月の王とかぐや姫 作:名無しのマスター
「……」
2030年5月、GWが終わり、いつもの日常が戻ってきた頃、私は学校の机の上に置かれた一枚の書類を前にして腕を組んでいた。『進路希望調査票』。高校二年生になり、担任の立花先生から配られたそれにどうしたものかと頭を抱えているのだ。
「白野ー、お昼……何か考え事?」
そこへ芦花が声をかけてきた。振り返るといつものようにお弁当を片手に立つ彼女の姿。そして、その後ろから真実が顔を出した。
「あー、進路ねー。悩んでる感じ?」
「そんな感じ」
真実の言葉に頷くと二人とも顔を見合わせ、とある方向を指さす。なんだろうとそちらを見ると私と同じように腕を組んでいる彩葉の姿があった。
「あちらも同じことで悩んでるみたい」
「え?」
彩葉が進路に悩んでいると聞き、思わず、声を漏らしてしまう。彩葉は高校に入学してから必死に勉強している。前に聞いた時は東京大学を目指していると言っていたし、即決だと思っていた。
「とりあえず、提出期限はまだ遠いし、お昼食べよ」
「……そうだね」
「じゃあ、彩葉呼んでくるねー」
芦花は笑ってそう言うと机を動かし始め、真実が彩葉の方へ向かう。それを見た私は進路希望調査票を机の中に入れた。
「ねぇ、彩葉」
「ん~?」
「進路、悩んでるの?」
「っ……あ~」
その日の帰り道、珍しくバイトのなかった彩葉と一緒に帰っていた時、どうしても気になったので聞いてみた。すると、彼女はビクッと肩を震わせた後、気まずそうに声を漏らす。
「まぁ、ね」
「前は東京大学の法学部じゃなかった?」
彩葉と出会った頃、彼女から高校に入ったら奨学金のために勉強すると聞いていた。その際に目指す大学の話もしていたのである。
「そうだったんだけどね……」
「……家に帰ったら話聞いてもいい?」
「……そう、だね。白野には聞いてほしいかも」
予想以上に悩んでいたようで彩葉は静かに頷く。この一年、彼女とはほぼ毎日のように顔を合わせていたが進路について悩んでいた様子はなかった。最近になって悩み始めたのか、ずっと一人で抱え込んでいたのか。それはわからないが少しでも彼女の悩みを軽くしてあげたかった。
それから私と彩葉はアパートに着き、それぞれの家に入る。そして、手短に身支度を済ませて彩葉の家に向かった。
「お邪魔しまーす」
「どうぞー」
別れる前にすぐに行くと伝えてあったのでインターホンを押さずに扉を開ける。彼女も慣れたように私を招き入れた。勉強会の時に座っている場所に腰を下ろすとさっと茶色い液体が入ったコップを差し出される。
「真水ですが」
「絶対、麦茶じゃん」
いつしかのお返しとばかりにボケてきた。こちらも同じような返しをしてコップを受け取り、口に含むと麦茶でもウーロン茶でもない風味が口内に広がった。
「これは……何?」
「ルイボスティー。健康にいいんだって。芦花にもらった」
そう言いながら彩葉も自分のコップを傾け、ルイボスティーをちびちびと飲み始める。聞いたことはあったが初めて飲んだ。こんな味なのか、と感心しているとコトリ、と目の前に座った彩葉がコップをテーブルに置いた。
「それで……話なんだけど」
「うん」
「……なんていうかさ。今までお母さんの後を追いかけてたじゃん? だから、将来もお母さんと同じ弁護士になるって思ってたんだ。でも、最近になって……っていうか、去年、白野に話を聞いてもらってからずっとこれでいいのかなって考えてて」
どうやら、彼女は思いのほか長くこの件について悩んでいたらしい。このままだと倒れてしまうと危惧した私は彼女の
しかし、それは私が思っていた以上に彼女に影響を与えていたのだろう。母親の後をずっと追いかけていた彩葉は初めて母親のことを抜きにして将来のことを考えたのだ。
「自分が何をしたいのかわからなくて……前みたいに何も考えずに進路を書けなくなってた」
「……」
思い悩む彼女を見て私は――失礼ながらホッとしていた。自分のしたいことがわからないから進路に悩む。それは実に高校生らしい悩みだ。むしろ、今までの彼女のように将来、何になるか決めている高校生の方が少ないだろう。
ずっと完璧な優等生を演じていた彼女が普通の高校生と同じ悩みを持つようになった。それが母親のことでずっと苦しんでいた彼女が少しだけ自由になれたような気がして嬉しかったのである。
私だって同じだ。今はヤチヨが待ち望んだ未来に向かって自分にできることをしているがそれが落ち着いたら将来のことを考えなければならない。でも、今の時点で自分が何を望んでいるのか。そもそも、月の聖杯戦争はどうなったのか。何もわかっていない。だから、私も彩葉と同じように進路を決められなかった。
「そっか……これが普通なんだ」
私の言葉を聞いた彩葉はどこか拍子抜けしたような顔で呟く。しかし、進路が決まっていない事実は変わってないからか、難しい表情を浮かべたままだった。
「白野はプログラムの仕事してるしそっち方面にはいかないの?」
「今のところ、その予定はないかな」
プログラムはあくまで
「彩葉こそやりたいことないの? ゲームとか好きでしょ?」
「プロゲーマーってこと? ないない。できても小遣い稼ぎ程度だって」
「小遣い? でも、芦花たちはプロ並みだって言ってたよ」
「大げさに褒めてくれてるだけだよ。プロゲーマーになるのって想像以上に大変なんだから」
どうやら、彩葉はプロゲーマーに関してそれなりに詳しいらしく、なれるわけがないと笑った。おそらく、ゲームが上手いだけではなれないのだろう。確かに唯一、関わったことのある黒鬼たちはゲーム以外にもライブをしたり、案件動画を投稿していたり、と忙しそうにしている。スポンサーとの契約だって運も必要だ。
「……そういえばピアノできたよね?」
音楽の授業の時、先生がピアノを弾ける人はいないかと呼びかけたことがあった。その際、彩葉が立候補し、綺麗な音色を奏でていた。あの腕前は少し習った程度のものではないと素人ながらに思った記憶がある。
「っ……ほんと、白野ってそういうところあるよね」
「そういうところ?」
「自分でも気づかない本心を見抜くっていうか……そうだね、ピアノか」
呆れたように笑った彼女は立ち上がって襖を開けてごそごそと何かを取り出した。それを持ってテーブルの上に置く。
「キーボード?」
「うん、前はこれでよく曲を作ってたんだ」
「……え、曲を作ってた?」
てっきり、幼少期からピアノを習っていたと思っていたが斜め上の回答に驚いてしまう。それを見た彩葉は少し微笑んだ後、目を閉じてキーボードの鍵盤に指を置いた。
「……大丈夫」
そして、自分に言い聞かせるように小さく呟き、静かに鍵盤を叩き始める。音楽に詳しくない私ですらその旋律から心に訴える何かを感じ取り、感嘆の息を漏らした。
「まぁ、こんな感じなんですが……」
「……すごいね、彩葉」
「あはは、そう?」
私の言葉に彼女はどこか照れくさそうに笑う。しかし、すぐに目を伏せてキーボードを撫でた。
「お父さんがさ、作曲家だったんだ。それで子供の頃、一緒に曲を作ってたの」
「……」
「でも、お父さんが死んで……その後も何曲か作ってみたけどなんかしっくりこなくてやめちゃった」
そう語る彼女の目には何も変化はない。父親の死は私と出会う前から受け入れていたのだろう。あるのは懐かしさと喪失感。もう、あの頃には戻れないという諦め、か。
「今からでも間に合うんじゃない?」
「別にこれがやりたいってわけじゃないの。ただ、私が持ってたモノの一つだなーって……白野には知っていてほしくて」
「そっか」
「もう少し考えてみる。私が何をやりたいのか。もし、悩んだ時はまた話、聞いてくれる?」
「……もちろん」
そうやって笑う彩葉の顔を見て私は静かに引き下がった。僅かに
でも、今回の場合、彩葉はそれを自分なりに受け入れている。私が外部からその部分を突っついてもそれ以上、何も起こらない。受け入れているものを突き付けたところで『だから何?』と言われるのがオチだ。
そうなってしまえばあとは自分でどうにかするしかない。受け入れたものを見つめ直し、考えを改めるしかない。そして、今の彩葉はそれをする理由がなかった。人生を変えるような何かが起こらない限り、彼女はそれを見つめ直すことはないだろう。
「湿っぽい話はおしまい! これからヤチヨとザビ子の特別企画があるんだって! そのためにバイトを休みにしたんだから楽しまないと! 白野も一緒に見る?」
「あー……私はバイトがあるからパス、かな」
「そっか、バイトが終わったらアーカイブ見てよ! 絶対面白いから!」
先ほどまでの空気は一瞬にして吹き飛び、彩葉は目を輝かせて鼻歌混じりに晩ご飯の準備を始めた。まだ配信していないのに絶対とは言わないでほしい。プレッシャーがすごい。
そして、この日を境に時々、彩葉の部屋からキーボードの奏でる音が聞こえるようになった。
酒寄彩葉のSGが解明されました
【
昔の記憶。何もかも幸せだった頃の記憶。
時には厳しく、時には優しい憧れの母がいた。
時には意地悪で、特には遊んでくれる仲良しの兄がいた。
時には話を聞いてくれて、時には一緒に曲を作ってくれた大好きな父がいた。
でも、その想い出はもはや過去の話。
憧れた母は先に行った。
仲良しの兄はふと遠くへ行った。
大好きな父は――すでに歩みを止めた。
何気ない時に振り返る。でも、そこに父の姿はない。
だって、彼女はすでに彼よりもずっと先を歩いていたから。
だから、彼女の中の父は何も変わらない。立ち止まって振り返るだけでは何も変わらない。
彼女の中の父を変えるには過去に向かって走るしかない。自分の中に残った何かを見つめ直すしかない。
しかし、今の彼女にはそれをする理由がなかった。
原作開始前時点の乖離点
・月見ヤチヨの知っている未来が変わっている
・月見ヤチヨの傍に寄りそう第三者がいる
・酒寄彩葉の母親に対する考え方が変わっている
・酒寄彩葉が進路に悩んでいる
・原作よりも先に酒寄彩葉がキーボードに触れている
・ツクヨミにコードキャストが実装されている
・岸波白野がいる