月の王とかぐや姫 作:名無しのマスター
車酔いに近い浮遊感の中、ふと味噌と生姜の匂いが鼻孔をくすぐる。人間の体とは素直なものでその香りで自然と目が覚めた。
「美味しくなぁれ~♪」
まだふらつく体を起こすと台所では何故か出会った時の髪色になっているかぐやが鼻歌を歌いながら料理をしていた。その後ろ姿を見てぼーっとしながら出会った頃よりも随分と髪が伸びたな、などと呑気なことを考えてしまう。
(家? なんで……)
意識が朦朧として今の状況を把握できない。確か、かぐやに出かけようと言われ、その道すがら目が飛び出すほどの家賃を請求するマンションがどうとか――。
「っ……そうだ、バイト!」
スマホの時計を見ればすでにシフトに入る時間が過ぎていた。慌てて立ち上がろうとしたがガクンと体から力が抜けてその場で片膝を付いてしまう。
「あ、彩葉! 大丈夫!?」
私が動いた物音で気づいたのか、かぐやがぐるりとこちらへ振り返った後、慌てて駆け寄ってきた。それはいいがお玉を置いてきてほしい。
「うん、大丈夫。じゃあ、私、バイトあるから」
「いやいやいや! さっきまで倒れてたのに何言ってんの!? バイト先にはお休みの連絡入れたから休んでぇ!」
「休みの連絡……」
彼女の言葉を聞き、スマホを操作してSNSの店長とのやり取りを表示する。すると、かぐやが私の妹を名乗って休む旨を伝えていた。ビデオチャットもしているし、髪色を変えたのはこれのため?
「ありがと……」
「だから、ご飯ができるまで寝てて! ふかふかも置いておいたからたくさんふかふかしてね」
上手く回らない頭で先ほどまで寝ていた場所を見下ろすと確かにぬいぐるみがたくさん置いてあった。服も制服からいつもの寝間着になっているし、何から何までやってくれたらしい。
「あ、そうだ、病院! 彩葉が起きたら病院に連れてけって言ってた!」
「言ってたって……誰が?」
「白野!」
どうやら、白野にも迷惑をかけてしまったようだ。お礼を言おうと周囲を見渡すが彼女の姿はない。こういう時、こっちの部屋で待機していそうなものだが、今日は用事があると言っていたから自分の部屋にいるのだろう。
(でも、病院か……)
正直、行きたくない。おそらく熱中症だが、万が一、点滴や入院になったら治療費がかかる上、時間も取られる。まだ将来、何をしたいかわかっていないが少しでもいい大学へ行くために奨学金が貰えるようにはしておきたい。だから、勉強をする時間を削りたくないのだが、病院に行かなかったら白野にお説教されてしまうだろう。
「……明日も体調悪かったら行く」
そして、私の口から出たのは様子見だった。しかし、かぐやの満足のいく回答ではなかったのか、ムッとした表情を浮かべる。
「えー! 今すぐ行こうよー!」
「お金かかるし、時間もないから」
「むー……ずっと不思議だったけどなんで彩葉はそんなに頑張るの? 白野も大概だけど彩葉みたいに無茶してないよ?」
「……違う。私以上に大変なのは白野だよ」
気づけば低い声でそう言っていた。そして、ハッとして顔を上げると案の定、かぐやは不思議そうな顔をして首を傾げている。
「それってかぐや、聞いていいやつ?」
白野は記憶喪失な上、両親は共に他界。頼れる親戚がいない状態で一人暮らしをすることになった。きっと、私の知らない苦労もたくさんあっただろう。
それに比べ、私はどうだ? 母親に反発するような形で上京し、節制の加減がわからずに不覚にもたった数日で餓死寸前にまで陥り、結局、白野に助けてもらった。それから白野に追いつけるように自分なりに頑張っているがその差は縮まっているような気がしない。助けてもらうばかりじゃなく、彼女の隣を歩きたいのにいつまで経っても白野には届かなかった。
しかし、そのことを私からかぐやに伝えるわけにはいかない。白野はかぐやに記憶喪失のことは伝えているが両親のことは言っていなかったはずだ。本人からしたら言うほどのことではないと考えているようだし、私から言ったところで特に文句は言わないだろう。
「……駄目なやつ」
だが、そうだとしても第三者から伝えていい話ではないことは確かだ。だから、少しだけ不安そうにしているかぐやに首を振ってみせた。
「そっか。なら、聞かない。でも、白野が大変だからって彩葉が無理する必要はないと思う」
「それは……はい、その通りです」
何故だろうか、一瞬だけかぐやの話し方が白野に似ていたような気がする。そのせいで思わず素直に頷いてしまった。
「……でも、かぐやがめっちゃ振り回したからぁ! ごめんねぇ、彩葉、死なないでぇ!」
「温度差えぐいな」
しかし、その雰囲気も一瞬で解け、かぐやはボロボロと大粒の涙を零しながら縋りついてくる。さっきのキリっとした様子は何だったのかと思わず苦笑を浮かべてしまった。
「さすがに死なないよ」
「だってぇ、映画とかだと人間すぐ死んじゃうじゃーん!」
「ただの熱中症だってば。とにかく、まだ体にダルさはあるけどひとまず大丈夫そう」
「なら、いいんだけど……それでなんで彩葉はそんなに頑張ってるの? 白野が理由じゃないんだよね?」
「うっ……えっと――」
話を逸らそうとしたがかぐやからは逃げられなかったらしい。いつもなら強引に話題を変えていたが熱に浮かされた頭では正常な判断ができなかった私は自然と口を開いていた。
死んじゃったお父さんの話。出て行ってしまったお兄ちゃんの話。変わってしまった母の話。正しさに潰されそうになった私の話。思いつく度にポツポツと話していたからあまり上手く話せなかったがそれでもかぐやは真剣な表情を浮かべて聞いてくれた。
「――それでお母さんと話し合って学費も生活費も自分で稼げるならって一人暮らしを許してもらったの」
「なんかすっごい簡単に言ってるけど誰もそんなことしてなくない? あ、いや、白野も同じか。でもさ、やっぱり彩葉と白野が特別なだけで他の人はそこまでしてないというか」
「そうかもだけど……この部屋で初めて起きた時、『ああ、これから自分の力だけで生きてくんだ』って思うと力が湧いてきた。ラッキーって」
「いやいやいや、ラッキーじゃないっつーの! 宇宙人調べでもお母さん激ヤバおかしいだって!」
「……そうかもね」
かぐやの言い草に思わず苦笑を浮かべてしまった。きっと、一年前までの私ならかぐやの言葉に笑うことはできなかったはずだ。むしろ、ムッとしてしまったかもしれない。
「……でもね。東京に来た日に白野に出会ったの」
「白野に?」
「うん、私がこのアパートに着いた時にたまたま外で鉢合わせたんだけど……多分、あの時にね。憧れたんだと思う」
トラブルで遅刻して、汗だくになって走ってきた私にそっとハンカチを差し出してその汗を拭き取った彼女はとても格好よく見えた。その姿は私がかつてその背中を追いかけた母親のようで――それでいて母親とは全然違う、本当に自由に生きているような印象を受けた。冷静になって考えてみればあの時、『ああ、きっと彼女こそ私が目指したい姿なのだろう』と無意識に考えていたと思う。
「まぁ、蓋を開けてみればとんだ
「あれは酷いよね~……今はお母さんのことはあんまり気にしてないの?」
「気にしてないって言ったら嘘になるけど……白野のおかげでそんなに気にしてないと思う。まぁ、まだ電話するのは怖いから全部無視してるけど」
その時点で私はまだお母さんのことを完全に吹っ切れていないのだろう。でも、今は日々を暮らしていく方が大事だった。二つ隣の部屋に住む憧れ女の子に追いつくために。
「そっかぁ……って、結局、彩葉が頑張ってる理由って白野じゃん!」
「……そういえばそうかも」
もちろん、奨学金を貰うために勉強していることは嘘じゃない。バイトも生活費やヤチヨやザビ子のために稼いでいた。だが、奨学金を貰うだけなら体調を崩してまで勉強する必要はないし、生活費も祖父母からの仕送りをもっと使えばいい。
だが、私はそうはしなかった。最初に決めたことを辛い、苦しい、楽をしたい、などとそれっぽい理由を付けて曲げてしまったら白野に追いつけないような気がしたから。言ってしまえば、ただの意地。私のちっぽけな
(でも、こんなに頑張ってるのは多分……)
確かにきっかけは白野だった。でも、最近、妙に頑張っていたのは間違いなくかぐやの影響だ。どんなことにも真正面から突撃して成功しても、失敗しても楽しそうに笑って――彼女には白野とは違った自由さがあった。だから、私も彼女みたいに頑張ればもしかしたらって。そう考えていたのかもしれない。
「……」
「かぐや?」
「……ううん、何でもない。話してくれてありがと! 白野がね、熱中症の他に夏風邪を引いてるかもって言ってたからご飯食べた後に念のためにお薬飲んで寝よっか」
「う、うん……」
一瞬、かぐやの顔が違う人のように見えた。しかし、それに関して問う前にかぐやは立ち上がって台所へと向かう。そして、テキパキとご飯の準備をしてお盆を持って戻ってきた。
「本日のメニューは……ネギ味噌生姜と卵おじや。まずは鰹節と細かく切ったネギとおろし生姜を――」
「――長い長い」
病み上がりの人に聞かせるには濃い説明にツッコんでしまう。彼女も無意識で解説していたのか『おっとっと』と慌てて口を閉ざして誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
「卵は二つ入ってるよ。あつあつだからふーふーして食べてね」
「いただきます……あちっ」
いい匂いを漂わせるおじやを前に手が勝手に動いてその熱さに思わず声を漏らしてしまう。今度は落ち着いて息を吹きかけた後、一口。
「……超美味い」
「でっしょぉぉぉぉぉぉう?」
渾身のドヤ顔を披露するかぐや。よかった、いつものかぐやだ。安心した私の意識はすっかりおじやの方へ移り、先ほど見た彼女の顔のことはいつの間にか頭から抜け落ちていた。
彩葉の言った『憧れ』に他意はありません。
あの、本当です。本当にただの憧れなんです。
でも、彩葉さん、大事なことを心の中で思ってるだけでかぐやさんに伝わってないですよ……。