原始人戦記 ~原始時代に転生した自衛隊員の話〜   作:いぬがみとうま

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第1話:レンジャー、原始に立つ

 

 

 吹雪の夜だった。

 冬の山、その深夜の山岳演習は、地獄という言葉ですら生ぬるい。

 

 視界を埋め尽くす白い闇の中で、俺――陸上自衛隊第一空挺団所属、真壁一馬三等陸尉は、垂直に近い氷壁に張り付いていた。

 

 

「……離して、ください……隊長……ッ!」

 

 下から届くのは、絶望に震え、今にも途切れそうな田中の声だ。

 俺の右腕一本が、この若き隊員の命を繋ぐ最後の綱だった。

 

 田中の全体重に重い予備の装備、そして上方から容赦なく叩きつける突風が、俺の三角筋をミリミリと削り取っていく。

 

 普通なら、とっくに耐えきれなくなって滑落しているはずだ。

 だが、俺の心臓は驚くほど冷静に、刻み続けていた。

 

 過酷極まるレンジャー訓練で魂にまで叩き込まれた「生存への執着」が、今の俺の脳内を支配している。

 

 ――仲間を絶対に見捨てない。

 ――与えられた任務を、なんとしても完遂する。

 

 その狂気なまでの矜持だけが、震える筋肉を強引に岩肌に固定し続けていた。

 

 メキッッ

 

 不意に、凍てつく沈黙を切り裂く不吉な音が響いた。

 

 

 俺の身体を支えていたハーネスの支点――その岩棚そのものが、吹雪と衝撃によって脆くなっていた。

 

 亀裂が走り、細かい石の粒が闇へと吸い込まれていく。

 二人分の重さは、もはや耐えられない。

 

「隊長! このままじゃ、二人とも死んでしまいます……!」

 

 このまま粘れば、数秒後には仲良く谷底へ落ちるだろう。

 

 俺は一瞬、天を仰いだ。

 暗視ゴーグル越しに見えるのは、荒れ狂う雪の粒子が乱舞する緑色のノイズ。

 

 生存確率は、限りなくゼロに近い。

 

 ならば、選ぶべき道は一つだ。

 無駄な死を増やすのは、俺の仕事ではない。

 

「……田中」

 

「……はい、班長」

 

「お前は生きろ。これは命令だ」

 

 言葉と同時に、俺は筋肉の全細胞を燃焼させるつもりで最後の力を振り絞った。

 田中の身体を無理やり引き上げ、安定した岩の窪みへと力任せに押し込む。

 

 田中が驚きの声を上げた。

 

 その直後。

 俺の足場が、完全に崩落した。

 

 重力に捕まり、背後の暗闇へと身体が持っていかれる。

 視界が目まぐるしく回転し、上下の感覚が無くなった。

 

 不思議なことに、恐怖は微塵もなかった。

 

 ただ、「落下」という純粋な現象の中に、俺という存在が溶けていくのを感じた。

 俺は空挺団の人間だ。空から落ちるのは慣れている。

 

 今回は、開くべきパラシュートがない。

 ただ、それだけのことだ。

 

 

 激痛が来るはずだった。

 地面に叩きつけられ、骨が粉々に砕け、肉が裂ける衝撃が、俺を終わらせるはずだった。

 

 

 ――――――

 ――――

 ――

 

 

 ――臭い。

 

 鼻腔を突いたのは、獣の脂と、腐敗した草、そして処理されていない排泄物が混ざり合ったような、耐え難い悪臭だった。

 

「ウル……ウル……しっかりして」

 

 誰かが、鼻をすすりながら、何度も何度も名前を呼んで啜り泣く声だ。

 

 ……おれは、死んで、いないのか?

 

 重い瞼を、ゆっくりと、押し上げた。

 最初に視界に飛び込んできたのは、すすけた黒い岩の天井だった。

 岩の凹凸、そこから漏れる薄暗い光が、空中に漂う塵をぼんやりと照らしている。

 

「あ……ぅ……」

 

 声を出そうとした。

 喉の奥が乾き、張り付いていることに気づく。

 

 身体を起こそうとするが、指先一つ動かすことができない。

 経験がある。これは疲労ではない。内側からすべてを枯らしてしまったような、極度の栄養失調と衰弱の感覚だ。

 

「……ウル? ウル……!」

 

 誰かが顔を覗き込んできた。

 泥にまみれた顔。不潔に絡まった髪。ボロボロの、得体の知れない獣の毛皮を纏った少女だった。

 

 

 その口から漏れる言葉は、俺の知るどの国の言語にも属していなかったが、不思議と自分を呼んでいる(・・・・・・・・)ことだけは理解できた。

 

 俺は混乱しながらも、自分の腕を視界の中に入れようと試みた。

 

 絶句した。

 

 そこにあるのは、無数の傷跡と過酷な鍛錬によって鋼のように太くなったレンジャーの腕ではない。

 

 汚れにまみれ、皮が剥け、関節が不自然に浮き出た――枯れ枝のように細く、小さな少年の腕だった。

 

「……ここは、どこだ……?」

 

 掠れた声は、自分のものとは思えないほど高く、今にも消えてしまいそうなほどか細かった。

 洞窟の奥から、冷たい隙間風が吹き抜ける。

 

 真壁一馬としての人生は、あの極寒の雪山で幕を閉じたのだ。

 そして今、俺は名もなき少年の、あまりにも脆い肉体の中で、絶望とともに目覚めていた。

 

 目の前の少女が、涙を拭いながら俺の手を握る。その温もりだけが、今の俺が生きていることを証明していた。

 

 

 

 




――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――
6話まで読んでみてください!
「やめられない、止まらない」
を目指して書きました!
追ってくれると嬉しいです。
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