原始人戦記 ~原始時代に転生した自衛隊員の話〜   作:いぬがみとうま

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第2話:最悪の揺りかご

 

 不快極まりない。

 

 泥。あと獣の腐りかけた脂。そして、排泄物が蓄積して発酵した肺を突き刺すような異臭。

 それが俺の新しい世界の始まりだった。

 

 俺は湿った獣皮の上で、まずは指先を動かした。次に足首。それから膝。

 レンジャーとしての習慣だ。いかなる窮地にあっても、まず行うべきは「損害報告(ダメージレポート)」の作成だ。己の戦力がどれだけ残っているかを知らなければ、生存戦略の一文字も書けない。

 

 脳が全身に信号を送る。

 返ってくる反応は、重い虚脱感と、骨の奥が疼くような鈍痛だった。

 

 ゆっくりと身体を起こし、自分の身体を視診する。

 肋骨は皮一枚の下で醜く浮き出し、腹は栄養失調特有の不自然な膨らみを帯びている。腕は細く、指先には力強い握力の面影さえない。

 

 真壁一馬としての、三十二年にわたる鍛錬の成果。空挺団で作り上げた鋼の肉体は、あの雪山の断崖に置いてきたのだ。

 

 ――戦力評価:皆無。

 

 現状の俺は、戦闘員どころか家畜以下の存在だ。

 

「……ウル、起きたの?」

 

 傍らから、鈴を転がすような、だがどこか掠れた声が届いた。

 俺の手を握っていたのは、うっすらと記憶にある少女、リアだ。

 

 不思議な感覚だった。彼女の口から漏れる言葉の音は、俺の知らない母音と子音の組み合わせだ。それなのに、脳がその意味をダイレクトに翻訳し、日本語と同じ精度で俺に理解させていた。

 

「ああ。……なんとか、生きてる」

 

 掠れた声で応える。自分の声のあまりの弱さに、奥歯を噛みしめる。

 リアは安堵したように眉を下げ、泥の付いた生の根菜と、干からびた小動物の肉を差し出した。

 

「これ、食べて。ウルの分、残しておいたから」

 

 差し出された「食料」を凝視する。

 現代の基準で見れば、それは公衆衛生のかけらもない汚物に近い。だが、俺の胃袋は本能的な飢餓に突き動かされて鳴った。

 

 俺はそれをひったくるように受け取り、口に運ぶ。

 

 泥の味がした。そして、獣の脂の、鼻をつく酸っぱい臭い。

 だが、脳は命令を下す。これを食え。食わなければ、生存確率が下がる。

 

 咀嚼しながら、俺は周囲の偵察を開始した。

 

 ここは広い天然の洞窟だ。中央には弱々しい焚き火があり、その周りを十数人の男女が囲んでいる。

 

 彼らの目は、一様に濁っていた。

 生きようという意思が見えない。ただ、そこにあるのは、死が訪れる順番を待つだけの凍てついた空気だ。

 

 俺は現状を分析する。

 

 衛生状態:最悪。感染症が発生すれば、この集落は一週間で全滅する。

 火の効率:劣悪。薪の組み方が素人以下で、熱が外に逃げている。

 食料備蓄:絶望的。棚には何もなく、彼らの骨ばった体格が「蓄え」のなさを物語っている。

 

 俺がいるのは、まさに原始時代だ。

 この石器時代において、この部族の生存確率は間違いなく零。

 明日、巨大な猛獣がその牙を剥けば、それでこの歴史は終わる。

 

 その時。

 洞窟の入り口を塞いでいた影が、乱暴に跳ね除けられた。

 

「まだ生きていたのか、その役立たずのガキは」

 

 怒号とともに現れたのは、巨大な体躯を持つ男だった。

 ゴルゴン。

 腰に汚れた毛皮を巻き、その肩には筋骨隆々とした筋肉が鎧のように張り付いている。この飢えた集落において、彼とその取り巻きだけが、異様なほどの殺気を放っていた。

 

 彼らの手に獲物はなかった。手ぶらの帰還だ。その苛立ちが、言葉の端々に毒として混じっている。

 

「リア、なぜそんなゴミに肉を分ける? 戦えない奴に食わせる肉など意味がない」

 

 ゴルゴンがこちらを睨みつける。

 俺は咀嚼を止め、冷静にその男を観察した。

 

 重心は高い。足運びは粗野だ。

 前世の俺であれば、一秒もあればその喉仏を粉砕し、絶命させられる。

 だが、今の俺のこの腕では、彼が振り回す拳一つを避けることさえ難しい。

 

 この社会のルールは、ただ一つ。

 「力」という単一の物差しでしか価値を測れない。

 

「ウルは病気だっただけ! もう起きたんだから、すぐに動けるようになるわ!」

 

 リアが必死に庇う。彼女の細い肩が震えているのがわかった。

 彼女自身も、空腹で限界のはずだ。それなのに、自分の分を削ってまで俺を助けようとしている。

 

 情による行動ではない。俺は彼女の瞳に、この「死を待つ群れ」の中で唯一、生への執着の残り火を見た。

 

 俺は、彼女に借りを作ることに決めた。

 

「……騒ぐな、デカブツ」

 

 俺の声は、洞窟の壁に反響した。

 ゴルゴンが、耳を疑うように動きを止める。周囲の者たちも、驚愕に目を見開いた。

 今まで、ウルという少年は、きっとこの男にに逆らったことなどなかったのだろう。

 

「なんだと? 今、なんと言った、役立たず」

 

 俺はふらつく足取りで、リアに支えられながら立ち上がった。

 一歩、洞窟の出口へと進む。

 

 そこには、現代とは生えている木々の種類も違う、巨大で獰猛な原生林が広がっていた。

 冷たい風が、俺の汚れきった肌をなでる。

 

 俺は足元に落ちていた、鋭い石片を一つ、拾い上げた。

 指先に伝わる石の感触。これは「道具」であり、環境を支配するための「武器」の原型だ。

 

「ゴルゴン。お前が獲ってこれない獲物を、俺が獲ってきてやる」

 

 この時、俺の心臓が力強く鼓動を始めた瞬間だった。

 

 

 




――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――
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