荒野を進む二人の前に、じっとりと重い霧が立ち込めてきた。
大気の周波数が微かに乱れ、かすかな風の鳴き声と共に、遠くからこちらへ近づいてくる複数の気配がある。伴星が瞬時に漂泊者を受け止めるようにして庇い、腰の刀の柄に手をかけた。
その瞳が鋭く前方を睨みつける。彼の身体から放たれるピリついたオーラが、周囲の霧を物理的に押し返すほどに鋭利に尖っていく。
「誰かっ……! そこにいるのですか!?」
霧の向こうから現れたのは、青い髪の美しい少女──秧秧(ヤンヤン)だった。
彼女は手にした片手剣を微かに構えつつも、二人の姿を視界に捉えると、その瞳に驚きと、明らかな安堵の色を浮かべた。彼女の帽子に飾られた羽飾りが、大気の乱れを感知して微かに揺れている。
「……あ、残響(ザンキョウ)ではない……? 人、ですか……?」
「待って秧秧! 油断しちゃダメだって!」
その後ろから、大きな手袋を嵌めた活発そうな少女が、二挺の銃を構えながらハツラツとした声を上げて飛び出してきた。
赤髪の少女、熾霞(シカ)である。彼女はキョロキョロと二人を見比べ、銃口を微かに下げた。その大きな手袋が重々しい音を立て、腰のホルスターに収められた予備の弾倉がチャキリと擦れ合う。
「うーん、怪しい格好だけど……怪物の類じゃなさそうだね。ねえ君たち、こんな危険なハザード区域で何してるの? 戸籍のデータにもなさそうな顔だけど……」
張り詰めた空気の中、伴星は漂泊者を背後に隠したまま、静かに声を返す。
『俺たちも、自分たちが何者かが分からないんだ。気づいたらここで倒れていた。記憶が……ないんだ』
「記憶喪失……?」
秧秧はそっと剣を収めると、慈愛に満ちた瞳で二人を見つめた。
「そうだったのですね……。お辛いところを質問してしまい、申し訳ありません。ですが、ここは『哀悼の地』の近く。いつ高位の残響が現れてもおかしくない、非常に危険な荒野なのです」
熾霞も銃をホルスターに収め、ポンと自分の頭を叩きながら笑った。
「そっか、それじゃあしょうがないね! とにかく、こんな危ない場所にずっといるわけにもいかないし! あたしたちは今州(コンシュウ)の治安維持を担当している皇龍会(コウリュウカイ)のメンバーなんだ。二人の身元の確認も兼ねて、まずは安全な今州城まであたしたちが案内してあげるよ!」
『今州……?』
初めて耳にする地名に、伴星が怪訝そうに眉をひそめる。
すると、熾霞が自慢げに胸を張って、身振り手振りを交えながらハツラツと喋り出した。その瞳はキラキラと輝いており、彼女自身の内から溢れ出るエネルギーが、周囲の澱んだ霧を払うかのようだった。
「ええっ!? 今州を知らないの!? よーし、この天才銃士の熾霞ちゃんが教えてあげる! 今州ってのはね、瑝瓏(コウロウ)の六つの城の一つで、北方の防衛線を担う、めちゃくちゃ強くてカッコいい最前線の街だよ! あたしたち皇龍会は、その今州の平和を毎日守ってるってわけ!」
『最前線の街、今州……』
伴星は記憶の底を探るように口の中で呟く。
熾霞の屈託のない明るさは、殺伐とした荒野の空気を少しだけ和らげていた。彼女の言葉からは、最前線という過酷な環境でありながらも、そこに生きる人々の力強い息吹と誇りが感じられた。
道中、一行は今州城の外縁に位置する高台、「祈りの泉」へと差し掛かった。
そこは空中に不思議な水の粒子が浮遊する神聖な場所だった。周囲の岩肌には、古い時代の文字が刻まれており、水滴が重力に逆らうようにして上空へと昇っていく。
「ここは祈りの泉。今州の令尹(レイイン)である今汐(コンシ)様も、よくここを訪れて世界の安寧を祈られます」
秧秧が説明していると、突然、泉の中央に佇む巨大な水球が、激しく波打ち始めた。
大気がビリビリと震え、周囲の周波数が急激に乱れていく。
澄んでいた水が一瞬にして漆黒に染まりかけたかと思うと、今度は眩いばかりの純白の光を放ち始めた。
「な、何これ!? 水球の様子がおかしいよ!」
熾霞が銃を構えて警戒する。
その時、水球の表面に、巨大な龍の幻影──歳主『角(カク)』の姿が揺らめいた。
その威厳ある眼眸が水面の向こう側から現れ、荒野全体が息を呑むような圧倒的な静寂に包まれる。
龍の眼差しは、まっすぐに彼女と、その隣で彼女を庇うように立つ彼へと注がれた。
何かを確かめるような、あるいは長い時を経てようやく再会を果たしたかのような、深い沈黙。その後、水球は弾けるようにして元の静けさを取り戻した。
水滴が静かに泉へと落ち、波紋が広がっていく。
「今のは……歳主様? お二人を見て、何かを伝えたかったのでしょうか……」
秧秧は不思議そうに二人を見つめた。
行くあてもなく、名前すら持たない、世界のどこにも所属していない二人。だが、世界の根源である歳主がその存在を認識した。その異常な佇まいを見て、秧秧はふっと優しい微笑みを浮かべ、彼女へと語りかけた。
「名前も、行く先も思い出せない……まるで、世界の海をあてもなく漂う方のようですね。もしよろしければ、あなたが本当の名前を思い出すまで、私たちの間では、あなたのことを【漂泊者(ひょうはくしゃ)】と呼ばせていただけませんか?」
「漂泊者……。うん、嫌じゃない。むしろ、しっくりくる」
彼女──漂泊者がその名を受け入れると、秧秧は次に、彼女の隣に静かに佇む彼へと視線を向けた。
常に漂泊者の隣に位置し、彼女の動きに寸分の狂いもなく同調している彼の姿は、まるで惑星の軌道を巡る天体のようだった。
彼の鋭い眼差しは、周囲を警戒しながらも、その意識の半分以上は常に漂泊者の安全へと割かれていた。
「そして、漂泊者さんの隣で、彼女を静かに支えているあなた。まるで主星に寄り添い、共に夜空を往く伴星(ばんせい)のようです。あなたのことは、【伴星】とお呼びしてもいいでしょうか?」
『伴星……。俺が、漂泊者の伴星か』
彼──伴星はその呼び名を口の中で転がし、納得したように短く笑った。
『いいな、気に入った。俺はお前の【伴星】だ、漂泊者。何があっても、お前の軌道から離れず、お前を守り抜く』
付き合っているわけでも、愛の言葉を交わしたわけでもない。
けれど彼にとって、漂泊者の隣に立ち、彼女を守ることは、世界の物理法則と同じくらい「当然のこと」だった。その絶対的な特別扱いに、漂泊者の胸の奥で、昏く重い独占欲が静かに脈打つ。
(そう。君は私の伴星。私だけのためにその命がある。……絶対に、誰にも渡さない)
漂泊者は、他人の前での凛とした表情を保ったまま、伴星の手をきゅっと握り直し、その横顔を静かに見つめた。
そして、小さく息を吐くと、案内してくれている秧秧と熾霞に向き直り、高潔で美しい微笑みを浮かべた。
「秧秧、熾霞。素敵な名前をありがとう。私たちのために一生懸命、今州のことを教えてくれたり、新しい名前を考えてくれたり……あなたたちの優しさに、心から感謝するわ。まだ何も思い出せない私たちだけど、あなたたちが案内人で本当に良かった」
「え……っ」
大裟に媚びるのではなく、凛とした佇まいのまま、相手の親切の「本質」を突いて深く感謝する漂泊者。
その洗練された気遣いに、秧秧は胸が微かに高鳴るのを感じ、熾霞も「へへ、そんなお上品に感謝されたら、ヒーローとしてますます張り切っちゃうじゃん!」と、すっかり彼女に好意的な笑みを浮かべていた。
彼女たちの心は、漂泊者の放つ独特の気品によって、自然と武装を解かれていく。
過剰にベタベタせずとも、その気品ある言葉だけで相手を魅了してしまう。これこそが、漂泊者の持つ「程よい人たらし」の天性だった。
祈りの泉を後にし、今州城への中継地点へと続く険しい山道を歩む一行。
周囲の岩肌は浸食が進んでおり、時折、風が吹くたびに不気味な残響音が谷間にこだまする。危険な原生生物や残響の影が遠くに見え隠れする中、一行は慎重に進んでいった。
その道中、漂泊者の“人たらし”としての資質は、知性と自然な思いやりという形で発揮されていた。
足場の悪い崖際を通る際、漂泊者は記憶喪失の身でありながらも、さりげなく周囲の警戒を行い、秧秧が風の周波数を読むことに集中できるよう、一歩下がってサポートに回った。
直接手を引くような過剰な接触ではなく、相手の職務を尊重したスマートな気遣いだった。
それに気づいた秧秧が、嬉しそうに目を細める。彼女の手にする剣の柄から、緊張の力が抜けていくのが分かった。
「漂泊者さん、ありがとうございます。あなたの細やかな気配りのおかげで、周囲の残響の動きをより正確に察知できます」
「いいえ、秧秧の風の誘導が的確だから、私も自然に動けるの。お互い様よ」
漂泊者は静かに微笑み、事実に基づいたリスペクトを告げた。
また、熾霞が道中の危険区域や、今州の夜帰軍についての話を誇らしげに語っていると、漂泊者は相槌を打ちながら、彼女の話を真剣に、そして深い信頼を込めて聞き入った。
熾霞が過去に戦った小さな残響との小競り合いの話すらも、漂泊者はまるで偉大な英雄の譚を聞くかのように真摯に耳を傾けた。
「熾霞の話を聞いていると、今州がどれほど勇敢な人々に守られているかがよく分かるわ。あなたのその明るさは、きっと多くの仲間を励ましてきたのでしょうね」
「わ、わわっ、そんなに褒められたら照れるじゃん! あたしはただ、みんなのヒーローになりたいだけだよ!」
熾霞は嬉しそうに顔を真っ赤にしながら、さらに張り切って周囲の警戒を買って出た。
彼女の二挺の銃が、今度は誇らしげに彼女の腰で揺れている。
誰もが、漂泊者の持つ「凛とした強さ」と「他者を自然に肯定する包容力」に、心地よく惹きつけられていく。その知的な会話術は、意図して仕組まれたものではなく、彼女の魂の奥底から溢れ出る本質的な高潔さによるものだった。
しかし、伴星は知っている。
ふと休憩のために少女たちが少し席を外した一瞬、漂泊者はすっといつもの涼しげな顔を緩め、隣に座る伴星の肩にコテン、と頭を乗せてくるのだ。
その瞬間だけ、彼女の瞳からは「救世主」としての光が消え、ただ一人の男に甘えたいだけの少女の瞳に変わる。
「ふぅ……みんな素敵な人たちだね。でも、やっぱり一番落ち着くのは、君の隣。伴星の匂い、すごく安心する」
『はいはい、お疲れ様。人たらし隊長さん。あんなにスマートにみんなの心を掴んでおいて、俺の前ではこれかよ。贅沢な相棒だぜ、全く』
伴星は苦笑しながら、彼女の小さな頭を優しく撫ぜ、自身の身の丈ほどもある大きな上着を彼女の肩にふわりとかけてやった。その布地には、彼の体温がしっかりと残っており、漂泊者はそれを愛おしそうに引き寄せた。
「君の特等席は、誰にも譲らないからね」
そう言って、伴星の服の袖をぎゅっと握りしめる漂泊者。
他人の前で見せる「完璧な救世主」としての顔と、自分の前だけで見せる「甘えん坊な少女」の顔。
そのあまりにも愛おしいギャップを独占できていることに、伴星は魂の底から満たされるのを感じていた。彼は彼女の髪に指を滑らせ、その柔らかさを確かめるように何度も撫でた。
祈りの泉から今州城への中継地点となる、皇龍会の前線野営地。
簡易的なテントがいくつか張られ、周囲には医療物資の箱や周波数測定器が並べられている。夜帰軍の兵士たちが時折、怪我の手当てを受けに往来する、張り詰めた前線の空気が漂う場所だった。
秧秧からの緊急通信を受け、二人を待っていたのは、白く冷徹なオーラを纏った華奢な女性──今州のエリート研究員であり、医師でもある『白芷(ビャクシ)』だった。
「秧秧、通信の件は本当なのね。記憶を失い、既存の戸籍にも該当しないという二人とは、彼らのこと?」
白芷は冷徹な、けれど知性に満ちた瞳で伴星と漂泊者を一瞥した。
二人は過度にベタベタしているわけではない。
しかし、互いの距離感が完全に「ゼロ」であることは、一目見れば分かった。並んで椅子に腰掛けるその姿は、互いの気配を完全に把握し合っている熟練の兵士のようでもあった。
彼女の手が微かに動けば、彼の重心がそちらへ傾く。その無意識の領域での同調に、白芷の鋭い観察眼が留まった。
「ええ、白芷さん。お二人の健康状態と、共鳴因子(エネルギー)の数値を調べていただきたくて」
「わかったわ。少しじっとしていて」
白芷は自身の浮遊する音骸「憂悒(ゆうおう)」を呼び出し、冷気を含んだ光を二人に照射した。氷結晶のような美しい光の粒子が、二人を包み込みながらスキャンしていく。
しかし、端末に表示されたデータを見た瞬間、冷静な白芷の顔に、明らかな動揺が走る。
彼女の美しい眉が不自然に跳ね上がり、ホログラムディスプレイを操作する指先が微かに止まった。
「……これは、どういうこと? 二人とも身体は完全に健康。それなのに……脳の記憶領域だけが綺麗に欠落している。それどころか、この共鳴周波数の波形は何? 既存のどのカテゴリにも属さない、まるで世界の『根源』そのもののような音……」
白芷は驚愕を隠せないまま、漂泊者と、その隣で彼女の動向を鋭く見守っている伴星へと視線を移した。端末のグラフは、二人の周波数が互いに絡み合い、一つの巨大な「球体」のような完全なバランスを形作っていることを示していた。
「あなたたち、一体何者なの? これほどの異常な数値を出しながら、精神が完全に同調して安定しているのは、互いが互いの『安全弁』になっているからとしか説明がつかないわ。……特にあなた(伴星)、彼女の存在があるからこそ、その強大すぎる周波数を制御できているのよ」
『俺が、漂泊者の安全弁、か。理屈はわからないが、俺の居場所はここ(お前の隣)だけだってことだな』
伴星が淡々と、けれど絶対の事実として言うと、漂泊者は静かに目を細めた。
彼女の瞳にも、彼を絶対に離さないという無言の首肯が宿っていた。
白芷は二人のあまりにも排他的な繋がりに、ため息をひとつついた。冷徹な研究者としての好奇心以上に、この二人が世界にもたらす影響の大きさに危惧を覚えたのだ。
「これ以上の詳しい検査は、今州城の研究所で行う必要があるわね。……今州の令尹、今汐様にもこのデータを共有します。秧秧、熾霞、城門へ向かう途中も、決してこの二人から目を離さないで。この周波数は、高位の残響を惹きつける可能性があるわ」
白芷のその警告は、あまりにも早く、最悪な形で現実となる。
白芷の野営地を後にし、今州城を囲む険しい渓谷へと足を進めた一行。
両脇にそびえ立つ巨岩が空を狭く切り取っており、細い一本道が奥へと続いている。
城門まであとわずかというその場所で、突如として大気が不気味な黒い霧に覆われた。大気が不吉な重低音を奏で、世界が反転したかのような「悲鳴」の波動が周囲を包み込む。
空間がガラスのように激しく粉砕され、そこから姿を現したのは、巨大な一対の漆黒の翼と、顔を持たない人型の輪郭を持つ、災厄の具現化──『無冠者(むかんしゃ)』だった。
その存在自体が、大気の周波数を物理的にねじ曲げ、周囲の岩石を砂へと変えていく。
「な、嘘でしょ……!? なんでこんなところに『無冠者』がいるのよ!?」
熾霞の声が恐怖に震えるが、すぐにその瞳に闘志が宿る。
無冠者は、顔のない頭部をゆっくりと回すと、その背後から溢れ出た不気味な黒い残響エネルギーを一点に収束させ、禍々しい「黒き長槍」を生成した。槍の穂先から、空間を溶かすような黒い炎が立ち上る。
「みんな、下がって! 熾霞、援護を!」
「了解! 蜂の巣にしてあげる!」
秧秧が鋭く風の刃を纏わせながら突撃し、無冠者の足元を切り裂く。彼女の剣先から放たれた無数の風の進路が、無冠者の漆黒の外殻を激しく叩いた。
同時に熾霞が超高速で二挺の銃を連射し、炎の弾丸が無冠者の外殻で激しく爆発した。
紅蓮の炎が渓谷を照らし、硝煙の匂いが一瞬で立ち込める。息の合った皇龍会の二人の猛攻。
しかし、無冠者はその翼を一閃させるだけで、風の刃も炎の弾幕も一瞬で掻き消してしまった。圧倒的な絶対強者の拒絶だった。
「くっ……! 力が強すぎます……!」
無冠者が長槍を大きく一閃させると、凄まじい衝撃波が渓谷を吹き荒れた。
大地が爆裂し、その圧倒的な風圧によって、熾霞と秧秧は必死に武器を構えながらも後方の壁へと叩きつけられ、一時的に行動不能に陥る。岩壁にヒビが入り、凄まじい土煙が舞い上がる。
そして、その直撃の軌道上に残されたのは、漂泊者だった。
『漂泊者──ッ!!』
伴星の叫びが響く。
思考よりも早く、伴星の身体は地を蹴っていた。
限界を超えた速度で漂泊者の前に滑り込み、迫り来る無冠者の槍の突きを、自らの刃で受け止める。
ギギギギギギギッ!!
金属と長槍の鋭利な刃先が激しく擦れ合い、周囲の岩盤を消し飛ばすほどの火花が散った。
伴星の足元の地面が、その強烈な圧力によってひび割れ、深く陥没していく。
無冠者は長槍を器用に回転させると、伴星の刃をいなし、今度は槍の石突きで伴星の胸元を強烈に殴りつけた。防護を固める間もない、冷酷で完璧な一撃だった。
『くっ……!』
凄まじい衝撃に伴星の身体が後方へと吹き飛ぶ。
しかし、伴星は倒れなかった。
地面に刃を突き立てて踏みとどまると、血の混じった唾を吐き捨て、再び地を蹴って無冠者の懐へと飛び込む。彼の放つ光の周波数が、限界を超えて鋭く輝きを増していく。
光の軌跡を描く刃が、無冠者の胴体を捉えようとしたその瞬間。
無冠者は漆黒の翼を羽ばたかせて上空へと跳躍し、長槍を天へと掲げた。槍の穂先に莫大な黒い周波数が集束し、それは巨大な光の槍へと膨れ上がる。渓谷の空が、その黒い光によって完全に覆い隠されていく。
「オオオオオオオオオオッ!!」
無冠者が咆哮とともに、上空からその長槍を伴星めがけて全力で投擲した。
一筋の黒い雷光となった槍が、超音速で迫り来る。その速度は、大気を引き裂き、ソニックブームの凄まじい爆音を周囲に轟かせた。
『うおっ……!』
伴星は自身の全周波数を刃に込め、その滅びの投槍を正面から迎え撃った。
ドグォォォン!!
渓谷全体が陥没したかのような大爆発が巻き起こる。
伴星は長槍の直撃をその刃で受け止め、受け流そうとした。
しかし、無冠者はすでに空中で別の長槍を生成し、自らも超高速で降下。伴星が防いでいる槍の頭を、自らの足で踏み抜くようにして圧力をかけた。二重の衝撃が、彼の肉体を容赦なく破壊しにかかる。
質量、エネルギー、精度。そのすべてが伴星の肉体を蝕んでいく。骨がきしむ音が彼の体内から響いた。
『が、あああッ!!』
伴星の長槍のガードが突き破られ、無冠者の槍の穂先が彼の肩口を深く貫いた。
鮮血が激しく飛び散り、灰色の土壌を赤く染めていく。
無冠者は冷酷に槍を引き抜き、伴星の身体を無残にも岩壁へと叩きつけた。ドサリ、と力なく地面に落ちる伴星。その手から、完全に刃が滑り落ちた。
彼を包んでいた光の周波数が、微弱に明滅し、消えかけていく。彼の視界が血の赤に染まり、呼吸が激しく乱れる。
『ハァ、ハァ……』
血に染まりながらも、なお漂泊者を見つめ、無言で立ち上がろうとする伴星。
彼は震える手で再び刀の柄を掴もうとした。自分ではなく、彼女を守るためだけに、その肉体はまだ動こうとしていた。
その光景を見た瞬間。
漂泊者の世界から、すべての音が完全に消え去った。
(あ……)
脳裏を過ったのは、記憶を失う前の、あの暗黒の深淵での約束。
世界のすべてを忘れても、自分のためだけに傷つき、血を流し、それでも自分を守ろうとしてくれる、たった一人の『伴星』。
その彼が、目の前で、あの醜悪な槍に貫かれ、血を流している。
その冷酷な事実が、漂泊者の胸の奥に眠る「創造主としての絶対的な神威」と、それを遥かに隆起させた「底なしの、昏く狂おしい独占欲」のトリガーを、完全に引き絞った。彼女の胸の中で、理性を焼き尽くすほどの凄まじい黒い感情が爆発する。
「……私の、たった一人の伴星に……」
漂泊者の声が、低く、冷たく、大気そのものを凍らせるような響きを帯びて荒野に落ちる。
彼女の身体から、これまでの比ではない、黄金と漆黒が混ざり合った圧倒的な周波数の光が爆発的に噴出した。
渓谷に溜まっていた黒い霧が一瞬で吹き飛ばされ、空に巨大な「回生の紋章」が浮かび上がる。その巨大な紋章から放たれる重力波が、周囲のすべての存在をひれ伏せさせるように圧迫した。
「……その汚い槍で、二度と彼に触れるな」
漂泊者は、ゆっくりと無冠者の方を振り向いた。
その瞳は、圧倒的な殺意と独占欲でドロリと濁っていた。彼女の手のひらに、世界の理そのものである未知のエネルギーが収束し、世界を再定義するような「音の塊」が形成されていく。
無冠者すらも、その圧倒的な格の違い(神威)に、初めて恐怖するように、明確に後退りした。怪物の顔のない頭部が、初めて怯えの小刻みな振動を見せる。
「ハァーーッ!!」
漂泊者は地を蹴った。その動きは光そのものだった。
無冠者が慌てて長槍を構え、迎撃の突きを放つが、漂泊者はその槍の刃先を指先ひとつで弾き飛ばした。パリィィィン! と無冠者の誇る長槍が根元から粉々に砕け散る。空間に音の破片が飛び散った。
「ガ、ア……!?」
驚愕する無冠者の懐へ一瞬で肉薄し、手元に凝縮された破壊の周波数を、怪物の胸元へと容赦なく叩き込む。
ドガァァァン!!
無冠者の巨体は岩壁へと叩きつけられ、その強固だったはずの外殻が粉々に砕け散る。無冠者は必死に新たな長槍を生成しようとするが、漂泊者はそれを許さない。
宙を舞いながら、容赦のないエネルギーの弾幕を何度も何度も叩き込み、無冠者の四肢を、そしてその背の翼を完全に破壊し尽くしていく。
光が爆裂するたびに、無冠者の漆黒の身体が削り取られ、空間がその凄まじい威力で悲鳴を上げた。
それは戦闘ではなく、ただの「蹂躙」だった。
自分の伴星を傷つけた不届き者に対する、苛烈極まる処刑。彼女の攻撃には一切の躊躇もなく、完璧なまでの冷酷さと破壊の意思だけが満ちていた。
「消えなさい。二度と、私たちの前に現れないで」
漂泊者が最後の一撃を放ち、無冠者の胸核を完全に消滅させた。
巨大な災厄であったはずの無冠者は、自らの武器であった槍の破片とともに、黒い霧となって完全に霧散していった。渓谷に吹き荒れていた不気味な嵐が、一瞬にして凪へと変わる。
無冠者を完全に消滅させた荒野に、静寂が戻る。
しかし、漂泊者の暴走したエネルギーは、まだ収まっていなかった。
彼女の身体からは、制御を失った禍々しい周波数の光が立ち上り、周囲の空間を歪め続けている。その瞳は、まだ敵を探すようにギラギラと濁っていた。周囲の小石が彼女の放つ重力によって宙に浮遊し、不規則に回転している。
「漂泊者さん……!? 息が荒い……大丈夫ですか……!?」
秧秧が恐る恐る近づこうとするが、その圧倒的な威圧感の前に、一歩も近づくことができない。風の衣を纏ってなお、漂泊者の放つエネルギーの熱に圧されて肌がピリピリと痛むほどだった。
白芷もまた、異常な数値を叩き出す端末を見つめ、静かに息を呑んでいた。画面には、計測不可能な限界値を示す警告灯が真っ赤に明滅している。
その、誰も近づけない暴走する神の領域に、躊躇いもなく足を踏み入れた者がいた。
『……おい、漂泊者』
槍で貫かれた肩を押さえ、血を拭いながらも、確かな足取りで歩み寄ってきた伴星だった。彼の足跡には、ポタポタと赤い血が滴っている。だが、その瞳には一切の迷いも恐怖もなかった。
「……来ないで! 近づいたら、君までこの力に巻き込んで、消しちゃうかもしれない……!」
漂泊者が静かに拒絶の声をあげる。彼女の周囲の空間が、彼女自身の叫びと同調して激しく歪んだ。
しかし、伴星はそんな彼女の言葉を意に介さず、ただ真っ直ぐに彼女の前に立った。
そして、暴走するエネルギーが自分の肌をかすめて血が流れるのも構わず、彼女の肩を、正面からがしりと力強く抱きしめた。その強引で、けれどこの世で最も優しい抱擁。
「っ……!? あ……」
衣服越しに伝わってくる、伴星の力強い心臓の鼓動。肩の傷から伝わる生々しい彼の熱。
その熱が漂泊者の身体に触れた瞬間、嘘のように彼女の暴走が静まり返っていった。
白芷が言った通り、彼は彼女の完璧な「安全弁」であり、魂の拠り所だった。禍々しい光は消え去り、元の静けさが戻ってくる。宙に浮いていた小石が、バラバラと地面に落ちた。
『悪かったな、心配させて。でも、もう大丈夫だ。俺はここにいる。お前の、伴星だからな』
伴星は彼女の背中に手を回し、しっかりと、けれど過度な甘えを排除した確固たる相棒の距離感で彼女を支えた。
互いの命を完全に預け合っている二人の沈黙には、恋人同士のそれとはまた違う、異様なほどに強固な絆が満ちていた。それは宇宙の法すらも書き換えるほどの、二人だけの絶対的な約束だった。
漂泊者は伴星の胸にそっと額を預け、小さく、けれど逃がさないように彼の衣服の布地を強く握りしめた。彼の胸に顔を埋めると、世界のすべてのノイズが消え去り、彼の鼓動の音だけが彼女を満たしていった。
「……約束だよ。もう二度と、私の前から消えかけたりしないで。もし次があったら……本当に、世界ごと君を閉じ込めるから」
「──そこまでだ」
低く、地を幾うような重厚な声が渓谷に響き渡った。
空間の歪みが完全に収まったその瞬間、背後の崖上から数条の凄まじい緑の光が降り注ぎ、周囲の警戒態勢を瞬時に整えた。重厚な甲冑を身に纏い、手には巨大な長槍型の大剣を携えた男が、風を割って二人の前に降り立つ。
夜帰軍の最高帥──忌炎(キエン)だった。彼の纏う緑の周波数が、周囲の淀んだ大気を完全に浄化するように爽やかな風を巻き起こす。
彼の背後には、統率された夜帰軍の精鋭たちが一斉に散開し、未だ残響エネルギーが燻る戦場を包囲する。全員が訓練された無駄のない動きで、周囲の残響の残滓を排除しにかかっていた。
「忌炎将軍……!」
秧秧と熾霞が、驚きと安堵の声を漏らす。
今州の前線を守る最高責任者が、自ら軍を率いてこの場に急行したのだ。熾霞はすぐに居住まいを正し、将軍に対して敬礼を捧げた。
忌炎の鋭い眼光が、まずは消滅した無冠者の残滓を捉え、そして地面に刻まれたクレーター、粉々に砕け散った漆黒の槍の破片へと移る。最後に、その視線は、血を流しながらも漂泊者を庇うように立つ伴星と、その胸に額を預けている漂泊者へと固定された。彼の武人としての直感が、二人の異質さを瞬時に見抜いていた。
「今州の近くでハザード級の異常な周波数を感知し、軍を率いて直行したが……まさか、既に片付いているとはな」
忌炎は静かに武器を収めると、二人へと歩み寄った。
その一歩一歩には、戦場を幾度も潜り抜けてきた武人特有の、圧倒的な威圧感が宿っている。
だが、その瞳にあるのは敵意ではなく、純粋な驚愕と深い警戒だった。瑝瓏を脅かす最大級の残響を、目覚めたばかりの存在が瞬殺したという事実は、彼にとって想定外だった。
「これほどの規模の残響を、皇龍会の斥候だけで討伐できるはずがない。……君たちがやったのか?」
伴星は、忌炎の放つ強烈なオーラに気圧されることなく、漂泊者の肩を抱いたまま、真っ直ぐにその視線を受け止めた。彼の瞳には、一軍の将を前にしても一切の怯えはなかった。
『俺たちは……ただ、襲ってきた怪物を倒しただけだ。それ以上でも、それ以下でもない』
その一切の物怖じをしない伴星の態度、さらに白芷が自身の端末を忌炎に見せながら、冷静な声で報告を入れる。
「将軍、彼らのデータは既存の常識を遥かに超越しています。無冠者を単独で蹂躙したその力……早急に今州城での精密検査と、令尹様への報告が必要です」
忌炎は白芷のデータを確認し、微かに眉をひそめた。
二人の間に流れる、他者を一切寄せ付けない特殊な空気。
互いが互いの世界であり、その絆を脅かすものは神であろうと災厄であろうと容赦なく排除する──先ほど無冠者を取り押さえたであろう、その凄まじい「破壊の痕跡」が、何よりもそれを物語っている。その破壊の跡は、精緻でありながらも圧倒的な暴力を内包していた。
「将軍、このお二人は記憶を失われており、名前も持っていませんでした。ですが、そのあまりの強大さと、互いを支え合う姿から、僭越ながら私から『漂泊者』、そして『伴星』という呼び名を提案させていただきました」
秧秧が前に出て、忌炎にこれまでの経緯を説明する。
忌炎は秧秧の言葉を静かに聞き届け、再び二人の名を反芻した。その名を口にする彼の表情には、世界の新たな歯車が動き出したことへの深い覚悟が滲んでいた。
「漂泊者、そして、伴星……。世界の安寧を揺るがすほどの力を持ちながら、互いを縛り合うことで均衡を保つ天体か。……いいだろう。身元の確認と保護も含め、我が夜帰軍が今州城の門まで直々に護衛する。付いてきてもらいたい」
忌炎はそう告げると、踵を返して全軍に撤収と護衛の命令を下した。
彼の背中は、怪物を一瞬で蹂躙した二人の力を認めつつも、今州の令尹・今汐にこの存在を早急に引き合わせるべきだと判断した軍師としての冷徹な輝きを放っていた。軍の隊列が整い、二人の周囲を手厚く囲むようにして移動が開始される。
夜帰軍の手厚い護衛を受けながら、渓谷の険しい道を通り抜け、一行はようやく今州城の堅固な城門へと到着した。
城内は、外の荒野の緊迫感とは打って変わり、活気にあふれていた。
独自の技術で制御されたエネルギーの光が街を照らし、多くの人々が行き交っている。伝統的な東洋の建築と、高度な周波数テクノロジーが融合したその美しい街並みは、世界の崩壊に抗う人類の知恵の結晶そのものだった。
門をくぐる際、忌炎は足を止め、伴星と漂泊者の二人を振り返った。
「これより先は、皇龍会と令尹の管轄となる。君たちの力は、今州にとって大いなる希望となるか、あるいは……。だが、少なくとも無冠者から我が兵と今州の地を守ってくれたことには、感謝する」
忌炎は生真面目に頭を下げると、夜帰軍を率いて前線基地へと戻っていった。
その引き際の鮮やかさと義理堅さは、まさに一軍の将そのものだった。彼の背中を見送りながら、伴星はこの今州という街が持つ統率力の高さを改めて実感していた。
「さあ、お二人とも。まずは安全な宿舎へご案内しますね。令尹の今汐様には、私と忌炎将軍の双方から、お二人の活躍を報告しておきます」
秧秧の案内を受けながら、伴星と漂泊者は、賑やかな市場を通り抜けていく。
宿舎の前では、令尹の忠実な側近である散華(サンカ)が、冷徹な氷の周波数を纏いながら、寸分の隙もない完璧な立ち振る舞いで彼らを待ち受けていた。彼女の周囲には微かに霜が降りており、その青い瞳はすべてを見通すように冷淡だった。
「お待ちしておりました、漂泊者様、伴星様。私は令尹・今汐様の側近を務める散華と申します。前線での無冠者討伐の見事な戦いぶり、今州を預かる身として、心より感謝申し上げます」
散華は感情の起伏を一切見せない、氷のような瞳で二人を見つめた。
彼女の任務は、この出所不明の強大すぎる力を持つ二人を監視し、今州にとっての脅威であるかを見極めること。彼女の手は常に腰の剣に添えられており、一歩の狂いもない完璧な護衛の構えを崩さない。
伴星は少し警戒の色を見せたが、漂泊者は伴星の隣に並ぶと、散華の凍てつくような眼差しを真っ直ぐに見つめ返し、気品に満ちた、静かで温かい微笑みを浮かべた。
「お出迎えありがとうございます、散華。道中、秧秧や熾霞から、あなたの素晴らしいお話を伺っていました。今州の平穏と、令尹・今汐様を誰よりも深く見守っていらっしゃる、気高く誠実な方だと。初対面の私たちを警戒されるのは当然のことです。それだけ、あなたがこの街を大切に想っている証拠ですから。散華、その真摯な瞳に出会えて、私は心から光栄に思います」
漂泊者は、散華の持つ剣の柄にそっと視線を落とし、敬意を込めて小さく頭を下げた。
直接触れることはせず、言葉と態度だけで、相手の職職とその誇りを完璧に肯定したのだ。漂泊者の放つ言葉には、相手を操作しようとする邪念がなく、ただ純粋な理解だけが示されていた。
散華は、自身の胸の奥で、張り詰めていた警戒の氷が静かに融けていくのを感じていた。
この漂泊者という少女には、決して媚びるわけではなく、その凛とした佇まいのまま相手の本質を見抜き、一瞬で信頼の絆を結んでしまう、本物の「程よい人たらし」の才能があった。散華の冷徹な仮面の下に、微かな動揺と、それ以上の深い敬服が芽生える。
「……漂泊者様、あなたという方は……。分かりました。今汐様への謁見の間、お二人の身の安全と、ここでの快適な生活は、この散華が責任を持って保障いたします。今夜はどうか、戦いの疲れを癒してください」
散華は深く一礼した。
その仕草には、先ほどまでの事務的なそれとは異なる、確かな敬意が宿っていた。彼女の氷の周波数が、微かに柔らかな光へと変化したのを、秧秧は見逃さなかった。
宿舎の部屋へと案内される道すがら、ベタベタと密着することはせず、適切な距離を保って歩く二人。しかし、その歩調は完璧に同調しており、互いの視線の端には常に互いの姿があった。
『へえ、活気のあるいい街だな、漂泊者。それに、あの氷の側近様まで一瞬で味方にしちまうんだから、やっぱりお前は凄いな』
伴星が周囲を見渡しながら、隣を歩く漂泊者に話しかける。
「うん。でも、街がどうであっても、誰が相手であっても、私の本物は君だけよ。君が隣にいてくれればそれでいい」
漂泊者は、短く、けれど深い響きを込めてそう答えた。
記憶を失った二人の、世界の調和を巡る本当の旅は、この今州城の地から、いよいよ本格的に幕を開ける。
夜帰軍の護衛のもと、伴星と漂泊者が今州城の巨大な城門へと近づきつつあったその頃。
城内で最も高い場所に位置し、街のすべてを見渡すことができる令尹の庁舎。
その静謐な執務室で、今州の若き最高権力者──今汐は、手元に届けられた白芷からの診断データと、忌炎将軍からの直筆伝令をじっと見つめていた。
室内に焚かれた微かな香の煙が、彼女の沈鬱な表情を白く霞ませている。
報告書に記された、ハザード級残響『無冠者』を圧倒したという、目覚めたばかりの二人の共鳴者。
その文字をなぞる今汐の脳裏に、十数年前の、まだ自分が幼く過酷な運命に泣いていた頃の記憶が鮮烈に蘇る。
当時、瑝瓏の過酷な天災によって家族を失い、冷たい雨の中で絶望の淵にいた自分を救い出し、優しく手を引いてくれたのは漂泊者だった。
そして、その隣で、泥まみれになりながらも自分を狙う残響をすべて叩き伏せ、実の兄のように、あるいはそれ以上の熱い眼差しで自分を肯定し続け、その大きな掌で何度も頭を撫でてくれたのが、彼──【伴星】だった。
幼い今汐にとって、伴星は淡い初恋の対象であり、同時に「漂泊者の一番近くにいる、決して手の届かない憧れ」そのものだった。彼の放つ言葉の一つ一つが、彼女が令尹としての重責を全うするための、心の唯一の支えだった。
「また会えるのですね。けれど……貴方はもう、私を覚えてはいない……」
今汐はそっと報告書を胸に抱きしめ、天を仰いだ。窓の向こうには、夕暮れに染まる今州の街並みが広がっている。この美しい景色を守る力をくれたのは、他ならぬ彼だった。
歳主からの神託で、二人がいずれすべての記憶を失ってこの地に帰還することは角からの情報で知っていた。
立派に令尹として成長した今の姿を見せれば、かつて子供扱いされてもどかしかったあの頃とは違う、一人の女性として彼に寄り添えるかもしれない──そんな淡い期待を、ずっと胸に秘めて街を背負ってきたのだ。
しかし、白芷の報告書に綴られた「現在の二人の有様」が、今汐の胸に冷たいさざ波を立てる。
『二人の周波数は完全に反転・融合しており、互いが互いの安全弁として、他者の介入を一切許さない完璧な調和を保っている』
かつて幼い自分が遠くから見上げていた、あの「二人の完成された世界」。
それが、記憶を失ってなお、何一つ変わらずに(むしろ無冠者への怒りでさらに強固になって)そこに存在しているという冷酷な事実。どんなに時が流れ、自分の立場が変わろうとも、彼の特別な視線の先に自分が座ることはできないという現実。
「ずるい、です……伴星様……」
今汐は、自身の衣服の胸元を、指先が白くなるほど強く握りしめた。その瞳から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ち、ホログラムの報告書の上で儚く弾けた。
命を賭けて漂泊者を守り、その暴走を抱きしめて鎮めたという彼の相棒としての高潔さには、令尹として深く感謝している。
けれど、一人の少女としては、記憶をなくしてなお漂泊者の「特別席」に当然のように収まり、彼からの重い執着を一身に浴びている漂泊者の姿が、羨ましくて、少しだけ恨めしくて、胸がちくちくと痛む。彼の安全弁である漂泊者は、同時に他の誰の介入も許さない冷酷な壁でもあった。
(貴方は私に『強い子だ』と言ってくれました。けれど、今の私は……漂泊者様と貴方の間に、少しも入り込めない己の弱さに、こんなにも惑わされています……)
かつての淡い初恋と、漂泊者への憧憬。その重い感情が、二人のいない時間の中で静かに加速し、今、歪なノイズとなって今汐の心を締め付けていた。
彼女の心の中で、かつての純粋な憧れは、時を経てより深く、より逃れられない愛執へと変貌を遂げていた。
「それでも、私はあなた方をお迎えします。今度は私が、お二人を……貴方を支える番ですから。私のこの想いが、いつか貴方に届くまで」
今汐は小さく息を吐き、乱れた心を令尹としての仮面の下へと推し隠した。彼女は涙を拭うと、再び凛とした今州の最高権力者の顔に戻り、謁見の準備を進めるよう散華への通信を開いた。
特賓宿舎の部屋に入り、周囲の目が完全になくなった瞬間。
伴星が前を見据え、漂泊者を促すように歩みを速めると、漂泊者はすっといつもの涼しげな令嬢の顔を崩し、伴星の背中に後ろから優しく抱きついた。彼女の小さな腕が、彼の腰をきつく、壊れ物を抱きしめるかのように強く縛り上げる。
「新しい始まり。でも、部屋の中では、私の特等席に戻らせてね、伴星」
『はいはい、分かってるよ。お前の席は、誰にも譲らねえよ』
伴星は彼女の手をしっかりと握り返し、愛おしそうにその頭を撫でた。
彼の肩の傷はまだ微かに痛んだが、彼女の体温が触れているだけで、その痛みすらも心地よいものに思えた。
漂泊者は、彼の温もりを静かに感じながら、その胸に顔を埋める。その瞳の奥には、誰にも彼を渡さないという、世界で最も重く静かな執着の光が、変わらず灯り続けていた。自分たちの過去に何があろうと、これからの未来に誰が立ち塞がろうと、この重力から逃れることは誰にもできない。
明日から始まる、中部渓谷での激闘。そして、まだ見ぬ若き令尹・今汐が、伴星に対して抱く深く重い愛執の影。二人の完璧な調和を揺るがす過酷な運命の歯車が回り始めていることを、彼らはまだ、知る由もなかった。
出来るだけストーリーに基づいた進行にするべく調整しています!史実のストーリーで抜けているところとか、追記して欲しい所があれば感想欄にて御意見お願いします!
そして作者が鳴潮で一番好きな今汐が出てまいりました!
かっこかわいい今汐様、頑張って表現していきます!
感想、評価、誤字報告等お待ちしております!
6/20 内容を大幅に改稿しました