夢が踏み込んだ。タカは半歩だけ引いて、木刀を合わせた。
カン!
腕に重さが走る。でも押し負けない。
「反応が良くなりましたね」
「ありがとうございます!」
「では少し速くします。ちゃんと見ていてください」
妖夢の動きが変わった。
一撃目。受けた。二撃目。横に流した。三撃目、反応が少し遅れて、肩に当たる。
「痛っ……!」
「当たっても止まらないでください。戦いは続いてます」
「は…はい!」
タカは痛みをこらえて踏み込んだ。妖夢の懐へ入ろうとする。でも妖夢はその動きをとっくに読んでいた。体が流れるように回って、タカの木刀が弾き飛ばされる。
「懐に入ろうとするのは分かりますが、そこへの入り方がまだ直線すぎますね」
「くっ……やっぱり強いです、妖夢さん」
タカはすぐに距離を取った。以前なら弾かれた時点で転んでいた。その判断だけは、前よりずっと早くなっている。
妖夢がふっと木刀を下げた。
「以前のタカさんなら、そのまま倒れていましたよ」
「 一応、一ヶ月やってきましたから……」
「タカさんは、ちゃんと強くなっています」
その言葉にタカの顔がぱっと明るくなった。妖夢にここまで真っ直ぐに褒められることは、あまりなかった。
「本当ですか? 妖夢さんが褒めるなんて」
「……本当です。ただ」
妖夢の木刀がすっと低く入ってきた。足元を払う。
「油断しているところが、まだ直っていませんね」
「あっ」
タカの体がふわりと浮いて、石畳に尻もちをついた。
「いきなり褒めて油断させる作戦ですか……!」
「作戦ではありません。隙を見せたから突いただけです」
縁側では幽々子が団子を片手にこちらを眺めていた。朝から修行の見物をしているとは思えないほど楽しそうな顔をしている。
「だいぶ様になってきたわねぇ、タカちゃん」
「幽々子様、見ていたなら応援してくださいよ〜」
「ずっと応援してるわよ〜。声には出していないだけで」
「それは応援じゃないです。鑑賞です」
妖夢が小さくため息をついた。
「タカさん、口は動かせても、木刀は動かせていませんよ。まだまだ続けますよ」
「はい……!先生!」
タカは立ち上がりながら服についた花びらを払った。
「いつか絶対に妖夢さんより強くなります!」
「楽しみにしていますね」
妖夢はそう言って、もう一度木刀を構えた。春の白玉楼に、また木刀の音が響き始める。
---
## 【シーン2:華扇との体術稽古】
昼前。
妖夢との剣術練習が終わっても、次は華扇との体術練習がある。タカは額の汗を拭きながら修行場へ向かった。腕がじんじんしている。肩もまだ痛い。それでも足は止まらない。
「構えなさい!」と華扇が静かに言った。
「はい!」
タカは腰を落とした。華扇が踏み込んでくる。タカは正面から受けずに横へ流れた。華扇の手が空を切る。
「ちゃんと避けましたね。妖夢との練習が効いてるようね」
「足と目を見るように言われてからだいぶ変わりました!」
「では、これはどうですか」
華扇の重心が一気に低くなった。タカが反応した時にはもう腕を取られていた。
「はやっ……!」
体が宙を浮く。でもタカは慌てなかった。空中で体をひねって、地面に落ちる直前に受け身を取る。鈍い衝撃が体に伝わった。
「くっ……早すぎる!」
「まだまだですね。でも一ヶ月前とは違い、体は反応してますね」
「もう少し手加減してもらえますか……」
「それはないですね」と華扇はあっさり言った。
「ですよね……そう言われると思いました」
タカはため息をつきながら立ち上がった。以前ならここで息が切れていた。今は痛みがあっても、まだ動ける。それだけは確かだ。
「では、続けますよタカちゃん」
「あ、もう少し休憩を……」
「動きながら休みなさい。私はそうしてますから」
「動きながら休むって何ですか!僕には出来ませ〜ん!」
華扇の連撃が始まった。拳が迫る。身をひねって避ける。続く蹴りを腕で受け流す。足払い。転がって回避。起き上がる。息を整える暇もなく次が来る。
まだ勝てない。でも一方的にやられるだけじゃない。
しばらくして、華扇が止まった。
「妖夢との剣術と、私の体術がちゃんと噛み合ってきていますよ。足を見る習慣が体術にも活きている」
タカは肩で息をしながら笑う。
「褒められてる……! 華扇さんに褒められるの嬉しいです!」
「調子に乗らないように。もう少し強くいきますよ」
「えっ、待ってください、せめて心の準備を——」
「早く構えなさい!」
「は……はい!」
---
## 【シーン3:魔法の森】
春の日差しが木々の隙間から差し込んで、魔法の森の地面にまだらな光を作っていた。湿った土の匂いが漂って、どこかで鳥が鳴いている。
魔理沙は籠を持って木の根元を覗き込んでいた。
「お、あったあった」
春キノコだ。一ヶ月前は探しても一本も見つからなかったのに、今はこうして普通に生えている。魔理沙は慣れた手つきで摘み取って、籠に放り込んだ。
「やっぱり春はこうじゃないとな。今日はキノコの大収穫祭だぜ!ここにも……あっ、こっちにもあるじゃん」
籠には研究用のキノコがいくつも並んでいた。毒キノコ、薬になるキノコ、魔法の触媒になる珍しい種類まで。全部魔理沙にとっては宝物だ。
「今日は本当に大当たりだぜ!」
鼻歌を口ずさみながら森を歩く。風は穏やかで、妖怪も静かだ。異変の気配はない。
「最近は本当に平和だな……」
空を見上げてひとりごちる。でもすぐに苦笑いに変わった。
「……まあ、平和な時ほど何か起きるんだけどな」
幻想郷で長く異変を解決してきた勘がそう言っている。でも気にして立ち止まるような魔理沙じゃない。肩をすくめてから、また木の根元にしゃがみ込んだ。
---
## 【シーン4:博麗神社】
博麗神社の境内に、のどかな昼前の空気が流れていた。
木々の葉が柔らかく揺れていて、鳥居の向こうから春の風が吹き込んでくる。霊夢は縁側に座って湯呑みを持ちながら、ぼんやり空を見上げていた。
「今日も幻想郷は平和ね」
その時、すぐそばの空間がぱっくり裂けた。目玉がびっしり並んだ気味の悪いスキマから、紫がゆっくりと顔を出す。
「あら、のんびりしているのね〜霊夢ちゃん」
「めんどくさい奴が来たわ、帰って。今日は何もしたくない」
霊夢は湯呑みから目を離さない。でも紫は扇子をぱちんと閉じて、縁側の近くに腰を落ち着けた。
「まあそう言わずに。少し気になることがあって、霊夢ちゃんに会いに来たのに〜」
「気になることって言葉で来る時は大体面倒でしょ。何?何があったの」
「結界に包まれた館が、山の向こうに現れたわ。昨日まで何もなかった場所に」
霊夢が湯呑みを縁側に置いた。
「館? 誰かが引っ越してきたってこと?」
「それが分からないのよ。中を見ようとしたんだけど、霊力も魔力も妖力も全部弾かれて、気配も何も読めない」
「……あなたでも?」
「私でも、ね」と紫が珍しく真顔で言った。「それで少し気になって」
霊夢はしばらく紫を見た。紫がこういう顔をする時は、本当に分からない時だ。
「紫〜、あんたが直接行ってこればいいじゃない」
「結界で入れないのよ。外から触れることもできないくらい硬くて」
「じゃあ向こうから出てくるまで待つしかないわね。何かされたの?」
「今のところ何もないわ。ただ、現れただけ」
「ならとりあえず放っておけばいいんじゃない」と霊夢はお茶をすすった。
「だから、貴方にだけ先に伝えておこうと思って。何かあった時に霊夢ちゃんが、知らないよりはいいでしょう」
霊夢は少し黙った。何もされていないなら異変じゃない。でも紫がわざわざ来て、この顔をしているということは。
「……分かったわ。後で見に行くわ」
「助かるわ霊夢ちゃん」と紫がふわっと笑った。
---
## 【シーン5:結界の館】
人里から離れた山を越えたところに、館があった。
昨日まで何もなかった場所だ。それなのに今は、まるで何十年も前からそこにあったかのように堂々と建っている。西洋風の造りで、高い屋根、閉ざされた門、一枚も開いていない窓。館全体を透明な結界が包んでいて、陽の光を受けてわずかに揺らいで見えた。人の気配どころか、生き物の気配すら感じない。
霊夢と紫は結界の前で足を止めた。
「ずいぶん大きな館ね」
「なぜ結界に……中を見られたくない?それとも何かの準備?」
霊夢は近づいて、結界に手を触れた。硬い。岩に触れているみたいだ。そのまま霊力を流し込んでみる。弾かれるわけでも吸収されるわけでもなく、ただ静かに拒まれた。
「霊力が全然通らない。これは普通の結界じゃないわ」
「でしょう? 私が触っても同じだったのよ。気味が悪いくらいに何も返ってこないのよ」
霊夢は目を閉じて気配を探った。誰がいるのか、どれくらいいるのか、強いのか弱いのか。でも何も感じ取れない。空っぽ、というより、そこに何かあること自体を拒んでいるような感じだ。
「本当に何も分からないわね。紫なら壊せる?」
「不可能ではないと思うけど……」と紫が珍しく歯切れ悪く言った。「ただ、何もしてない以上、今壊す理由がないでしょう」
「……でも、そうね」霊夢は館を見上げた。門は閉じたまま。窓も開かない。誰も出てこない。「今は様子見でいいわ。何かしてきたら動くわ」
「それが霊夢ちゃんらしいわね」
霊夢は踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「嫌な感じはするのよね。何もしていないのに」
「博麗巫女の勘?」
「勘。外れることもあるけど」
「でも霊夢ちゃんの勘はよく当たるから」
「……」
霊夢は館に背を向けた。後ろで紫がくすくす笑う声がした。
---
## 【シーン6:それぞれの日常】
白玉楼では午後になっても木刀の音が響いていた。
カン。カン。乾いた音が桜の花びらを揺らした。
タカは妖夢の一太刀を受け止めて、その勢いを利用して前へ踏み込もうとした。
「また直線的な動きになってますよ」
「分かってるんですけど、横に行く隙がなくて……!」
「隙は自分で作るものです!相手は合わせてくれません」
「どうやって作るんですか!」
「それを学ぶための稽古です」
「答えになってません〜」
妖夢がわずかに笑いをこらえながら木刀を構え直した。
「では、もう一度。今度は相手の隙を意識して」
「はい……!」
その後、少し離れた修行場では、華扇との体術稽古が続いていた。
「体術は剣術と違って、相手の力を使う場面が多い。だから焦らず、相手が動くのを少し待つことも覚えてください」
「待つ……ですか。でも待ってたら攻撃されませんか」
「ただ待つのではなく、受けながら相手の重心や、動きが崩れるのを感じるのです」
「……難しいですね」
「簡単ですよ」と華扇が笑った。「でも今日の稽古を見ていると、一ヶ月前より体の使い方がずっと丁寧になっています」
「本当ですか?」
「本当です。投げられた後の起き上がり方も、受け身の取り方も、全部変わってきている」
タカは素直に嬉しくなった。でも次の瞬間、華扇が静かに構えを取った。
「では、続きを」
「……はい!」
魔法の森では魔理沙が研究机に向かっていた。集めてきたキノコを並べて、瓶に薬品を慎重に注ぐ。ゆっくりかき混ぜた瞬間。
ボンッ。
白い煙が上がって、帽子の先が少し焦げた。
「まあ成功の範囲だな」
帽子を叩きながら次のキノコに手を伸ばした。
人里では子どもたちが走り回っていて、団子屋に客が並んで、商人が声を張り上げていた。誰も知らない。山の向こうに見知らぬ館が現れたことを。その館の結界の中で、何かがゆっくりと動き始めていることを。
---
## 【シーン7:夕方の博麗神社】
夕日が幻想郷を橙色に染め始める頃、霊夢は縁側に戻っていた。
湯呑みを持つ。でも飲まない。
館のことが頭から離れない。誰がいるのかも、何が目的なのかも分からない。気配を探ることもできず、結界に触れることさえできない。ただ現れただけ。それだけなのに――。
それなのに、なんとなく引っかかる。
「ただ現れただけ、ね」
霊夢は空を見上げた。夕焼けが赤い。いつもと同じ夕方の色だ。
「まあ、今日は寝ましょ。起きてから考えるわ」
ようやくお茶を口に運ぶ。温かかった。少しだけ、張っていた気持ちがほぐれた。
でも山の向こうを見ていると、夕焼けの赤の中に何か違う赤が混ざっているような気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。
---
## 【シーン8:夜】
夜。白玉楼は静かだった。
昼間まで聞こえていた木刀の音も消えて、庭には虫の声だけが響いている。妖夢は自室で眠り、幽々子の部屋からも穏やかな寝息が聞こえていた。月明かりに照らされた桜が夜風を受けてゆっくり揺れて、花びらが一枚、また一枚と地面に落ちていく。
その桜の木の下に、いつの間にか一つの影が立っていた。
人ではない。妖怪でもない。幽霊とも少し違う。生者と死者のどちらでもない、どこか曖昧な存在だった。
影は音もなく庭を歩き始める。いつの間にか、もう一つ。また一つと、その数は静かに増えていく。誰も気づかない。白玉楼は眠っている。
同じ頃、山の向こうの館は闇の中に静かに建っていた。窓は閉じたまま。門も開かない。物音ひとつしない。
でも館の奥深くで、何かがゆっくりと動いた。
音はない。気配もない。ただ館の闇がわずかに揺らいだ。
その直後、赤い霧が滲み始めた。血を思わせる深い赤だった。霧は廊下をゆっくりと這って建物全体に広がっていく。やがて結界の隙間からほんのわずかに外へ漏れ出した。
風に乗った霧が夜の闇に溶けていく。
白玉楼では死者の影が増えていく。館では赤い霧が広がっていく。離れた二つの場所で何かが始まっていたが、まだ誰も知らなかった。
---
## 【シーン9:目覚め】
翌朝。
白玉楼で妖夢がゆっくりと目を開けた。
どこか胸騒ぎがする。理由は分からない。それでも何かがおかしい。布団から起き上がって障子に手をかけ、静かに開いた。朝の光が差し込んでくる。
妖夢の動きが止まった。
庭に死者たちが立っていた。桜の木の下に、見覚えのない姿が集まっている。一人、二人、三人。その数は昨日と比べものにならない。しかも誰もが同じ方向を向いていた。まるで何かを待っているみたいに、じっと動かない。
「……なっ」
白玉楼で死者を見ること自体は珍しくない。でもこんな数は、こんな様子は、見たことがなかった。
同じ頃、博麗神社で霊夢は突然目を覚ました。何かに呼ばれたような感覚だった。理由はない。ただ胸騒ぎだけが心をざわつかせている。
霊夢は布団を抜け出して境内へ出た。朝の空気が冷たい。鳥居の向こうの山々を見渡す。
山の向こうの空がほんのわずかに赤く染まっていた。夕焼けでも朝焼けでもない。不自然な赤だ。
霊夢は目を細めた。
「……始まってほしくなかったけど、始まっちゃったわね」