目を覚ますとすでに日は沈み、もう一度登っていた。新しい太陽の光が木々の間から降り注ぎ、大地に生きる生命に光を与えている。
「では、さようなら。行ってきます」
最後にもう一度、男は木に触れてその場を後にする。自然に作られたアーチを抜ける時、突然後ろから風が吹く。
【これまでありがとう。良い旅を】
木々は言葉を語らない。彼自身もどんな感情を持っているのかがわかる程度。ただ、この時に限り彼には言葉が聞こえた。それはもしかすると葉の擦れる音、風の薙ぐ音なのかもしれなかった。ただ、彼は明るく笑い、振り返る。
「こちらこそ、ありがとうございました」
そして大きく頭を下げ、家へと向かう。視線の先にはすでに見慣れてしまった女の姿がある。男は空を見るが、陽の角度からしてまだ朝と言われる時間帯。あまり長い時間は待たせていないだろうと推察する。
「お待たせしましたか」
男の声に女が振り返る。木漏れ日を浴びるその表情は陽の影響だけで明るいわけではない。
「いいえ。私もこの場所が少し気に入ってね。散歩しようと思っていたのよ」
「そうですか。それは嬉しいことです。そういえば、今更ですが。貴方の名前は?」
女は男の言葉に驚く。この両者は未だに名前の交換すら終えていなかった。
「あら。まだ名乗ってなかったかしら。思えば互いに名前も知らないわね。私は八雲紫。貴方は?」
「私に名前はないのですよ。だから私から聞くことはしませんでした。八雲紫さんですか。これからよろしくお願いしますね」
それを聞いて八雲紫は怪訝そうにこちらを見る。まるで、信じられないものを見るかのように。
だが、名前がない。これは特段珍しいことではないと男は考えている。名前とは識別子である。同じ空間に同じような見た目の生物が複数いた場合、それらを区別するため、または、他者にその存在を共有する場合に用いられる。
であるならば、男には必要ない。男のような存在はこの場におらず、彼を語る者もいなければ彼と会話する者も居なかった。
実のところ、記憶の薄れて掠れて欠片としても残っていないような過去、まだこの場に人間がきた時、彼には名前があったが彼はもうそれを記憶していない。
「貴方ねぇ...それだと幻想郷に来た時に困るでしょう」
「特段必要もなかったもので、なら貴方が名付けてください」
「貴方ね...名前はそんな簡単に決めていいものじゃないのよ。まぁ、でもないのは困るし特段貴方に意見がないなら私が決めるわ。ただ、時間を頂戴。それと家に入れてくださる?貴方にしっかりと幻想郷の説明をしてなかったことを思い出してね」
男はそれを聞いてそうでしたと笑い、戸を開く。中には昨日と何も変わらない家具。いつものように二者は向かい合って座る。
「ありがとう。では、早速だけど幻想郷について話していくわ。薄々気づいているだろうけれど、妖怪や神は徐々に消えていっている。理由は人間の進化。これまでは説明できなかったことの多くを人間は進化の中で説明できるようになった。結果、畏れや信仰が消え、我々の存在が危ぶまれている。そんな彼らの最後の居場所が幻想郷よ」
「なるほど。神や妖怪の最後の楽園という表現が正しそうですね。興味はありますが、おそらく私がその仕組みについて理解する必要はないのでしょう。何かルールなどはあるんですか」
「ルールね。いくつかあるわ。ただ、貴方に関係あるところで言うと、人を殺さない。人は人以外にならない。過度な発展はしない。諍いが起きたときは弾幕ごっこというゲームで解決すること。くらいかしら」
八雲紫の話を頷きながら聞いていた男は内容を咀嚼するように虚空を見て話し始める。
「なるほど。私は自分で人間を殺したことはないのでそこは問題ありません。一度だけ生贄で若い人間の女の遺体を捧げられたのですが特に人肉が美味しいとも思いませんでしたし、そもそも食欲などがありませんからね。ただ、弾幕ごっこ?というものはよくわかりませんね」
「よかったわ。特に血の匂いはしなかったから大丈夫かと思っていたけれどね。弾幕ごっこは幻想郷で実演するけれど、簡単にいえばゲームよ。お互いに妖力や神力を使って弾を作り、それを撃ち合って一定回数手相手に当てた方の勝ち、一応必殺技のような立ち位置でスペルカードがあるわ。人によっては強さよりも美しさを求めるものもいてね観戦しているだけでも大きな花火のようで綺麗よ」
「諍いだけではなくて娯楽だったり芸術の意味合いもあるんですか、おそらく貴方がつくったのでしょうが、素晴らしいルールですね。外の人間にも見習って欲しいものです」
男は満足そうに笑って賞賛する。その表情には虚飾はなく、純粋だけが残されている。ただ、その瞳には憂いが宿っている。何か思うところがあるのだろう、だがその憂いが何かは本人以外は知り得ない。
「ありがとう。我ながらよくできていると思っているわ。ルールはこんなものよ。では、早速行きましょう」
女は席を立つと昨日と同じようにスキマを開く。瞳が一斉に男を見つめ、その瞳孔の一つ一つが男を写す。
「こちらこそ、ありがとうございます」
男も立ち上がるとスキマの前に立つ。
「いざとなると少しドキドキしますね。ただ、男は思い切りです」
一回の深呼吸の後によっという掛け声と共に男は飛び込む。視界が暗闇に染まる。周囲には大量の瞳。ただその空間は一瞬にして終わる。急激な落下と共に周囲の視界が変わる。周囲を見回すと、全体的に木で作られた作りの内装が目に入る。男のもといた家の面影がある気もするが、異なるのはその大きさ。自分がいるのは巨大なエントランス。左右に道があり、扉が合計で4つ、目の前には何も置かれていないゆったりとした空間、その奥に階段が2階への道を作っている。
「ようこそ、幻想郷へ」
周囲を見回している男の背後から八雲紫が現れる。
「ここが貴方の家よ」
「私以外にも誰はいらっしゃるんですか?」
「いないわ。ここが貴方の家」
「私1人には大きすぎる気が...我々は睡眠も必要なければ食事も必要ないでしょう?一室だけでいいのですが」
彼らの活動には人間のように食事や睡眠が必要ない。故に、ベットやキッチンは必要ない。ただ、食べられないわけでもなく、眠れないわけでもない。生きるためのエネルギーにはならないが、興味や趣味で摂取すること自体はできる。
「妥当よ。この幻想郷はそこそこに広くてね。どうしても日帰りが厳しい場合もあるわ。その時に客を止まらせる部屋が必要でしょう。それに貴方が客を応接する部屋も必要。加えて、貴方が生活する部屋も必要。客を迎えるのだから身なりは整える必要があるから風呂もいるわね。ほら、これだけで四つ」
「確かに...納得しました。ではありがたくいただきますね。でしたら少し地理関係を知りたいのですが、営業も必要でしょう?」
「私が相談家ができるという話は宣伝済みだからそこは心配いらないわ。ただ、人里に行きたい時もあるでしょうし、今地図を渡すわね」
八雲紫は虚空に手を伸ばす。その手はスキマに飲み込まれ、一見切断されたかのような見た目になる。しばらくの後に手を抜くとその手には巻物のような状態になった紙が握られていた。そして、一室に入っていく。
男もそれについていき、入り口から最も近い部屋に入る。そこには机が一つ、その上にはランプが一つ、向かい合うように二つずつ椅子が置かれている。奥には窓が一つあり、空の本棚。がその左右に並んでいた。
「ここを応接室にするといいわ。ただ、自由だから好きに使って頂戴。今地図を見せるから座って」
促されるままに男は席につく。目の前には女によって開かれた紙。そこには手書きで地図が書かれている。それに指を刺しながら女が語り始める。
「正直なところ、実際に行った方が早いわ。けど地理的にはこんな感じよ。ここが貴方の家。ここが人里ね。幻想郷では基本的にここにしか人が住んでいないわ。ここに書いてある神社が博麗神社。博麗霊夢という少女がいるのだけど、彼女が巫女。何か問題が起きた時に解決しているのは基本的に彼女。あと、ここの竹林の奥に所謂病院があるのだけど、単独では入らないように。出て来れなくなるわ。いくなら、妹紅という女を頼りなさい。他にもいろいろあるけれど住む上で必要な情報はこれくらいかしら。本当に好きに生きてくれていいわ」
男はそれを頷きながらも無言で聞いていたが、最後の言葉を聞いて首を傾げる。
「ありがとうございます。気が向いたらいろいろと散歩してみようと思います。ただ、一つ伺わせて下さい。友人だからと言ってここまでしてもらうのはやはりおかしいと思うのです。今更帰りたいなどというつもりはありませんから。理由を聞いても?」
それを聞いた八雲紫は微笑む。だが、男はその表情に違和感を感じる。確かに笑っている、読み取れる感情は喜び、だがどこか寂寥感を感じる。
「秘密よ。乙女には秘密がつきものですもの。ただ、貴方に害を与えようだなんて、そんなことではないの。それだけは信じて頂戴」
「そうですか。わかりました。信じましょう。下手に少女の秘密探るのも無粋ですから。あとこの地図はいただいても?」
男の言葉に八雲紫は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに平静を取り戻す。
「ええ。もちろんいいわよ」
「ありがとうございます。では、申し訳ないのですが、弾幕ごっこについて伺っても?忙しければ別日でも構いませんが」
「いえ、それも今日中に行うわ。貴方が来たのがわかっている以上遊びに来る者もいるでしょうから早めに済ませましょう」
八雲紫が立ち上がるのに合わせて、男も立ち上がり机の上に地図を残し、家の外に向かった。