月の王とかぐや姫 作:名無しのマスター
「……」
ほとんど何もないアパートの一室にうつ伏せで倒れている女が一人。死因は手続き死。少しウェーブの入った茶髪はぼさぼさであり、明らかに艶が消えていた。
初日はまだよかった。約束していた不動産屋と合流した後、アパートの内見を行い、問題はなかったため、すぐに契約。その後、市役所に行って転居届を提出。同時に住所変更を行った。その頃にはすでに夕方になっており、他の手続きは次の日にしようとコンビニでお弁当を買って帰宅。そこで服や布団を買い忘れたことに気づき、硬い床に転がることになった。
その次の日、ガチガチに固まった体に鞭を打って朝早くから外出。最初に行ったのは銀行だった。通帳の住所変更、手元に通帳、カードがないため、それらの再発行を実施。更にいくらかの現金をその場で引き出す。これで当面の間は大丈夫だろう。
次に向かったのは携帯ショップ。機種にこだわりはないため、さくっと決めて手続き。成人扱いだったため、特に問題なく完了した。
それから家電や家具、衣服の調達。必要最低限な物だけをピックアップして購入した。買った商品の数は少ないため、冷蔵庫などの自分だけでは運べないものの搬入も完了済みである。なお、街中を駆け回ったため、その日もコンビニのお弁当で夕食を済ませ、買ったばかりの布団で寝た。
そして、それから数日ほどかけて必要な物を揃えていき、思いつく限りのことをやり終えた私は達成感を抱きながら死んだ。まさか一人暮らしをするための準備がこんなに大変だったとは。
(でも、これで……)
死に体の体でフラフラと顔を上げ、小さく笑う。必要最低限の物しかない寂しい部屋だが、これから私が暮らしていく場所だ。そう思うと不思議と愛着が湧いてくる。
シンプルなデザインの冷蔵庫。一人で食べるには十分な広さのある折り畳み式のテーブル。高校再入学に向けて勉強するための机。ここからは見えないが洗濯機もある。
「……」
病院で目を覚ました時はどうなることかと思ったが、人間やろうと思えばできるものだ。そう思いながらなんとか立ち上がって机とセットで買った椅子に腰かける。そこには真新しいノートPCが一つ。このネット社会、スマホとPCがなければ何かと不便なことが多いだろうと買った。セットアップは終了しており、いつでも使用可能な状態だ。
「……」
時刻は午後三時過ぎ。今日から自炊する予定だが、準備はもう少し後でいいだろう。
そう判断した私は少し気になっていたことを調べるため、ノートPCを起動。そして、検索エンジンに『月見ヤチヨ』と打ち込んだ。そう、退院した日にスクリーンに映った白髪の女の子である。
月見ヤチヨ。仮想空間『ツクヨミ』の管理人兼AIライバーであり、ライブや配信活動を行っている。その歌声はとても美しく、魅了されてファンになる人が多いという。それもあって彼女は電子の歌姫と呼ばれることもあるらしい。
試しに音楽を聴こう、と動画投稿サイトに投稿されている彼女の曲を探す。すると、カバー曲を含めるとそれなりの量があり、どれを聴くか悩んでしまった。
(とりあえず、デビュー曲か)
カタカタターンとデビュー曲を検索。『Remember』がヒット。ほほーん、『
そんな自虐をしながら曲を再生すると軽快な音楽と共に透き通った歌声が響いた。優しい歌詞と寄り添うような歌い方に自然と引き込まれる。なるほど、これは確かに人気が――。
――その歌はね、とっても大切だったんだ。
「……」
また、どくんと胸の中で何かが動いた。とても大切なことを忘れているような焦燥感と原因不明の安堵感。もしかして、記憶を失くす前の私は『月見ヤチヨ』のファンだったのだろうか。
でも、わかるかもしれない。言葉にするのは難しいが彼女の歌はスッと胸の中に入ってくるような感じがする。
それから私は『月見ヤチヨ』の曲を漁り、気づけば日はすっかり沈んでしまい、今日もコンビニのお弁当になってしまった。