BEYOND THE HURDLE ―遥かなるエイントリー― 作:砂丘
新潟へ向かう新幹線の車内で、私は何気なくスマートフォンの天気予報を開いた。
『新潟市 本日の最高気温38℃』
その横には『今年最高を更新』の文字。
「へぇ」
正直、その時はあまり気にしていなかった。
予定通り新潟駅へ到着し、予約していたレンタカーを受け取る。
そこまでは良かった。
問題はレース場だった。
駐車場からスタンドへ向かう途中。
照り返しを受けたアスファルトの熱気に思わず顔をしかめる。
「……暑っ」
今年最高気温。
なるほど、と私はようやく納得した。
土曜日開催のJGⅢ『新潟ジャンプステークス』
観客席は平地の大レースほど混雑していない。
その分、独特の熱気があった。
そこで私は、数人の障害ウマ娘を引き連れたブランカのトレーナーと顔を合わせた。
想像していたより穏やかな人物だった。
「話は聞いています」
開口一番そう言われる。
どうやら本当に許可を取りに行ったらしい。
ファンファーレが響き、ゲートが開く。
向こう正面の11号、12号障害を選手たちが次々と飛越していく。
私だって障害競走を走ったことはある。
だから彼女の飛越が上手い下手かくらいなら分かる。
でも、本当に凄い障害競走者が何を見て、何を考えているのかまでは分からない。
外回り第3・第4コーナーを回り、上り坂から13号障害へ。
ブランカは先頭集団を見る位置の4番手。
無理に前へ行かない。
けれど置いていかれているわけでもない。
ホームストレッチへ入り、1号、2号、3号障害を連続で飛越する。
彼女は障害の前で一切減速しない。
だけど飛越は乱れない。
さらに着地してから次の障害までのリズムも崩れない。
だが、あの飛越が「普通に上手い」のか。
「日本トップクラス」なのか。
「世界を目指せるレベル」なのか。
そこが問題だった。
4号障害を越えて内回りコースへ。
順位は3番手。
向こう正面に戻り、4号、5号障害を飛越。
タイトな内回り第3・第4コーナーを抜けて最終直線へ向かう。
最後の7号、8号障害。
ブランカは2番手で飛越した。
勝負圏内。
そう思った。
だが。
直線へ入った瞬間だった。
前を追う脚が鈍る。
一人。
また一人。
外から差されていく。
ゴール板を通過した時、ブランカの着順は5着だった。
レースが終わったブランカはタオルで汗を拭きながら、トレーナーと言葉を交わしていた。
特別落ち込んでいるようには見えない。
かといって納得しているようにも見えない。
この前と同じ表情。
同じ声のトーン。
違うのは掲示板に表示された着順だけだった。
「……悔しかった?」
するとブランカは少し考えてから、
「はい」
とだけ答えた。
「そう見えないんだけど」
「そうですか?」
「そうだよ」
彼女は悔しいと答えた。
けれど表情は変わらない。
耳も尻尾も動かない。
本当に悔しいのか。
それとも私がそう聞いたから答えただけなのか。
判断できなかった。
「ライブがありますので、失礼します」
彼女はそう言い残して去っていった。
その背中を見送りながら、小さく首を傾げる。
――やっぱり、よく分からない。
私は、隣に立つトレーナーへ視線を向ける。
「あの子って、いつもああなんですか?」
「ああ、とは?」
「いや、その……」
言葉を探す。
「負けても顔に出ないというか」
「何を考えてるのか分からないというか」
トレーナーは少しだけ考えた。
そして苦笑する。
「私もたまに分かりません」
「トレーナーなのに?」
思わず聞き返していた。
トレーナーは肩をすくめる。
「トレーナーだから、かもしれません」
「どういうことですか?」
「長く見ていると分かることもあります」
一拍置いて続ける。
「長く見ているからこそ、分からなくなることもあります」
私は思わず黙り込んだ。
「……難しい子なんですね」
「ええ」
トレーナーは小さく笑った。
「ですが、それがあの子です」
トレーナーと別れた頃には、もう次の組の準備が始まっていた。
スピーカーから場内アナウンスが流れる。
さっきまで走っていたレースも、この場所にとっては今日の一つに過ぎない。
当たり前だけど、時間は待ってくれない。
遠くから歓声が聞こえる。
私は振り返ることなく、そのまま駐車場へ向かった。
相変わらず暑い。
スタンドを離れても熱気はまるで変わらない。
レンタカーのドアを開ける。
熱気が一気に流れ出した。
「……暑っ」
思わず顔をしかめる。
エンジンを掛ける。
エアコンの風量を最大にするが、当然すぐには涼しくならない。
むしろ最初に出てくるのは生ぬるい風だった。
「ダメだこりゃ」
私は再び車を降りた。
少し離れた場所に自動販売機が見える。
せっかくだし何か飲もう。
財布を取り出し、冷たいスポーツドリンクを一本買う。
キャップを開ける。
一口。
二口。
ようやく人心地ついた。
車へ戻る。
今度はちゃんと冷たい風が出ていた。
「よし」
運転席へ腰を下ろす。
だが、すぐには発進しなかった。
今日のレースを思い返す。
飛越は綺麗だった。
レース運びも悪くない。
少なくとも私にはそう見えた。
けれど結果は五着。
そして本人は悔しいと言った。
なのに悔しそうには見えなかった。
トレーナーですら分からないと言う。
だったら私は何を見ればいいんだろうか。
窓の外では、夏空がどこまでも広がっていた。
私は小さくため息を吐く。
「……まあ」
エンジン音が静かに響く。
「まずは知るところから、か」
そう呟いて車を発進させた。