原始人戦記 ~原始時代に転生した自衛隊員の話〜 作:いぬがみとうま
洞窟内を支配していたのは、湿った土の臭いと、いつも以上に強く感じる腐臭だった。
焚き火の爆ぜる音さえ、今のこの集落には絶望的な音に聞こえている。
広場の隅で、ゴルゴンが拳で岩壁を殴りつけていた。
皮の剥けた拳から血が滴っているが、彼は構いもしない。彼にとって、昨夜、大角熊に獲物を強奪された事実は、自尊心を粉々に粉砕される敗北そのものだった。
――軍事心理学的分析。
原始的な共同体において、リーダーの武勇は唯一の統合原理だ。その象徴であるゴルゴンが圧倒的な力に屈した今、組織の紐帯は限界まで引き絞られ、破綻の寸前にある。
彼が理性的判断を失い、獣に対する復讐という無意味で非合理な動機に駆られているのは、崩壊しつつある己の権威を繋ぎ止めるための、本能的な防衛反応と言えた。
そんな喧騒から離れた洞窟の最奥で、俺は黙々と作業を続けていた。
「……ウル、まだそれを削っているの?」
リアが不安げに覗き込む。俺の手にあるのは、堅い広葉樹の枝を削り出し、先端に独特の
「力とは何か、リア。それは単なる筋肉の量ではない。俺みたいな非力な者でも戦える……すなわち加速度と梃子の原理を、いかに効率よく一点に集中させるかだ」
「なにを言ってるか理解できないよ、ウル……」
真理がある。
石器時代の技術レベルであっても、
俺は手首の返しを完璧に伝えるためのカーブを削り出し、滑り止めの溝を彫り込んだ。
その時、広場が一段と騒がしくなった。
「行くぞッ! 動ける者は槍を持て! 奴を殺し、肉を奪い返す。それができないこの集落に、生きる価値などない!」
ゴルゴンの咆哮が響く。傷ついた戦士たちが立ち上がった。
俺は作業の手を止め、彼らの前に立った。
「やめておけ。今のその装備では、大角熊には勝てない。無駄死にを増やすだけだ」
俺の警告に、ゴルゴンが血走った瞳を向けてくる。
「黙れ、役立たずのガキが! 獲物を奪われて震えているだけの臆病者に、戦士の誇りを語る資格はない!」
――戦術的総括。
偵察を欠き、敵の防御能力を完全に無視した「正面突破」は、兵法上の禁忌だ。負傷者を抱えたままでの戦力の逐次投入。それは戦術ではなく、ただの集団自殺に過ぎない。
俺の制止を振り切り、ゴルゴンたちは森へと消えていった。
俺は溜息をつき、腰紐に予備の槍を差し込むと、リアを伴って彼らの後を追った。助けるためではない。この身体で、その実戦データを
原生林の深部。立ち込める霧の向こうから、凄まじい咆哮が轟いた。
大角熊が、奪った牙猪の肉を喰らっていた。
そこへゴルゴンたちが、怒号とともに突撃を仕掛ける。
「突け! 目を狙えッ!」
数本の槍が熊の体表を叩いた。
だが現実は、無惨なものだった。
槍先は熊の厚い皮に弾かれ易々と折れた。
熊の反撃は、一瞬だった。
大木のような前足が薙ぎ払われる。
回避行動さえ間に合わず、一人の戦士が跳ね飛ばされた。木に叩きつけられたその身体はへし折れる。
逃げ惑う男たち。ゴルゴンもまた、熊の圧倒的な突進をまともに受け、重傷を負って敗走を余儀なくされた。
――戦闘評価報告。
大角熊の打撃における破壊力は、現代の生物の限界を超えている。だが、観測の結果、一つの
奴の皮膚は、首の付け根と脇の下、そのわずかな隙間だけが、唯一、槍を通し得る。
日没。
集落に戻ってきたのは、泥と血に汚れ、魂を抜かれた抜け殻のような男たちだった。
部族最強と信じられていたゴルゴンの権威は、もはや失墜している。
絶望に沈む一同の前に、俺は完成したばかりのアトラトルを手に進み出た。
「……ウル、何をするつもりだ。もう終わりだ、すべて……」
族長バランが、力なく呟く。
俺は無言で、立ち枯れた一本の大木を見据えた。
槍をアトラトルの鉤にセットし、大きく振りかぶる。
空気が割れた。
凄まじい風切り音が洞窟に響き渡る。
放たれた槍は、人の手では不可能な初速で空間を切り裂き、乾いた大木に命中した。
ドォンッ、という、重い衝撃音。
槍は深々と木目に突き刺さっていた。
「……な、なんだ、今の……」
ゴルゴンが、震える声で漏らす。
俺は大木に歩み寄り、深く埋まった槍を抜かずに、彼らを見下ろした。
「力とは筋肉のことではない。敵を殺し、生き残るための方法のことだ。……明日、あの熊を殺しに行く。生きる意思がある者は、俺の知恵に従え」
部族の視線が、ゴルゴンから「ウル」という一人の少年へと移り変わった。
暴力の支配が終わり、知略による文明が産声を上げた瞬間だった。
――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――
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